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                    「僕、それに多額の借金があるんです。三千万。それを全部返してくれる彼氏なら欲しいけど、それで恩着せがましい態度を取られても鬱陶しいし…――」    とユンファさんがぼんやりと灰皿を眺めおろしながら淡々と言う。   「…そうですか」    俺は何ら驚かない。  風俗店で働いている人に負債があることは何も珍しいことではない。――しかし俺が同情しないようにか(特にしていないが)、ユンファさんが他人の優しさを突っぱねるように念押しこう言う。   「…何より、三千万も借金を背負っている男なんか誰も求めないでしょう。ただ念の為言っておくと、別に僕に悲しい過去なんかないですよ。僕は金があったらあるだけ使い込んでしまうので、そうやって好き勝手豪遊して、自分で勝手に作った借金です。――でも、これで返済は順調なんです……」    そこでユンファさんはすっくと立ち上がった。   「…僕とヤりたいおじさんたちが貢いでくれるから。ゴム有りなら2、ナマなら3、ナマナカなら5、排卵期中なら10、抑制薬無しで15、避妊薬をその場で飲まない種付けプレイなら30――プラスお食事代と、僕の欲しいものを欲しいだけ。…なかなかボロい商売でしょう」    と言いながら、彼はするりと羽織っていたバスローブをゆっくり脱いでゆく。あらわになった白い青年らしい筋肉のある広めの肩、白い肩甲骨……。   「…世の中に馬鹿な男が沢山いるんで助かってます。…僕はオメガ男に生まれて本当によかった。この体一つで大金が稼げるんですから――」   「…………」    確かに世の中では膣に独自の構造をもつオメガ属、それも更にオメガ属男性の独自の膣内は、ある一定数の男らの垂涎(すいぜん)(まと)である。  ……オメガ属は良くも悪くも男の性愛対象になりやすい…というよりか、むしろ性別にかかわりなくオメガ属というだけで性愛対象とされがちである。――ましてや圧倒的に人口の少ないオメガ属ともなれば(ちまた)ではある種の「伝説」、「幻の絶品名器」とさえ称されているのだから、実際彼の体に金に糸目をつけない男たちは多いのだろう。   「しかも僕、我ながら顔も良いですしね。…別に彼氏なんか作らなくても、ちんこには困ってないんです」    ユンファさんの背中をゆっくりとすべり落ちてゆく白いバスローブが彼の腰の裏まできた。いまやその白いタオル地はほとんど彼のお尻ばかりを隠しているだけである。  両腕にひっかかっているだけのバスローブ、まるで美しい丹頂鶴(たんちょうづる)のようその白い翼を広げた彼のたくましい肩甲骨はやや寄って、その両翼の付け根がより艶めかしく浮きぼりになる。  俺の目は彼の体をなぞる。長めの黒いえり足におおわれたうなじ、僧帽筋(そうぼうきん)(鎖骨上の筋肉)の薄い長めの首もとから広い肩、肩甲骨、あばらと徐々に細まって――きゅっとひときわ細い腰を目にした俺は、   「……、…」    ゴクリと喉を鳴らしながら堪らず立ち上がった。   「でも僕、借金を返し終えてもウリ専は続けるつもりなんですけどね。…折角セックスが好きなんだし、どうせなら若い内に稼いで…、……」    にわかに俺にうしろから抱きしめられたユンファさんは、少し驚いたように絶句した。   「…ユエさん…――どうせ自分を愛してくれる人などいないから、そうして老後のために貯金しておかなければと思っているんじゃないんですか。」   「……、…」    ユンファさんは何も言わなかった。というよりとっさには何も言えなかったのだ。図星だったのであろう。――「そんなわけないでしょう」とやっと否定した彼の白い横顔は、俺の目に少し物憂げに見えた。   「…僕は本当にセックスが大好きなだけです。…そうじゃなきゃ、無報酬の完全なる趣味で男と寝たりなんかしませんよ――ね、ショウさん?」    チラリと俺を挑発してくるユンファさんの横目に、俺は痛いところを突かれたと笑う。   「…そうですね。今もまさに、ですものね。」   「ええ。…別にお金を下さってもいいですけど。大歓迎ですよ、それで美味しいものでも食べますから。」    何の遠慮もない鋭いツリ目のまなじり、ひょいと上がった強気な黒い眉、たまらない。   「…ふっ…随分その遣り口で貢がれてきたのでしょうね、ユエさんは」    この感覚は共感できる者とできない者がいることだろうが、むしろこの美貌で図々しいほど挑発的に「金をくれてもいい」などと言われると、俺とて貢ぎたくなる。――ましてやこの遣り口は、「どうせなら自分と美味しいものを食べようよ」に自然と繋がる。そうして始めはハードルの低い食事から、と、彼は少しずつ男に貢がせる体制を整えていくのだろう。  信じられない者もいるだろうが、このコケティッシュな美男子に貢ぎたいと虜になる男は確実にいる。こと金満家は美人(男女問わず)に貢ぐ趣味もあるしね。   「ふふっ、まあ今日はいいです。…何にしても…」    と目を伏せたユンファさんは、唇の端を皮肉っぽくつり上げる。   「まさか無いとは思いますが、僕の顔に騙されて僕なんかに惚れたら、ショウさんは絶対に痛い目を見ますよ。」   「…痛い目ですか。それはどんな…?」    俺が静かに喜々としてその話の深いところを欲しがると、ユンファさんはふっと鼻でばかり笑う。その伏し目は笑っていない。   「……狂ってしまうんです。みんな――僕は悪魔みたいなものですから」    ユンファさんの暗い妖艶な目が、つぅ…とおもむろに横――俺の顔を見た。   「僕、貴方のような人がタイプなんです」   「…それは嬉しいな。俺も貴方のような人がタイプです」    俺は「やっと見つけた」と思った。  ――やっと俺が惑溺(わくでき)するべきつがいを見つけた、と思ったのである。  ユンファさんの顔がこちらへ向く。赤紫色の妖花(ようか)の瞳は、俺の水色の瞳に冷艶な視線というリードを付けて離さない。   「…僕はショウさんのように健全で、馬鹿真面目で、誠実で…愛が何だとかお花畑なことを言うような、ロマンチストの男が大好きなんですよ…――僕、そういう男を(もてあ)ぶのが大好きなんです…」   「……そうですか…、……」    俺は「是非どうぞ」と言いたいのを堪えた。  ――こうして(あなど)られたままでいたほうが、ユンファさんは俺のものになってくれると思ったからだ。  ユンファさんは俺に妖しい危なげな暗い微笑を向けたままに、色っぽいささやき声でこう言う。   「ええ…、僕は彼氏の精根が尽き果てるまで搾取してやりたいんです。…だから僕の彼氏たちはみんな、すぐに呆れて何処(どこ)かへ行ってしまうか……あるいは狂って、僕のことをぶん殴ったり、暴言を吐いてきたり、無理やり犯してきたり…あるいは、僕を自分の都合のいい奴隷に躾けようとしてくる。…“お前のせいだ、お前のせいで俺は破産だ”……」    俺の目を見つめてくるユンファさんの眼光は鋭いが、彼の切れ長のまぶたは陶然とゆるまっている。   「…“お前にどれだけ貢いだと思っているんだ。お前はその顔と体しか取り柄が無いんだから、大人しく俺に股開いてりゃいいんだよ”…ってね。でも…彼氏が僕に暴力を振るってくると、僕は本当に気分が良い…――ざまあみろ。」   「……、…」    俺はゴクリと喉を鳴らした。そこまでは何か妖しい柔らかさのある声で話していたユンファさんが、途端に「ざまあみろ」とせせら笑う冷徹な低い声を出したからである。セクシーだった。彼はその低い声でこう続ける。   「あんなにまともだったお前も、晴れて社会不適合者になっちまったな…? 愛が何だとか能弁垂れていたお前が、今やモラハラ暴力男…。僕のせいで根性ばかりか性癖までねじ曲がっちまって…おめでとう。お前、もうまともな人とは付き合えないね…、ほんっとざまあないな……って。――ふふ…彼氏が不幸になると、僕は逆に物凄く幸せになれるんです…」   「……なるほど…、……」    なるほどこの危険な男は、どうやら()()()()()()()である。――ましてやそのような危険な男のセリフ、あるいは彼なりの警告を聞いていてもなお、一度惚れたら手に入れるまでどこまでも…という執念の男たる俺に、彼のそれは馬の耳に念仏であった。   「…わかりました…ご忠告感謝します。…まあとはいえ、もう手遅れなんですけれど…――俺は一目見たときからもう既に惚れてしまっているんです、貴方という美しく危険な華にね…、……」    俺はユンファさんのその軽蔑まじりの冷眼に微笑みかけたあと、おもむろに目を伏せ、じっくりと彼の肉厚な赤い唇を食んだ。      ――これはまさに運命だった。  俺はやっと()()()()()()()()()を見つけた。        俺たちの持つ蠱毒(こどく)はどうもよく似ていたのである。      行方(ゆくえ)(くら)ましマゾヒスト――いや、向こうにしてみれば行方晦ましサディストか。    俺の場合は人を不幸にして喜んでいるわけではなかった。――しかし…以前は真っ当な人間に真っ当な愛情を求めていたというのに、俺のサディズムに心酔しきってしまったマゾヒストたちは今、一体どこで何をしているのやら……?    ……とはいえ元鞘(もとさや)に戻るなんて野暮なことだ。ましてや俺は、その両極の関係性でしかないマゾヒストに絶対服従されてしまうとすぐに飽きが来る。絶対服従とは両極が行き着くべきゴールであり、その後は無いのだ。――俺はどれほど哀願されたところで、かつて過激に愛したマゾヒストたちの元へ戻るつもりはなかった。    むしろそのほうがよいのだ。それだから向こうにも俺にも切ない両極の興奮だけが跡に残る。  強烈な刺激的な辛い料理の後を引く辛味と旨味、いまだ舌に残って忘れられないあの味、舌が覚えている、求めている、しかしもう二度と口にはできない幻のその料理……永遠に追い求められる刺激的な幻の俺、夢の記憶の中で俺をどんどんと美化してゆくマゾヒストたち、これは夢の中に生きるサディストとマゾヒストにふさわしい、もっとも美しい芸術的な(あるいは理想的な)形の「お別れ」である。    何よりこの頃の俺は、そろそろ夢の空中浮遊を終えて着地点を探さねばと思っていた。――だから真剣交際のできる彼氏を探していたのである。    結局のところ、そういった需要と供給の関係性は、肉体上の飢えを刹那的かつ表面的にしか満たさない一過性のものである。精神の飢えを満たさないうちには、肉体の飢えも一向に満たされない。    サディストの俺には心から尽くしたいと思える恋人が必要だ。…サディストだのにと思うだろうか?  ……しかしその実サディストというのは、よほどマゾヒストに隷属するよう尽くしている存在である。  加虐もただの暴力・暴言ではならず、正鵠(せいこく)を射た加虐によってマゾを(よろこ)ばせ、衝動性の高まった興奮のさなかにも頭を使ってマゾを完全にリードし、しばしば躾のためには理性をもって沸き立つ情欲をこらえねばならない。――だからよくサディストとマゾヒストは表裏一体といわれるのだ。本質的にはどちらも「尽くしたがり」なのである。    従って、俺には真剣交際のできる彼氏もこと、心酔しうる恋人が必要だった。  ……なおマゾヒストか否かは問わない、と俺は決めていた。――もちろん理想としては俺の性質と対極にあるマゾヒストだったが、それはあくまでも夜の相性の話である。俺が耽溺というほどのめり込める、サディストの俺がマゾヒスティックに変貌するほど尽くしたくなる、飽きのこない魔性の悪い魅力を湛えている男がマゾヒストである――ということは、残念ながら少ない。  ――つまり太陽のあるうちは生意気なサディストの癖に、月が昇ると俺に翻弄されて歓ぶマゾヒストが俺の理想の男、ということではあるが、その夢のような理想を追求していては、それこそいつまでも真剣交際なんて夢のまた夢だ。    最悪は他で満たせばよいだけのことだ。  この世の多くのサディストとマゾヒストは、その両極の欲求を「お遊び」として真夜中の夢のうちに満たしていながら、朝目覚めれば健全な陽だまりの中に築き上げた安定の幸福を(まも)っている。      太陽なくして月は輝かない――。      燦然(さんぜん)と輝く太陽のもとでも誰に恥じることもない幸福、日付けのように繰り返される土台の幸福があればこそ、刺激的な夜の夢もまた遺憾(いかん)なしに燦爛(さんらん)と輝く。  その夜の幸福はあくまでも刹那的な夢、自分には夜にしか楽しみや喜びや幸福がないという状態のうちは、本当の意味での幸福は得られない。――餓鬼(がき)のように満たされよう満たされようと(きり)(むさぼ)り食らうのもいい加減馬鹿みたいだ、と、この頃の俺はそう思いはじめていたのである。      しかし、俺のつがいとなるべきこの類まれな月の美男子――まさに俺の理想の顕現(けんげん)月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)もまた、俺とよく似た蠱毒(孤独)を抱えて生きてきていたのである。  ……つくづくこれは運命だった――。        

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