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第1話
ふっくらとした唇にキスをしたら。デッサンではない本物の唇にキスをしたら。どんなに幸せだろう。
そんな夢見事に耽りながら、描き慣れた友人の絵を描いている。考えなくても手が動くのは、本人が目の前にいるおかげだけじゃない。手が、こいつの描き方を覚えている。
描いた絵を夕陽が照らした。白黒の絵が紅く照らされた。
夕暮れ時の美術室が好きだ。
窓の向こうの校庭では運動部が部活動に励んでいた。真っ赤な夕陽が運動部ごと校庭を照らす。いつもなら、こいつも照らされている。
こいつーー須田裕一は昨日、バスケ部の練習中にねんざをした。自分ができないならつまらないといって、バスケ部の見学をサボっている。放課後に美術室に顔を出した須田がヒマそうにしていたので、デッサンの題材になってもらった。
「なあ、くしゃみでそう」
「ティッシュいる?」
「うん」
木製のテーブルの上にあるティッシュボックスを手渡す。デッサンの題材になるのがはじめての須田は「まったく動いちゃいけない」と思いこんでいる。そんなことはない。自由にしてくれていいといっても、かちこちなままで椅子に座っている。
鼻をかんだティッシュをゴミ箱に投げ入れる。バスケ部のエースなだけある。丸まったティッシュは完璧なコントロールでゴミ箱にシュートされた。
格好いい。胸が高鳴った。
「ここ、こんなに綺麗に夕陽がみえるんだ」
「眩しい?」
「へいき」
北欧の血が入っている須田の顔つきは整っている。須田のおじいさんはデンマーク出身だ。須田の実家よりもおじいさんの家のほうが高校に近いので、須田はよくおじいさんの家で寝泊まりをする。俺も何度も遊びに行った。今日もこのあと、夕飯を食べに行く予定だ。
画用紙に鉛筆をすべらせる。まっすぐに通った鼻筋。ふっくらとした唇。ほどよく肉のついた頬。須田の顔のパーツは人形のように整っている。なかでも一番好きなのは、アーモンドの形をした瞳だ。グレイの瞳は透き通ってみえる。光彩の入り方が黒い瞳とは違う。
小さい頃の須田は天使だった。細くて長い手足にふっくらとした頬。グレイの瞳はきらきらしていた。小学校に転校してきた須田に、俺は、たぶん、一目惚れをした。隣の席になった須田はまだ日本語に慣れていなかった。カタコトの日本語でもしきりに話しかけてくる須田と仲良くなった。言葉はあまり通じていなかった。言葉が通じなくても、一緒に遊んだら関係ない。砂場で山をつくったり、鉄棒で逆上がりをしたり、ジャングルジムをのぼった。
須田にとって俺は日本ではじめての友達になった。俺にとっても、須田ははじめての友達だ。人見知りの激しかった俺は、幼稚園でもロクに友達ができなかった。いつもひとりで絵本を読んでいると、幼稚園の先生にすら心配された。
日本語が上達すると共に、須田には友達がどんどん増えていった。小学校の三年生になる頃には、須田は人気者になった。綺麗な容姿をしているのに面白い男だ。人気者にならないはずがなかった。
寂しかった。須田が遠くに行ってしまうようで。ある帰り道、いつも俺と一緒に帰る須田を別のグループが誘った。須田には「あっちと帰っていい」といった。暗い俺と帰るよりも、明るい友達と帰ったほうが須田も楽しいと思った。
ーえ、智也と帰る。いつも一緒に帰ってるじゃん
須田はあっさりと断ると、いつものルートで俺と一緒に帰った。中学も高校も同じルートで一緒に帰っている。須田がおじいさんの家に泊まる日は、俺もおじいさんの家におじゃまさせてもらっていた。
「智也」
夢中で描いていたら、須田がぶすっとした顔で俺をみた。
「描いてる?」
「描いてる」
「ほかのコト考えてない?」
ぎくりとした。須田を描きながら須田のコトを考えていた。ほかのコト……ではないと思う。
先の丸くなった鉛筆をテーブルに置く。新しく、先のとんがった鉛筆に持ち直した。絵の具で汚れたテーブルには鉛筆が何本も転がっている。
「あと何分?」
「もう少し」
「もう少しってどのくらい」
「もう少しはもう少し」
「いまどこまで描けた?」
須田は黙っているのが苦手。一緒にいるとずっと話しているタイプ。見学をサボって美術室にきたのも、黙って見学しているのがつまらないからだ。
アーモンドの瞳を鉛筆でなぞる。夕陽の光がグレイの瞳を茜色に照らした。真っ黒の鉛筆では茜色のきらめきは描けない。色は描けなくても、きらめきの光の濃淡は描きたい。
色素の薄い髪の流れも、透き通るように白い肌のなめらかさも、俺より広い肩幅も。デッサンは描けばいいモノではない。須田という人間はどういう人間なのか。俺にはどうみえているのか。デッサンをみた人に伝わる絵を描く。
とうとう須田はテーブルに肘をついた。手のひらに頬をあずけてしまう。だらしのない仕草がアンニョイにみえるのは美形の特権だ。オーラがあるから、仕草や動作・表情がすべて絵になる。視線の動きのひとつでさえ、なにかを意味してみえる。
「とも」
「もう少し」
須田はバスケ部のエース。放課後も土日も部活で忙しい。デッサンの題材になってもらえる機会は二度とないかもしれない。須田は「いつでもいいよ」という。けれど、現実的には厳しい。学校の外で軽いデッサンはできても、こうやって、時間をとって上等な画用紙とイーゼルにあずけては描けない。
夕陽がグレイの瞳を照らす。瞳と同じグレイの髪もキラキラしてみえる。静寂とにぎわいを隔てるのは窓一枚だけ。運動部のコールが聞こえるのは窓の向こう。美術室はいつも静かだ。黙っていると、須田は一段と綺麗にみえる。ふざけて変顔をしてくる須田とは別の須田みたいだ。
「っく、ふ」
思わず吹き出した。黙って題材になってくれていた須田は不服そうに「なに」という。
「おまえが黙ってるのがおかしくて」
「智也が集中してるから黙ってたんだろ!」
わーわー喚くから、せっかくの静寂はいなくなってしまった。窓の向こうを超えて、こっちにもにぎわいがやってくる。
「あーもー終わり!」
「もう少し」
「そればっか!」
ふてくされた須田は椅子にふんぞり帰った。
俺が須田を好きだといったら、こんな時間もなくなる。ふてくされた姿もみられなくなる。
そんなの絶対にイヤだった。
美術準備室のロッカーに荷物を入れる。描いたばかりの須田のデッサンを眺めた。我ながらいい出来だ。須田の美しさも生命力の強さも滲んでいる。
幼い頃からずっとみていたから、須田の絵は記憶だけで描ける。バスケットコートを駆けめぐる姿も。ミルクティーをのむ姿も。バイクに乗る姿も。料理をする姿も。須田に隠れて描いた。
考えなくても描ける題材は多くはない。俺にとって、考えなくても描ける題材は須田だった。
ただ、一箇所だけ。
どうしても納得した絵を描けない場所がある。
須田の顔の真ん中。顔の印象を左右する重要なパーツのひとつ。唇だけは、納得した絵にならない。須田の唇を上手く書くには、どうしたらいいんだろう。
キスをしたら、上手く描けるのだろうか。
キスなんか一生できない。須田は友達。
幼馴染の立場を手放してまで、告白したくない。
「須田……」
ずっと好きだ。これからも、好きだと思う。
デッサンの唇を指の腹でなぞる。ふっくらとした唇をそっとなぞった。なぞると指の腹が黒くなる唇にキスをする。
デッサンの須田の唇は冷たくて、鉛筆と紙のにおいがした。
この唇に噛みつかれて、舌で舐められて、咥内をめちゃくちゃにされたい。
「智也、遅い」
「っすだ」
慌ててスケッチブックを閉じる。肩を叩かれるまで、須田の気配に気がつかなかった。
みられてない、よな。
デッサンの須田にキスをする姿をみられたらーー。
須田に嫌われたくない。俺にとってはひとりしかいない友達。ひとりしかいない友達で、たったひとりの大切な人。
仲良くしている友人が自分の絵にキスする姿をみられたら、きっと、気持ち悪がられる。
「あ、ごめん。おれ」
心臓がバクバク音を立てた。デッサンの須田にキスをする姿をみられたかもしれない。
なのに、俺は須田の唇ばかりみてしまう。
この唇にキスをしたい。
無意識のうちに、自分の唇を舌で舐めていた。
「智也?? どうした?」
顔の前で大きな手を振られる。ハッとした俺はごまかすように、広い背中をぐいぐい押して外に出た。
須田はのほほんとしている。友達だと思っている俺が自分の絵にキスする姿をみていたら、こんなに落ち着いてはいられない。
絵にキスする姿はみられていない。一気に身体のちからが抜けた。
「ぼーっとしてた。ごめん」
「さっきの絵、いつ描き終わる?」
「もう少し」
「描き終わったらみせて」
「……描き終わったらな」
みせられない。みせられるわけがない。須田にだけは。絵にはその人のこころが反映される。俺が須田に恋心を抱いているのは一目瞭然だった。
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