1 / 16

出会い

仕事を終えて、まっすぐ帰るだけの道。 誰とも関わらず、何も起きないまま一日が終わる。それでいいと思っていた。 この日も同じはずだった。 駅へ向かう途中、近道のために通った路地裏。 湿った空気と、薄いネオンの光だけが落ちている場所。 そこで、一之瀬澪は足を止めた。 壁にもたれかかるようにして、座り込んでいる男。 茶色の髪、整いすぎている顔立ち。 そして焦点の合っていない茶色の瞳。 澪は一瞬で理解した。 面倒なものに関わる必要はない、と。 そのまま通り過ぎようとした。 「おにーさん」 背後から声が落ちる。 無視する。 そう決めて歩き出した瞬間、腕を掴まれた。 指先はひどく熱いくせに、力は妙に弱い。 「……吐く」 短い言葉に澪は、ため息をひとつ落とした。 「勝手に吐け」 そう言って、振りほどこうとしたが男は離さなかった。 「わー、キレイな顔。おにーさんいくつ?」 ふざけた声。酔っているのは明らかだった。 顔をあげたその男は、ゆるく笑っている。 「……人様に年齢を聞く時はまず自分からと教わらなかったのか、ガキ」 鋭い視線を送ると、目を丸くしながら口角をつりあげた。 「そうだね、美波仁都(みなみにと)。俺ハタチ!」 澪はその名前を一度だけ脳内で反芻(はんすう)した。 どこかで見たことある顔。 だが、澪にとってはそんなことはどうでもいい。 もう一度、手を振りほどこうとした瞬間だった。 「……っ」 澪が手を離すより先に、仁都はその場に身を祈る。 嫌な予感だけが先に来る。 「おい――」 言い終わる前に、路地裏に鈍い音が落ちた。 スーツの裾に、温かい感触が飛び散った。 澪は一瞬動きを止め、視線を落とす。 スーツの一部が、すでに汚れていた。 「……最悪」 低く吐き捨てる声。 目の前でしゃがみこんだまま荒く息をしている。 さっきまでの軽薄な笑みは消えていた。 「……やべ、無理だった」 「なにが」 「全部」 曖昧な返事が話にならない。 澪は一歩後ろに下がる。 その瞬間、仁都がまた手を伸ばした。 今度は掴むというより、縋るような動き。 「待って」 「無理」 即答するが、仁都は離さない。 力は弱いのに、必死に縋る。 澪は小さく舌打ちをする。 本来ならこれ以上、関わる必要はない。 仁都の方へと視線を落とす。 息は荒く、肩が小刻みに揺れていた。 「……スーツ」 澪が短く言うと、一瞬だけ目を開けた。 ぼんやりとした視線が、澪の汚れを捉えた。 「……ああ」 その軽さに、澪の何かが切り替わる。 「弁償する気はあるんだな」 「あるある」 「立て、アホ」 「無理、立たせて」 澪は諦めたように息を吐いた。 「倍にして返せよ」 そう言って、腕を掴みあげた。 想像より軽い体が、ぐらりと傾く。 「ハハ、おにーさんいい匂い。優しいね」 「……スーツのためだ」 そう言って路地裏を背に歩き出した。

ともだちにシェアしよう!