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13 ※微

                 今に思えば、ユンファさんはあのときからもう既に「勘違い」をしていたのである。      なぜ彼がしいて俺に「媚薬」を飲ませたか――。      それは、俺がこのままではユンファさんを抱けない……要するに、間男たちに抱かれていない彼の体に俺が興奮できないと思って、彼は俺にその媚薬を飲ませたのであろう。――そしてユンファさんがそれを媚薬だと明言するに言い渋った理由は、おそらく俺があのように「俺には必要ない薬だ」と主張することをわかっていたためである。  しかし俺がその薬を「危険薬物なのではないか」と訝りはじめたため、彼はやむなくそれが媚薬だと明かすほかにはなかった。正体不明の、ともすれば危険薬物か劇薬かと疑っている薬を、誰だってそうやすやすと飲むはずもない。むしろここで媚薬だと明かさないほうが、俺はそれを飲まないだろうと彼は判断したのだ。    また、俺のミスはそれ以前にもいくつかあった。  ――この日のユンファさんは、明らかに俺を誘っていただろう。    あまりにもしおらしく、俺にしてみれば意外なほど初心(うぶ)な形で、彼は俺に触れられることをそれとなくずっと待っていた。――色っぽいパーカの着こなし、ソファでのつまらなさそうな顔、アダルト動画、そのあとのあの甘え方、…「別に俺を誘っていない」と言ったのは彼の嘘である。    ユンファさんは照れくさいあまりに素直になれなかっただけなのだ。  俺に「セクシーだね」と言われて嬉しかった、だから彼の微笑はあのとき一そう色気が増していた。  しかし「(俺に)いやらしい目で見られてもキモい」と言った彼に、俺が「そうだよね、ごめん、勘違いしてしまった」とガッカリしながら引くと、彼は一瞬狼狽(ろうばい)しただろう。  恐らく――また可愛くないことを言ってしまった、とユンファさんは後悔したのである。  ……だから彼は後になって挽回のため俺にこう言った。「ソンジュのために甘いボディローションを塗った」のだと。    そして夕食後、ユンファさんはテレビ番組がつまらなかったというより、なかなか自分に触れてこない俺にやきもきして、何よりもだんだんと自信がなくなっていっていた。  だから彼はぼんやりとしていたのである。彼はこの番組つまらないなぁとテレビを観ていたのではなく、恐らく内心でこのようなことを考えていた。    ――どうしてソンジュは僕に触れてくれないんだろう。  …やっぱりソンジュは、僕が他の男に抱かれたあとじゃないと、僕のことを抱けないんだろうか。  やっぱり興奮しないんだろうか。やっぱり()()()()()()じゃ、ソンジュは駄目なんだろうか。    そして俺が「何かあった? 俺に何かしてほしいことはある?」と聞いたとき、彼の開かれた唇が「いや、別に」と言う前には、もしかしたらこう言いたかったのかもしれない。   「どうして君からは僕に触れてくれないんだよ。ねえ、抱いてほしいよ。朝から準備して、僕はずっと待っているのに…――これじゃ馬鹿みたいじゃないか」    しかしユンファさんはその言葉を呑み込んでしまった。……ただ彼はそのかわり、俺にアダルト動画を見せてきた。――およそあの動画の内容こそはユンファさんの「願望」であり、またそれによって、彼は俺の情欲が多少なりとでも触発されることを狙ってもいたのであろう。    だが俺はそれでも踏み込まなかった。  最後にユンファさんはもう少しだけ俺を試した。  ――普段のユンファさんならばまずしないようなこと、…彼は俺の肩に頭をあずけ、俺の腕に抱きついて、彼なりに精一杯俺に甘えてみたのである。俺の手の甲に手のひらを重ね、俺のその手が自分に伸びてくることを、彼はただしおらしく待っていたのである。    ところがそれでも自分の体に踏み込んでこない俺に、ユンファさんは落胆した。「もう疲れちゃった」  ――やっぱりソンジュは、僕が他の男に抱かれたあとじゃないと駄目なんだ。…僕の体が他の男の精液に汚れていないと、ソンジュは興奮できないんだ。      ――なぜこの日、ユンファさんが俺に「抱いてほしい」とはっきり言わなかったか?  なぜ彼はもっと俺に「それらしいアプローチ」をしてこなかったか――。      それは――ユンファさんは、なるべく俺のほうから求めてほしかったのである。  ……彼が綺麗だから、色っぽいから、俺が彼を愛しているから、そういった動機をもって俺のほうから触れてほしかった。――俺にきちんと自分が愛され、求められていることを、確かめたかった。  そしてそれは、俺が間男に抱かれたあとのユンファさんの体にしか興奮できない、という疑念を晴らすためでもあったのだろう。    ――僕が誘えば、ソンジュはきっと僕を抱いてくれることだろう。…でも、それでは嫌だ。僕はソンジュに自分を求めてほしい。  それに、これでソンジュのほうから進んで僕に触れてくれたなら、今日は誰にも抱かれていない僕の体であったとしても、ソンジュは興奮できることになる。僕というだけで、ソンジュは満足してくれるということになる。――彼が求めてくれたときには、今日は、今日だけでも、恥ずかしがらずに言おう。      ――「君が好き」        しかし…――。      そうしてユンファさんの中でまだ朧気であった例の「勘違い」は、みるみるうちに――輪郭の確かな「確信」に変わっていってしまったのであろう。    ちなみになぜユンファさんが、あのタイミングまで俺に媚薬を飲ませようとしなかったのか。  ……二人でソファにいるタイミングまでの彼は、その「勘違い」をまだ「勘違い(かもしれない)」としていた。つまりその時点までのユンファさんは恐らく、たとえ間男と寝ていない自分であっても、きっと俺は自分のことを抱いてくれるはずだ、と、俺のことを疑いながらも、それでも俺を信じて待っていてくれたのである。    しかし「もう疲れちゃった」と言った彼の「勘違い」はそのとき、「確信」に変わってしまった。  そしてユンファさんが「ちょっと待って」と媚薬を取り出したタイミングは、ちょうど俺が彼のパーカのジッパーの金具をつまみ、キスをしながらそれを下げようとしていたときだった。――ユンファさんはいざ俺にパーカの前を開けられ、自分の体が俺の目の前にあらわになったとき――俺が自分の体に興奮してくれなかったらと思うと、怖くなったのだろう。    俺は勘違いをしていた。  思えば涙が出るほど、ユンファさんは健気に俺のことを愛してくれていたのである。      なおあの「媚薬」を飲んだ俺は、確かにいつもより興奮が(はなは)だしかった。――いや、なかばはそれを飲んだというプラシーボ効果だったのかもしれない。…後になって調べたところ、あの薬は行為の一時間前に飲む必要があるものであった。つまり一時間後に効果を発揮する薬だということである。    しかしそれを知らないでいた俺は、(かえ)ってユンファさんを自分の野性で傷付けないようにと()いて理性の足元を固め、普段よりもさらに入念な優しい愛撫をしつこいほど彼に(ほどこ)した。    だが特に俺の理性が危うかった瞬間がある。  ……俺がユンファさんの黒いパーカのジッパーを下げると、より濃く立ちのぼった焦がし砂糖のような強い甘い匂いにもまして、本当にその下にはユンファさんの白皙の裸体があったのである。  その黒に鮮明すぎるほどの、まるで月明かりで造られているかのような月華(げっか)の生白い裸体――薄桃色の小さい乳首、広い胸郭(きょうかく)から徐々に(せば)められてきゅっと細くなった腰――(はす)に伏せられた、ユンファさんの恥ずかしそうな美しい顔……。   「……別にもう見慣れているだろうに、今更何、何でそんなにジロジロ見るんだよ…」   「……、…、…」    俺は、それこそ無我夢中でその白く甘い肌にむしゃぶりつきそうになったほど興奮していた。   「…綺麗だ…」    俺のこの賛嘆は真実味のある低声(こごえ)であった。しかし彼はそれを皮肉っぽく鼻で笑った。   「……ふ、さっき見せたAV女優より?」    ユンファさんは俺を見ないが、皮肉な笑みをその赤い唇に浮かべている。   「当然でしょう。もともと俺はあの人のことを綺麗だとは思っていないし」   「…じゃあ絶世の美男や美女より?」   「絶世の美男は貴方だよ」   「まあね。お生憎様(あいにくさま)、僕、顔と体だけはいいから」    謙遜ではない。卑屈になって拗ねているのでもない。これはユンファさんの「威嚇」である。  彼は少しだけ自己卑下をしたほうがよっぽど嫌味に聞こえることを知っている。ひいては「本当は自信がある癖に」というような相手の邪推(じゃすい)を誘い、そのほうが余計に相手を苛立たせる効果が高いことをよく知っているのだ。 「……、…」    俺の鼻からふぅ…と緩いため息がもれた。  ……俺もまた知っている。この流れはまた喧嘩になる流れだったので、ここは何も答えないと決めた。  俺はその人の白い胸板に唇をわざとらしいほどゆっくりと寄せてゆくと、彼のその愛らしい薄桃色の乳首に口をつけた。   「……ッ♡」    すると俺がそこに唇を押し付けただけで、ユンファさんはぴくん、とした。  俺の舌先が彼の乳輪から(しこ)った乳頭を円くねっとりとなめ回す。もう片手では爪の先で先端をカリカリと掠めるようにひっかく――するとユンファさんはぴく、ぴくん、とみぞおちをへこませ、腰をもぞもぞとくねらせながら、   「…ん…♡ ぁ…ッ♡ ………ぁ…♡ …ぁ…♡」    それだけで、普段よりも彼は多く嬌声をもらした。  それは俺が少々わざとらしいと感じるほどであった。ただしそれは多さの話であり、声量自体は小さく、また自然なふうに聞こえる声であったので、幾度となくユンファさんを抱いてきた俺であるからこそ「あれ、今日は少し多いな」と感じたのである。  ……先ほどまでシニカルなことを言っていたユンファさんが、唐突に甘えた声を出している。実際、多少このときの彼は演技していたと見て間違いはないだろう。もしかすると彼はウリ専をやっていたとき、客相手にもこうして巧みな演技していたのだろうか。    そう思うとこのときの俺は何か複雑であったのと、途端に甘えた声を出すユンファさんにいささか「なぜ」とは思っていたが、かといってこのときもそれで悪い気はしていなかった。  往々にして情事中に演技をする人というのは、相手に嫌われたくないからこそ演技をするものだと俺は思っている。もっと言ってしまえば、それは「相手に好かれたいからこそ」とも言えなくはない。  たとえユンファさんが演技で声を出していたとしても、むしろ感謝や愛おしさこそあれ、何演技しているんだよ、と俺が眉を顰める理由などないだろう。    ただ、普段のユンファさんも決して「マグロ」というわけではないものの――念のためいえば「マグロ」とは、情事中に何をしても声も出さない、反応しない、ただ寝そべっているだけの鈍重な(たち)の人のことである――、まさか彼が俺に甘えるような、言ってしまえば媚びるような演技をしてくれるとは、…やはりこの日の彼は何かが違っていたし、普段よりも愛らしい彼の媚態に、俺もまた手の甲の静脈がむくんでいるように感じたほど興奮した。   「…ぁ…♡ ソンジュの、…ッ口の中、すごく熱い…」    ユンファさんはそうぽうっとした声で言うと、更に珍しいことに――。   「き…きもちいい…」と恥ずかしそうにか細い声で呟き、「ぁ…」   「…とろって…(あふ)れてきた…」   「……、…、…」    どこから…何が…とは――もはや言うまい。  ユンファさんの場合選択肢は二つあるが、どちらにしても俺はそのセリフにドキドキした。   「…はぁ…――きもちいいよ、ソンジュ……」    そ…と俺の後ろ頭にユンファさんの手のひらが添えられ、その手は俺の後ろ髪をやさしくゆっくりと上下に、何度も何度も往復して撫でてきた。   「ぁ…ありがとう…」   「……ッ、……」    俺は思わずまぶたをぎゅっと閉ざす。  ユンファさんはあまり俺との最中に「気持ちいい」とは言わないのである。ましてや「ありがとう」なんて、もっと言われた試しがなかった。  ……彼はまた後悔していたのだと思われる。    ――またソンジュに可愛くないことを言ってしまった。…綺麗だと言われて本当は嬉しかったのに、「本当? ありがとう」と愛想良く答えればそれでよかったのに、どうして僕はいつもこうなんだろう。    今日だけは素直な自分でいようと決めたのに。  今日は、ソンジュに「可愛い」と思ってもらえる自分でいたかったのに――どうして僕は、いつもこうなんだろう。    だから捨てられるんだ。  いつかきっとソンジュは――僕を捨てる。      なお多少の脚色はあるが、これは俺の推察ではない。      俺はユンファさんに「ありがとう」と言われ、たまらずその人の顔を見た。キスをしようと思って、かなり近くで見た。――彼は俺と目が合うと、はにかんだように微笑した。そのとき、彼の手の指先がパジャマのハーフパンツ越しに、俺の勃起にそっと触れてくる。   「……あ…――ガチガチに硬くなってる…。あの媚薬ちゃんと効いているね、よかった……」   「……いやそうじゃ…」    ない。と俺が言い切る前に、ユンファさんは眉尻を下げて「どうかな」と儚く笑った。   「…はは、それは僕にはわからないが……でも、きっといつもより…ソンジュも気持ちいいと思うよ…」    ユンファさんの指先が俺の垂れた前髪をつまんで、やさしくゆっくりと俺の耳にかける。  …そして彼は俺の頬を両手で包みこみ、俺のゆるまったまぶたを親指の腹で撫でた。色っぽい微笑を浮かべているユンファさんの白かった頬が、今はじゅわりと内側から滲むような艶やかな赤に染まっている。   「……、…」    ユンファさんはしばらく俺の目を見つめたあと、ふと色っぽく目を伏せた。少しだけ俺の唇を眺め、目をつむり、傾けた顎を上げるようにして、彼はふに…と自ら俺にキスをしてきた。――ただ俺の上唇と下唇のあいだに、彼のやわい唇がふにと組みこまれただけのキスだった。  それだけのキスを終えて顎を下げたユンファさんは、   「……へへ…」と照れくさそうに俺の目を見てやわらかく笑うと、やがて寂しげに目を伏せた。   「……可愛くないな」   「…いや、……」    可愛かった。だのにユンファさんは自分のことを「可愛くない」と言ったのだと俺は否定しかかったが、…あるいは俺のことを言ったのか、と迷ってしまった。――しかしどちらのことだったのか、というのは彼の口から明かされることはなかった。おそらくは「(僕がこんなことしても)可愛くないな」と彼は言ったのだろうが、…ユンファさんは目を伏せたまま少し首を傾げる。   「…でも、正直もっと興奮しているかと思ったんだが、案外そうでもなさそうだ…――はは…さては君、まだ理性的だな…?」    と彼のからかうような上目遣いが俺を見てくる。   「…いや…」    理性的?  本当はとんでもなかった。  ――俺の心臓は息苦しいほど絶えず動悸し、その動悸にともなって俺の勃起も普段より血液が充満していると、そう自覚するほどに俺は興奮していた。  しかし、だからといってユンファさんを(かえり)みない免罪符とはならない。ある意味でその思考は確かに理性によるものかもしれなかったが、体よくいえば、俺の彼への愛によるものだった。   「別に、こういうときくらい雑に扱ってくれていいのに。…」    彼の唇は笑っているが、俺の目を見てくる赤紫色の瞳は何か陶然としている。   「…ふふ、…他の人なら100%媚薬のせいにして、僕のこと乱暴に犯すと思うんだけどな…――お前が飲ませたんだろ、どうされても文句を言う資格はないからな、なんて…――ね。ソンジュも媚薬のせいにしていいよ…。僕のこと…君も好きにしていいんだよ……」    と言うユンファさんの俺の目を見つめる瞳は、甘えたような潤沢な赤紫色をしていた。   「……、…」    俺は自分の中の野性が優勢になりつつあるのを感じていたが、このときに比較されたのが間男たちであったのがよくなかった。…彼は俺「も」といった。男らにもこんな甘い目をしているのだろう。下手すればあの媚薬だってまた男らのついでか、既に男らは彼とそれを飲んだセックスをしているのか。  俺はそう嫉妬をしたのと同時に、俺は絶対に何があろうともユンファさんを優しく抱いてやる、あいつらと俺は違うんだ、と、意地になってしまったのである。    だからこそそれ以降はもっと優しい、漂う(きり)のような曖昧で長ったらしい愛撫ばかりをした。…いや、()()()()()()というべきだろう。    ユンファさんの体はもちろんそれでたっぷりとしどとに濡れた。しかし彼は終始儚げな顔をして、その愛撫中にはもうあまり俺と目を合わせてくれなかった。  彼の「勘違い」がその()()()()愛撫によっても色濃くなっていっていることにも気が付かず――媚薬を飲んでいてもなお、間男に抱かれていないユンファさんの体の前では、やはりさほど興奮できない男だと彼に思われているとも気が付かず――頃合い俺は「そろそろいい…?」と努めて優しく彼に声をかけた。   「……うん…いいよ、来て…」    と頷いたユンファさんは横を向き、寂しそうに目を伏せていた。   「……はぁ、…ヤバい…いつもより、…俺、痛いことはしなかった…? 大丈夫…?」    俺はそう余裕ぶって笑いながら、ベッドサイドテーブルの引き出しに手を伸ばした。そこにスキンの箱が入っているのである。――しかし俺のその腕に、ユンファさんは「…だめ…」とそっと手を添えてきた。   「……え…?」    俺は目を丸くして彼を見下ろす。  俺を見上げるユンファさんのその顔は、泣きそうなほど切実であった。泣きそうにまばたきも多くなっていた。   「…ソンジュ…今日、…今日は……な、ナマでしたい…」   「…え、ナマ、…」    狼狽えた俺に、彼はほとんど泣き笑いというような顔で、精一杯俺に笑いかけてきた。   「ねえナマでしてよ、今日は、…今日、だけでもいいから、…だって何となくそういう気分なんだ、今日は……ね…今日だけ。」    ユンファさんは精一杯勇気を出してこう言ったのかもしれなかった。――こうした「お誘い」を、彼が俺にしてくれたのは一度や二度のことではなかった。  むしろ彼ばかりがこうして「ナマでしようよ」と俺を誘ってくれていたその一方で、俺のほうから「ナマでしたい」と言ったことは一度もなかった上、俺は彼のその誘いを必ず断ってきてしまったからである。    どうせまた断られるんだろうが、それでも…――。    今になればわかる。  俺が思っているよりもユンファさんは健気(けなげ)な人だった。そして俺が思っているよりも彼は、俺のことを深く愛してくれていた。  ……今に思えば、ユンファさんがこの日、間男の誰にも抱かれないで過ごしていたのは――俺が必ずスキンを着ける理由が、ユンファさんの体を「汚い」と思っているからかもしれない、と考えていた彼が、精一杯俺に気を遣ってくれていたからだったのだろう。    セックス依存症のユンファさんが、である。  俺と隔たり(スキン)の無いセックスがしたいがためだけに、である。    彼がしばしば強がるようになってしまったのには、きっと俺にも大きな要因があった。――ユンファさんの愛を愛だと、俺が真っ正面から受け止めなかったせいである。   「き、綺麗だしね、多分…今日は、いつもよりは…」    とユンファさんは強いて笑った。  俺を見上げる彼の群青色の瞳は少しうるみ、悲しげに揺れていた。   「別にそのままなかに出してもいいから、あとでちゃんと避妊薬も飲むし、…何なら今更だろ、みんな…君以外みんななかに出してるんだし、そもそもいつもゴム着ける意味ある…? はは…もう――もう必要ないだろ、ゴム……僕ら、結婚までしたのに……」   「……、…」    俺は馬鹿だったのである。  俺はその健気なほどのユンファさんの「誘い」に、自分の眉間が曇るのを感じていた。  このときも大いに迷ったが、ユンファさんのこの強がった「理由付け」になかば嫉妬もまじり、何よりそれだから思い出したというのもあって、やがて俺はこうユンファさんに真剣に尋ねてしまった。   「……じゃあ、明日は…? 明日も、誰ともセックスをする予定はない…?」    俺は本当は「じゃあ明日も誰ともセックスをしないでくれる?」いや、「明日も誰ともセックスをしないで」と言いたかったが、それであると「約束」に反する。俺の自制心がそう言うのを(とが)めたのだ。  何より――これは、俺がユンファさんと結婚をしたあともなお必ずスキンを着用しつづけてきた理由の、その核心に最も近しい距離にある質問だった。   「……、…、…」    ユンファさんは泣きそうなほど傷付いた顔をした。彼は十秒ほどその群青色の瞳を小刻みに揺らして俺を見上げていたが、やがて目を伏せ、ふっと鼻で笑いながら強がると、「いや」と顔を横へ逸らした。   「するだろうね、どうせ」    投げやりにそう言った彼の横顔は、また強がったような皮肉な笑顔が浮かんでいた。  ……俺はこのときにやっと、自分の「間違い」にハッと気がついた。   「……ごめん、…俺、何故(なぜ)俺が貴方にあんな質問をしたかというと…」    俺はまず先にするべきであった「なぜ」というのをユンファさんに説明していなかったのである。ところがユンファさんは、   「いい別に、聞きたくない…」    色あせた高慢な横目で俺をつと睨みあげ、その一瞥(いちべつ)の威嚇が済むと、彼はまた目を伏せた。   「いや、聞いて。お願いだ、勘違いさせたく…」   「勘違い? 僕はそんな馬鹿じゃない。どうせ僕がオメガだからって馬鹿だと思ってるんだろ、でも君が思ってるより僕は、…」   「…違う、俺は貴方が馬鹿だと言ってるんじゃ、…」    俺がこうして言いつのればそうするほど、ユンファさんはむしろ神経を逆なでされてゆくようだった。彼はみるみるその横顔を険しくし、「(うるさ)い」と低く断じた。   「どうでもいいから、聞きたくない。君の気持ちも何もかもどうでもいい、どうせまた“愛してるから”だろ、…“愛してるから”、“愛してるから”、“愛してるから”!」    ユンファさんは上にいる俺に顔を向け、俺を睨みつけながらこう怒鳴った。   「ほんっといつもいつもそればっかりだ、わかってる、そんなのみんな口だけならそう言えるんだよ、そんなの愛してなくても誰でも言える、…っムカつくんだよ! “愛してるから”とか言われるとほんとムカつく、…もうこれ以上何も聞きたくない、腹立つだけだから、…」   「……、…ごめん…」   「で、すぐ謝る、――もういい、…っもういいから、ゴム着けていいから……」    ふっと横へ顔を背けたユンファさんのその横顔は、険しく怒りをあらわにしていたが――そのつり上がった目は、彼の赤らんだ白目は、濡れていた。        ――もちろんこの件では、ユンファさんにも悪いところはあるのだ。しかし俺にも悪いところはある。      この日のユンファさんの「目的」は、「勘違い」が本当にそうかどうかを試すというのだけではなかった。    だとしても、ユンファさんは俺に抱かれたかった。  ……スキン無しで、俺に抱かれたかったのである。    彼は、本当は俺と甘い時間を過ごしたかった。  ……まるであのアダルト動画のように、今日だけでも、俺と何も(はばか)りのない甘いセックスがしたかった。    だから不器用に甘え、彼なりに精一杯俺と甘い時間を過ごそうと努力してくれていた。「甘える」ということを恐れているユンファさんが、俺に精一杯甘えくれていたのである。    またユンファさんにとってあの媚薬は「最後の手段」であったのだろうが、彼がそれをもらってきたのは、なかば諦めていたからでもある。……だとしても、だ。    俺が他の男に暴かれたあとの自分の体にしか興奮できない男だとしても、それでもユンファさんは俺を愛してくれていた。…それでも俺に抱かれたかった、…俺に求められ、愛されたかった――そうして確実に俺を勃起させたかったユンファさんは、薬効のある程度保証された医薬品をわざわざ病院でもらってきた。  また彼が医療用医薬品をもらってきた理由は、強制的な興奮によって俺の理性が鈍り、「今日くらいスキンはいいか」と俺のたかが緩むことを狙ってもいたのだろう。    ユンファさんの言った「ただ単に遊ぶため」は嘘である。だからこそ健康食品かジョークグッズ扱いの市販品ではならなかったのである。  ましてや彼は、愛する俺に危険な薬を飲ませようなどとは露ほども考えていなかった。        後悔している――俺は馬鹿だ。  なぜ自分が隔たりのないセックスをユンファさんとしない、いや、できないのか――その理由を彼に告げないまま、俺はこれまでそのセックスをこうしてただひたすらに拒み続けてきてしまった。  ……もちろんそればかりでもないが、俺は反省という名の深い後悔をしている。         

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