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第4話 淫靡なるナルキッソス――触れたい、触れられたい

(……どれほど、経った?) それなのに―― まだ、消えない。 唇にも、胸筋にも。 (……違う、そんなもの、ない) 違う。そんなはずはない。 ……ただの診察だった。 あの手が触れたのも、あの声が近づいたのも、必要な処置だった。 そうに決まっている。 だから―― 思い出す理由なんて、どこにもない。 「……っ、くそ……!」 乱暴に額を押さえ、相馬昴は息を吐く。 今さら、何を考えているんだ? ただの診察だった。 ただの――診察だったはずだ。 なのに。 時間が経つほど、指の熱は輪郭を帯び、 忘れようとするほど、あの声は耳の奥で静かに滲む。 (……ふざけるな……) 頭を振り払い、ジムへ向かう。 梅雨の湿った空気が、肌にまとわりつく。 思いまでじっとりと染み込ませるように。 考えは、雨水を吸った草木のように膨らみ、刈り取る間もなく生い茂る。 ――そのとき。 ぽたり。 一滴の涙が、記憶の淵に沈む。 白衣の上に滲んだ、あの雫。 熱くも、冷たくもなく、ただ皮膚を滑り落ち、 触れた瞬間、静かな波紋が広がり、胸の奥の何かが揺らぐ。 「……っ、バカバカしい……」 相馬は傘をたたんだ。 鬱陶しい雨粒をそのまま頬に受ける。 このまま雨に溶けてしまえば、少しはマシになるだろうか。 「……っ、グズグズするな。行くぞ……」 身体を動かせば、余計なことなど考えずに済む。 汗をかき、筋肉を焼くような負荷をかければ、すべてを忘れられる―― ……はずだった。 ジムに足を踏み入れた瞬間、熱気が肌を包んだ。 鉄の冷たい匂い。 肌を焼く汗の蒸気。 充満する、男たちの熱。 蒸れた空気を、相馬は無意識に鼻へと送り込む。 染みついたこの匂いが、妙に心地いい。 脳の隙間という隙間が、それで染み渡るように満たされていく。 鉄器が擦れる音、ダンベルが床に落ちる音、荒い息遣い―― 次第に薄れ、遠のいていた。 代わりに、意識のすべてを占めるのは、染みつく濃厚な気配。 気づけば、もう一度、深く息を吸っていた。 より鮮明に、よりはっきりと感じる、男の匂い。 (……悪くない) その考えがよぎった瞬間、相馬はわずかに顔を振った。 何を考えているんだ。 タンクトップの裾を軽く引き下げ、鏡の前へと歩いた。 鏡の中、濡れた髪が額に張りつき、首筋を伝う雫が鎖骨を撫でる。 布が吸い付くように密着し、肩の輪郭を際立たせる。 胸を伝う雫が、肌をなぞるように滑り落ち、腹筋の奥へと消えていく。その軌跡を、目が追ってしまう。 指先がタンクトップの裾をさらにわずかに引く。 ふと、息を詰めた。 ――これは、本当に俺の身体か? 見慣れたはずの輪郭が、今はどこか違って見える。 知っているはずの肌が、妙に生々しい。 湿った繊維が肌に馴染み、筋肉の輪郭を際立たせる。 張りついた布の向こう、胸の膨らみは半ば露わになり、水を纏いながら静かに浮かび上がる。 水面から生まれる蓮の蕾のように、儚くも艶やかに――。 摘み取る衝動に駆られるのに、触れることがためらわれる。 近づくことも叶わず、それでもなお、婉然に人を惑わせる。 鏡の中の男が、じっとこちらを見つめ返していた。 まるで――誘うように。 (……鏡の中の俺は、俺じゃないのか?) そこにいるのは、自分のはずなのに。 なのに、別の存在のように思えた。 ――私が見ているものは、決して触れられないか。 私が求めるものは、決して手に入らないか。 威風堂々たる肩の広がり、剛と柔が交差する腰の曲線―― それは妖精の巧みな細工であり、神の妙手が生み出した傑作。 血肉に宿る美、その姿は、夢と現の狭間に佇む。 この手を伸ばせば、鏡の中の彼は応えるのか? この指先で、濡れた肌の熱を感じることができるのか? (……くだらねぇ) 視線を逸らそうとする。 だが、鏡の中の男のまなざしが、妙に滲むように揺らいで見えた。 雨を含んだ睫毛が伏せられ、眉間にかすかな影が差す。 肌を伝う水滴が、男らしい輪郭に儚げな色を添えていた。 誘われているような気さえする。 「っ……」 ……これは、何の冗談だ。 喉の奥で呟き、強引に鏡から目を逸らした。 ふと、視界の端に影が揺れる。 短く刈られた髪が汗に濡れ、盛り上がった肩が滑らかに動く。 厚みのある僧帽筋、無駄なく引き締まった広背筋。 バーベルを握る腕には、洗練された力が宿っていた。 自分と遜色ない体躯――いや、それどころか、均衡の取れた鋭さがある。 だが――知らない。 このジムには、何度も通っている。 強者の顔ぶれは、嫌でも記憶に残るはずだ。 なのに、彼の姿が思い出せない。 互いに目を合わせることなく、互いの存在だけを感じているような距離感。 それは、強者同士が互いに干渉しない、本能的な距離感なのか。 あるいは――縁がないのか。 バーベルが軋む音。 男が、肩越しに僅かに首を傾けたように見えた。 相馬は拳を握りしめ、深く息を吐く。 このざわつきを、バーベルの重みで押し潰すしかない。 ラックに並んだバーベルのグリップを握った瞬間、 掌に冷たい鉄の感触が広がる。 熱を帯びた肌に、じわりと沁み込む冷たさ。 その対比に、一瞬、背筋がざわついた。 思わず、指先に力を込める。 ――意識を逸らせ。 ベンチプレスの台に横たわる。 手にしたバーベルは、いつも通りの重量。 強く握り込み、ゆっくりと持ち上げた。 全身の筋肉が収縮し、僧帽筋から肩甲骨にかけて張り詰める感覚が広がる。 だが―― 持ち上げるたび、胸を張るたび、脳裏にこびりついた指の記憶が蘇る。 ――もしも、そこに指があったら? ――冷たく、それでいて熱を孕んだ指先が、肩から鎖骨を辿り、胸板へと滑ったら? さらに。 ――そこを、撫でられたら? ――押し潰されたら? ――爪が食い込み、抗いきれないほどの力で抑えつけられたら? 「……っ!」 バーベルを持ち上げるはずだった腕が、一瞬、力を失う。 咄嗟に振り払うように、バーベルをラックへと戻した。 (何を考えてるんだ、俺は……!) 必死に頭を振る。 深く息を吸う。 ――だが、視線は抗えなかった。 隣のベンチプレス台。 男が、バーベルを持ち上げている。 張り付いたタンクトップが、分厚い胸筋を包み込む。 見慣れたはずの光景――なのに、今日は違う。 ――この肉を、掌で確かめたら? ――この弾力を、指先で辿ったら? (……っ、そんなはずは……) 目を逸らそうとする。 だが、その瞬間、視界の端に別の男の姿が映った。 スクワット。 深く沈み込むたび、張り詰める太腿と臀部。 立ち上がるたび、汗を纏った筋肉がぎゅっと締まり、形を変える。 ――もしも、その短パンの下、わずかに透ける布一枚だったら? ――もしも、その肉厚な尻を、背後から押し込んだら? (……っ!!) 思考を振り払おうとしたが、すでに遅い。 脳内で暴走するイメージに、心臓が跳ね、呼吸が浅くなる。 「っ……!」 耐えられず、水を飲もうとボトルを手に取る。 瞬間――「相馬君、お疲れ様です!」 ――ビクッ!! 突然の声に、全身が跳ねた。 隣のトレーナーが、親しげに肩を叩く。 その衝撃で、握っていたボトルが傾いた。 バシャッ 冷たい水が、胸元にこぼれる。 ――ピタッ。 タンクトップが濡れ、肌に張り付く。 冷感が、熱を持った皮膚をなぞるように伝わる。 水滴が、鎖骨のラインを滑り、厚い胸板の谷間へと流れ落ちていく。 ひんやりとした感覚が、背筋を撫でる。 思わず、息を呑んだ。 「わっ、すみません!」 慌てたトレーナーが、そばにあったタオルを手に取り、相馬の胸元を拭き始める。 ――ごし、ごし、ごし。 粗い布が、水滴を吸いながら濡れた肌を擦る。 胸筋が、微かに震えた。 (……くっ……) タオルの感触が――妙に、思い出させる。 久住の手。 胸を這った、あの指先。 皮膚をなぞる、あの軌跡。 「すぐ乾きますからね!」 トレーナーの手が、無造作にタオルを滑らせる。 相馬は、その動きをじっと見つめていた。 布の動きに合わせて、胸筋がわずかに揺れる。 触れられることを待ち望んでいるように―― (……もっと) もっと、強く。 もっと、乱暴に。 いや、それより―― (……タオルなんて、いらない) 繊維越しの感触ではなく、直接、肌に手が這ったら? 指先が、汗と水滴をなぞりながら、確かめるように押し広げたら? 拭われるたび、胸の奥にうずくような熱が広がる。 このまま、もっと―― 「……っ」 喉がひくりと鳴る。 相馬の手が、無意識に動いた。 拭うトレーナーの手を掴み、そのまま自分の胸に押しつける。 「えっ……?」 戸惑う声が耳に届いたが、相馬は気にも留めなかった。 タオル越しの摩擦。押しつけられる温度。 「もっと……」 指が僅かに強く食い込む。 タオル越しに伝わる熱と圧が、皮膚の奥まで染み込んでいく。 その瞬間――まるで久住の指が、そこにあるような錯覚に襲われた。 (……これだ……) 脳裏で繰り返し焼きついていた、あの感触。 叶うはずのない記憶が、現実になったかのように―― 「相馬君?」 ――その一声が、全てを断ち切った。 「……っ!!」 我に返る。 ハッとして、慌てて手を離した。 「相馬君?大丈夫?」 夢の中にいたような気分が、一気に現実へと引き戻される。 視線を落とすと、自分の指がまだ僅かに震えていた。 「……あ、ああ。悪い、ボーッとしてた」 顔を背け、乱暴にタオルを奪い取る。 冷静を装い、何事もなかったかのように自分で拭いた。 (俺は……何を考えているんだ……) 喉がカラカラに渇く。 だが、それでも――視線だけは、無意識にトレーナーの腕へと引き寄せられていた。 ジムを出ても、身体のほてりは収まらなかった。 雨は、いつの間にか止んでいた。 濡れたアスファルトが街灯の光をぼんやりと映し、生温い湿気が肌に絡みつく。 ジムに充満していた鉄と男の匂いは消え、代わりに、雨上がりの淀んだ空気が肺を満たす。 だが、それでも―― 二つの感覚が絡みつき、相馬の中で奇妙に重なっていた。 喉の渇き。 だが、本当に乾いているのは、喉なのか。 (……くそ) 額を乱暴に押さえる。 だが、熱は冷めない。 肌にまとわりつく湿気と、こびりついた感触。 どちらも、拭い去れない。 分からないまま、相馬は夜の街を歩いていた。 ――その時。 向こうから、一人の男が歩いてくる。 鍛え上げられた厚い胸板と引き締まった腰。 脂肪と筋肉が絶妙なバランスで共存し、スーツのシルエットに浮かぶ。 歩くたび、Yシャツのボタンの隙間から覗く胸元が上下し、ウエストラインがしなやかに動く。 スラックスに包まれた臀部は、力強く、それでいて滑らかに形を変え―― 視線が、吸い寄せられた。 (……何やってんだ、俺は) だが、足は止まらなかった。 むしろ、無意識に距離を詰めていた。 歩幅が、相手のリズムに合っていく。 生地越しに、豊かな肉感が弾み、沈み、また弾む。 (……触れたら、どんな感触なんだろう) 思考がよぎった瞬間、喉がひくりと鳴った。 ――信号待ち。 男が足を止める。 スラックスのポケットに片手を突っ込み、ビジネスバッグを持つ腕がわずかに傾ぐ。 その瞬間―― 相馬の心臓が、大きく跳ねた。 片足に体重をかけたことで、尻のラインが強調される。 Yシャツの裾がずれ、スラックスに包まれた肉の膨らみが露わになる。 張り詰めた生地の下、詰まった弾力。 引き締まった丸みと、わずかに沈み込む腰の窪み。 視線が、釘付けになった。 (……触れたい) 掌を密着させ、指で確かめたら? 押し返す感触を味わったら? もっと、もっと深く指を沈めたら――? 「……っ」 無意識のうちに、相馬の指が動く。 ほんの一瞬。 上着の裾に触れそうになった、その瞬間―― 「……」 不意に、男が振り返る。 ――目が合った。 「……!?」 思わず目を逸らそうとした。だが、できなかった。 なぜなら―― 男は、相馬の視線を真っ直ぐに受け止めると、微かに口角を上げ―― ゆっくりと、自分の胸へと指を滑らせた。 「……っ!」 分厚い指が、Yシャツ越しに胸筋を押し撫でる。 円を描くように、掌が滑る。 そして―― もう片方の手が、スラックスの後ろへ。 生地の上から、肉厚な臀部を握り込むように。 (……え?) 相馬の思考が、止まった。 俺の考えを、読んでいるかのように。 違う。 いや、本当に違うのか? ――この男は、俺の思考を映す鏡なのか? 揉むたびに、肉が弾む。 指が沈むたび、弾力が押し返す。 ボタンにかかる指先。 ゆっくりと、ひとつ外される。 彼の指が、布の向こうに何かを探るように、ゆっくりと沈み込む。 抗おうとする意思とは裏腹に、熱がそこに集まるのを感じる――。 (……違う) いや、本当に違うのか? 指が這うたび、俺の肌にも同じ痕が刻まれていくようで―― 皮膚の裏側にさえ、男の指が触れている錯覚。 吸い取られるように、熱が伝播する。 ――この身体は、俺なのか? それとも――俺の手が、目の前の男を操っているのか? 意識が滲んでいく。 今、動いているのは俺なのか? それとも――彼の指が俺をなぞっているのか? 指が埋まるたび、蘇る。 久住の指。 あの熱――。 そして―― なぜだ……。 目の前の光景が、俺なのか、彼なのか――分からなくなる。 だが、確かに、なぞられている。 俺の身体が。 俺自身が触れられているかのように、背筋に痺れが走る――。 その時―― プァァァン――ッ!! 突然のクラクションに、相馬は弾かれるように後ずさった。 信号は青に変わり、人々が流れるように横断歩道を渡っていく。 どこにも、いない。 残るのは、微かな匂い。 皮膚の上に残る、わずかな温もり。 そんなはずはない。 そう思うのに。 指先が、まだ、熱を帯びていた。 心臓は異常なほどに速く打ち、背筋には冷たい汗が張り付く。 「……くそ……俺、何を……」 指先を見ると、微かに震えている。 違う、違う――そう思い込もうとする。 だが、何が違うのか、自分でも分からない。 ふと、ショーウィンドウに映る自分。 そのはずだった。 けれど――何かが違う。 指先が、動いた気がした。 鏡の中の俺が、俺を模倣しているように。 いや、違う。 そんなはずはない。 それなのに――ぞわり、と背筋を冷たいものが撫でた。 (俺は……自分を……?) 瞬間、相馬は目を逸らし、足早に歩き出した。 だが―― 久住の指の感触は、どうしても消えない。 喉を鳴らす。 どれだけ水を飲んでも、喉の渇きは消えない。 いや――乾いているのは、本当に喉なのか? むしろ、熱は、より深く体の奥を焼いた―― * * * * * 久住が牙を剥く。獲物として狙われた相馬の肉体に、いよいよ触れる時が来た。 連載進行中、毎週金曜更新予定。 すぐに全話を読みたい方は、有料配信ページをご利用ください。 詳細を知れるブログのリンクは、説明欄の下部にあります。 https://ci-en.dlsite.com/creator/30033/article/1422322

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