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             では――なぜ俺がこれまで必ずスキンを着用したうえでユンファさんを抱いてきたのか。      それは……――それこそ俺たちははじめ、お互いに「ワンナイト」の関係性を目的として出逢った。  要するに俺たちは最初、お互いにお互いの()()()()()()()()()()()()()出逢ったのである。    あの頃からユンファさんは、かの出会い系サイトで荒淫(こういん)といってよいほど奔放な男漁(おとこあさ)りをしていた。そして夜ごと相手をとっかえひっかえしながらも初めての相手とはまず一晩寝てみて、その相手のうちに自分の肉体と相性が良い者がいたなり「オキニ」に認定してリピート、すなわち彼はセフレを増やしつづけていた。  また一方であの頃の俺は、かの出会い系サイトで真剣交際のできる彼氏を探してもいたが、しかし、といって俺がユンファさんのその「体目的」を不潔だと忌避(きひ)するはずもない。    なぜならその頃の俺にも何人か、継続的な関係をつづけている「オキニ」のセフレがいたからである。  俺はユンファさんにはしばしば馬鹿真面目なほど清純な男と見られがちだった。だが彼と出逢うまでの俺もまた、淫奔(いんぽん)な男漁りを心ゆくまで楽しんでいた。    (うま)い獲物という報酬を求めて出会い系サイト内を逍遥(しょうよう)する――その行為は、およそ原始的な男の本能に(もと)づいて脳内報酬系を刺激する、理性ではとてもじゃないが抗いきれない、いや、むしろ理性で抗ってはつまらないと思えるほど面白い狩りだった。  ……とはいえ、月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)という本気で惚れこんだ男ができてからの俺は、すっかり彼という男のaddiction(依存症)となった。彼と出逢ったせいで目も舌も肥えた俺は次第に、そうした刹那(せつな)的な夢を食らうお遊びはする気にもなれなくなったが――。    お互いの肉欲で遊ぶことの何がいけないのだろう?    何にしても俺たちは、お互いにそういった()()()()()()のもと、肉欲の充満した刺激的な夜に出会った。ゲイのバリタチとバリウケ、アルファ男とオメガ男、肉体にしろ目的にしろ完全に一致、これはかえって完璧なほどのマッチングであった。  ――当初は俺もその「完全なる合意」にその通り肉感的な感性以上の何を求めてもおらず、今から会う男に何を感受することもない、今宵(こよい)俺が得たいのは淫楽(いんらく)のみだと高をくくって、あの日の夜の駅前に(たたず)んでいたのである。    ところが――俺のもとへ悠々と現れた美男子は、絶世の美男といって差し支えない類まれな美人だった。  一目惚れであった。彼は蒼い月のように奇跡的なほど美しかった。何かこの淫逸(いんいつ)な出会い方にして彼は(しと)やかでさえあり、その品の良い怜悧(れいり)げな美貌を一目見ただけで、俺は月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)という月の男がどうしても欲しくなった。    ユンファさんと出会っておよそ一分――下手すればその六十秒にも満たないうちにひらめいた恋愛感情、俺はすぐさまその人との結婚を前提にした真剣交際を望んだ。    そもそも初対面の相手との火遊びにおいては、俺は必ずスキンを着用してきた――信頼関係の希薄な相手と自分との肉体の間にもうける隔たりは、何よりも自分を守るための防御として必要不可欠だといえる――が、その一方で、継続して会っていた「オキニ」たち相手にはしばしば隔たりのないセックスをしてきた。その中には(ユンファさん以外に)一人オメガ男もいたし、もとは根っからの快楽主義者である俺が、膣内射精にしろ直腸内射精にしろ未経験であるはずもない。    俺は交際前、交際中にも折々ユンファさんには「馬鹿真面目」だとよく言われていたが、それは何も俺の性質が真面目すぎる堅物男ということではなく、俺の彼への愛のうち、性的な愛(エロス)より精神的な愛(アガペー)が割合半ば以上も占めていたので、彼にはそのように見えていたというだけのことなのである。      よって――俺がユンファさんとの初めての夜にもスキンを着けた理由は、自己防衛の意味とは違った。      そうした無責任ともいえる快楽主義的性交は、真剣交際を望んでいる相手、つまりユンファさんに幻滅されかねない行為だと俺には思われたのである。        しかし初めて出逢ったあの夜も――ユンファさんは俺が当然のようにスキンを着用すると、それに何か驚いていたようだった。        あのとき――あのときはそう、()()だった。        俺たちはベッドの(ふち)に隣り合って腰かけ、二人でタバコを吸っていた。  もとより俺は喫煙者であるが、ユンファさんもまた喫煙者だった。いまだにそうだが、彼はその美貌にして意外にも刺激の強い銘柄を好んでいる。とはいえそのタバコの匂いはまさにタバコ、というような渋いものではなく、ラム酒入りのチョコレートのような甘ったるい香りがするタバコだった。  しかし甘ったるいとは俺にいえたことではない。俺の愛飲する銘柄もまた甘ったるいバニラの匂いがするものなのだ。    なお、二人で一服しているときの俺たちは二人とも白いバスローブに黒いボクサーパンツだけ、というようなくずれた格好だった。――それも二人してその白いタオル地のバスローブの前は合わせず開けたまま、また何と色被りをした黒いボクサーパンツ(ただし、もちろんゴム部分に織り込まれたブランド名は違うものだった)をもはや隠すでもなく、俺たちは堂々とベッドに腰かけてタバコを吸っていた。    ――そう、「事後」だったのである。  要するにこのときは、初手にユンファさんが俺のことを攻めて射精させてくれ、その次に俺が彼のことを攻めて彼を射精させてあげたあとだった。…必ずしも挿入を最終到達点としない男同士のセックスでは、人によればこれで終わりということもある。   「…………」    俺はタバコを吸いながら、薄々今日はこれで解散かな、と寂しく考えていた。  そしてこうも考えていた。別れる前に彼の個人的な連絡先を聞こうかどうか――出会い系サイトを経由しない連絡先を聞こうかどうか――しかし、この時点での俺たちはまだお互いの本名を知らなかった。なので、いまだユンファさんは俺のことを「ショウさん」、俺は彼のことを「ユエさん」と、かの出会い系サイトで使っているハンドルネームで呼びあっていた。  ……つまり、まだお互いの本名さえ打ち明けあっていない関係性の俺に、あるいは本名で登録している人も少なくない「個人的な連絡先」をユンファさんが教えてくれるかどうか、俺は確信が持てなかった。    いや、俺の本当の望みとしては連絡先よりも前に、この妖しい繁華街の夜に閉じ込められたホテルの一室の中でこそ起こりそうな次なるハプニングであった。  ……なお俺のその望みは必ずしも挿入にこだわったものではない。…流れ次第ではその展開も決してやぶさかではなかった――その展開を見込んで俺はスキンも持参はしていたし、その一つをバスローブのポケットの中に忍ばせていた――が、かといってヌキだけでも俺は満足していたし、もっといえばヌキさえなくともよかった。    もっとユンファさんとキスをしたり、甘いスキンシップが取りたい――要するに恥を捨てていえば、俺はこの惚れた美男子ともう少しいちゃいちゃしたかったのである。    しかしユンファさんに惚れている俺は、その次なる展開が起こるか否かは彼次第だと考えていた。俺のほうから手を伸ばすことは容易かったが、射精後の男の肌は冷えきっていると考えたほうが無難だ。  ……初めての夜に鬱陶しい男と思われては俺の望む関係性、すなわち恋人、婚姻関係、そこに到達するまでの先行きが危ぶまれる。    虎穴(こけつ)に入らずんば虎子(こじ)を得ずとは言うが、ひとまず今は大きな()けには出ないほうが賢明だろう。  ……俺はふーー…っとタバコの煙を吹いた。    俺の隣でユンファさんもまたふーー…とタバコの煙を吹く。――そうして二人のバニラとチョコレートの甘い匂いが混ざりあうなり、俺はたびたび気分が上がった。…もとよりバニラの香りとチョコレートの香りは相性が良い。すると二人のバニラとラム・チョコレートは、空気中で、まるで最初からそれとこれをかけ合わせて調香されたかのような一種の匂いに完成され、俺たちを取り囲むように漂ったのである。   「ショウさん、それにしても本当に格好良いですよね」    とユンファさんが、なかばお世辞めいたことを言った。――初対面ともあって、気を抜くと俺たちのあいだには立ちのぼる紫煙(しえん)の沈黙が漂いがちであったので、およそユンファさんは俺に気を遣って話を振ってくれたのであろう。   「はは、ありがとうございます。……」    俺は人差し指と中指とではさんだ黒いタバコのフィルターを咥え、すーっと吸いこむ。ピリピリとした刺激が舌を撫で、なめらかに喉の奥へ流れ込んでくる煙は、俺の控えめな胸の高鳴りをくぐって――再度胸から喉元へのぼり、ふーっと俺のゆるくすぼめた唇から薄くなった白靄(しろもや)として出てゆく。  ……――俺はこのタバコに火をつけた瞬間を思い出していた。    俺が事後に「煙草(たばこ)を吸ってもいいですか」とユンファさんに聞くと、彼は「ええもちろん」とそれを(こころよ)く許してくれた。それもそのはずである。  ――「僕も吸っちゃおうかな」とユンファさんは、自分の黒革のバッグからブランドもののワニ革のタバコケースを取り出し、それを開いたのだ。    少し意外だった。  いや、貴方のように綺麗な人がタバコを吸うだなんて、というお節介の意味ではなく――そもそもそれは同じく喫煙者の俺に言えたことではない――、その品の良い美貌にして、彼が赤茶のワニ革のゴツゴツとしたタバコケースを取り出したということに、俺は何か意外だなと思ったのである。  ……別に人の好みにいちゃもんをつけるつもりはないが、見るにバッグも高級ブランド、そのタバコケースも高級ブランドのものだった。思えばユンファさんがこの日に着てきた服もブランドもの、それも使い古された様子のないものだったか。しかしブランドものも過ぎればかえって下品である。  ――ウリ専というのはそんなに(もう)かるものなのだろうか?    まああまり詮索をするつもりもなく、俺は自分の黒革のシンプルなタバコケースから取り出した一本の黒いタバコを唇で咥え、軽く吸い込みながら、いつも通り銀のオイルライターで火をつけた。――人差し指と中指ではさんだそれを口から少しはなし、ふーっと始めの一口を吐き出すと、   「火、もらってもいいですか」    白いタバコを人差し指と親指でつまみ、口元に構えているユンファさんが可愛いもらい火をねだってきた。――俺はそのとおり可愛いと思ったので、ニヤと口角が上がった。   「……ええ、どうぞ…? ……」    俺は自分の火のついたタバコの先を彼のほうへ差し向けた。するとユンファさんは、咥えた火のついていないタバコの先と俺のそれの先とを接吻(せっぷん)させる。  二人は目を伏せてタバコの先端同士を見下ろしている。少なくとも俺は顔が近いので、まともに彼を見るのは何か憚られたのだ。    俺は黒いタバコの先端に火種を(おこ)すために吸い、彼も白いタバコの先端に火を灯すために吸う――そうかからず、俺の鮮やかな(あか)い火種をうつした彼と俺が目を上げたのは同時だった。    ユンファさんは俺と目が合うなり、妖しく微笑したように切れ長のその美しい目を細める。俺の目を見つめてくる彼の赤紫色の瞳は、何か俺を挑発しているような悪い瞳だった。  ふーー…と俺の顔に誘惑のチョコレートの煙を吹きつけ、煙に巻かれた俺の視界が晴れてゆくなり見えた、俺を惑わせる彼のその妖しい切れ長の両目、危なげな誘引力のある挑発的な赤紫の瞳――しかし、俺が期待からその赤紫色の奥まで深追いしようとわずかに顎を斜めらせながら突き出すと、その赤紫の瞳は俺の目をじっと捕えたままにす…と引いてゆき、余韻に甘いチョコレートの煙をあと引かせながら、本気を出そうとした俺を嘲笑(わら)うようおもむろに遠ざかっていった。  そしてユンファさんは途端に「どうも」と簡素な礼のみで身を直すと悠々脚を組み、いずこかを眺めながらもう一口タバコを吸った。――    あれは彼に誘われていたのだろうか?  ――それとも単にからかわれただけか……俺は膝にかけた象牙色の自分の手の甲、その人差し指と中指にはさまった黒いタバコの先からくゆる妖艶な腰つきの白い煙をぼんやりと眺める。……俺が紫煙の只中で進むべき道に迷っていると、ユンファさんが「ショウさんは」とまた話しかけてくる。   「…彼氏いないんですか。それだけ格好良かったら、むしろいないほうが不自然な気もするんですが。」   「……、…」    はたとした俺は彼へ振り返る。  彼の横顔はこのホテルの室内のどこかを眺めていた。真顔というほど厳しい表情ではないが、笑っているというほど愛想のよい顔でもなく、その他のどのような感情も読みとれない不思議な感じのする無表情の横顔だった。   「いませんよ。募集中です」   「…そうなんだ。早く見付かるといいですね」    その恬淡(てんたん)な声につりあったユンファさんの白い横顔は、やはり落ち着きはらった無表情だった。――そこでユンファさんは、ベッドに座っている二人のあいだに置かれたガラスの灰皿へ目を下げ、慣れた手つきでタバコの灰を落とす。  ……俺はもう一口だけすぅっとタバコを吸ったあと、   「……ユエさんはいらっしゃるんですか。彼氏」    俺と口からほのかに煙をただよわせながら言い、ふーっと吹ききったあとは、灰皿にタバコの先を何度か小刻みに押し付けて入念に火を消す。  フィルターから二センチ程度で切り上げたその黒いタバコの吸い殻は、俺の指先を離れてコロンと灰皿のなかにころがった。   「…ふ…僕もいませんが、欲しくもありません」    とユンファさんは薄笑いで答えると、冷ややかな伏し目で灰皿を見下ろす。――彼は人差し指と親指でつまみ持っているタバコをもう一口だけ吸い、ふーっと紫煙を吹きながら、それの火を灰皿にねじ伏せて消した。ぐにゃりと曲がった白いタバコはフィルターを除いて三分の一ほど残っている。  またその白い吸い殻は火種が消えきらないで、それからか弱い細い煙がまっすぐにつーー…と上がってくる。タバコを灰皿に力任せに一度押しつけただけでは、ほとんどの場合こうして残り火状態となってしまうものだ。   「彼氏など欲しくもない…、なるほど。それは何故です…?」    俺の質問に、ユンファさんは灰皿を見下ろしたまま断定的にこう答える。   「…当たり前じゃないですか、メリットが無いからです。…彼氏なんて面倒な関係の男を一人作るより、色んなおじさんに股を開いて(みつ)がれたほうがずっとメリットがある。――自慢じゃないが、僕に貢ぎたい男は意外と多いんです。」   「……、…」    なるほど、と俺はうんうん頷いた。  ――これほどの美男子なら納得である。  そうした援助相手などこの美貌と肉体があれば事欠かないのだろう。またユンファさんは「ウリ専」というゲイ専門風俗店に勤務していると言っていたが、彼の収入源はそれのみならず、個人的に肉体関係のある男たちに物品、あるいは金銭そのものを貢がれているので、彼は頭からつま先まで高級ブランドで身を固められているらしい。  あるいは高級ブランドで身を固めることで「自分の値段」を示し、貢ぐにも出し惜しみする吝嗇(りんしょく)家を寄り付かせないようにしているか、それか相手の見えないオークション、要するに男らに「自分も負けていられない」と貢物の値段で(きそ)わせるためか、はたまた実際に男らの贈り物を使っていると示したほうが、より男をたらし込めるという理由か――その全部かもしれないが。   「…しかし、誰かに愛されたいとは思いませんか」    聞きながら俺も灰皿を眺めおろす。  ユンファさんはこう断言した。   「全く思いません。人間は元々愛なんてものは持っていないんですよ」    と彼の持論に興味が湧いた俺は、「というと?」   「…人間が“愛”だと思っているものは、結局は全部、()()()()()というのが根本にある本能じゃないですか。例えば母性愛なら、自分の(しゅ)を生存させるために子供を守りたくなっているだけで――恋愛感情だとか何だとかだって、結局のところ、自分の種を残すために生まれる感情じゃないですか。…無償の愛なんて存在しません。根本的に全部自分のためなんですよ」   「…なるほど」    理屈でいえば、そうだ。  なるほどこの美男子は、どうも愛というものを知らない。彼が何らためらいもなくこれを言えるということは、それら愛に触れたことがないということだ。例えば母親に愛されて育った者なら、「母性愛なんて所詮自分のため」などと、どうも母親の笑顔がチラついてしまってそうは言えまい。――しかしこういう冷徹な男ほど、ひとたび愛に溺れてしまうと抜け出せなくなるのだ。これは俺にとってチャンスだった。  ……ユンファさんは更に断定的な強い口調でこう言った。   「とはいえ、勿論(もちろん)僕も自分のためだけに生きています。…だが、()()()()()()()()()()()()()だなんて正直矛盾していますよ。まあそれでも、あえてもう少し感情論に寄せたとしても――人間は、愛なんて不確かなものを求めはじめた途端に、簡単に蹴落とせるほど弱くなるじゃないですか。…悪いが滑稽だ。僕が思うに、愛なんて、誰かに(すが)らなきゃ生きていけない弱者が求めるものだ。」   「…仰言(おっしゃ)る通りだ。……」    俺は灰皿から目を上げない。先ほどユンファさんがガラスの灰皿にねじ伏せた白いタバコは今、俺の身崩れのない黒い短い吸い殻の隣で、身を持ち崩しボロボロになっている。  白い紙のあちこちが黒く焼け焦げ、無惨にもぐにゃりと折れ曲がり、燃焼しきれなかった茶色いタバコ葉を黒い(すす)の中に散らして――ボロボロにねじ曲がったその吸い殻からはいまだ、細く長い煙がすー…と真っすぐに立ちのぼっている――俺はそれを眺めながら、何となし彼の過去を想った。    

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