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第1話
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丘をくだり、湖水を渡り、風が吹き抜けた。木々の葉が激しく揺れる。
その直後、すべてが静寂に包まれた。
木々の葉鳴りが収まり、広々とした青空を流れる雲さえピタリと動きを止める。
ハンチング帽をかぶったカイトはあわてて手帳を閉じた。宿無しの身には大切な鉛筆を挟み、肩掛けの布かばんへ乱暴に突っ込む。
牧草地を転げながらくだり、ふたたび動き出した雲の流れを目で追う。
(あっちが北だっけ? いや、東? どこも同じ景色なんだよな……ッ!)
悪態をつきながら走り続ける。雲のようすも観察した。
どこまでも続く丘陵は青々とした草に覆われ、高く低く折り重なっている。澄んだ青空は、一見すれば牧歌的だ。しかし、そうとばかりはいえない。
自然美溢れる光景には、ひとびとの生活を脅かすほどの異常気象が潜んでいる。秋にだけ起こる『メイプルストーム』だ。
カイトがそれを知り、独学で調べ始めてから二年が経った。
見知らぬ土地、見知らぬ人々、見知らぬ風習。
ここに来るまでは、二十八歳の佐藤(さとう)海斗(かいと)として、民間気象会社で気象予報士の職についていた。お天気キャスターではなく、各所から流れてくるデータを取りまとめる仕事だ。
日本生まれの日本育ち。大学で大気科学を学び、予報士の職についてからは、毎日毎日、満員電車に揺られて通勤する社会人のひとりになった。退屈なぐらいに平和な日常が、今も恋しい。だから、その暮らしが一変した日のことを覚えている。
予報通りに雨が降った夜、駅から家に帰るたった八分の道のりの、ちょうど半分のところ。予感めいたものがあったとすれば、『ところにより雷』の予報が出ていたことぐらいだろう。
そして、雷鳴と稲光の発生は同時だった。
凄まじい衝撃がカイトの身体を貫き、黒い傘が飛んでいくのを見ながら気を失った。
黒。なにもかもを飲み込んでしまうような闇の色。
そのなかで意識が途絶え、気絶から目覚めたときも真っ黒だった。
はじめは死んだと思い、次に昏睡状態だと思い、最終的にはもうろうとしたまま、寝たり起きたりをくりかえしていると気づいた。
どこからともなく差し込む細い光がまぶたに当たり、朝が来て、夜が来て、また朝が来るのがわかる。その規則正しさに、カイトは生きていることを実感した。
生きているなら、生きのびたいと思うのが人間だ。
「どっちから、吹いてる……。どっちだ」
黒髪を隠すハンチングを前後ろにして、揺れる木々の動きと雲の流れを必死になって確かめた。『メイプルストーム』とはその名通り、メイプルの葉を巻き上げる突風だ。ただし、風流なものではない。凶器と化した葉によって服や肌がズタズタに切り裂かれ、運が悪ければ命を落とすこともある異常気象だ。発生を予測する方法はなく、建物や屋根のある囲いのなかでやり過ごすしかない。
一方で、カイトは昔ながらの観天望気の知識を応用し、発生をその場で察知できるようにはなっていた。勝率は七割だ。
空と風を見る以外にやることがない生活ゆえの収穫だった。
ここはダンブレイスという土地で、アバロニア国の南に位置する。そして、アバロニアは、グランブリテン連合王国を構成する地域のひとつで、ブリテン島の北部にある。
つまり、カイトの知っている世界ではない。時代的には産業革命の起こるころ、ビクトリア朝時代あたりのイギリスによく似た別世界、いわゆる『異世界』だ。
雨の夜、落雷で即死した佐藤海斗は、この世界に召喚された。ただ、髪と瞳が黒いというだけが理由で。
なにが、どうなったのかは、よくわからない。
規則正しい光がまぶたに当たる、薄暗い石造りの部屋で、カイトは黒ずくめの集団に取り囲まれていた。四方八方から浴びせられる英語は吐き気をもよおすほどに不快で、ただ死にたくないと願う日々だった気がする。もうろうとする意識の片隅で感じていたのは、黒い闇と白い光が入れ替わるさまだ。
気がつけば、ボロ布にくるまれ、道端に捨てられていた。心あるひとに拾われ、納屋で看病を受けたが、三日すれば別の場所に移される。文字通りのたらい回しだった。
理由がわかったのは、体力が戻り、彼らが話す英語を聞き取れるようになってからだ。
この世界には不思議な力が存在していて、『魔女』や『魔道士』が信じられている。その邪悪で不吉な存在の象徴が黒い髪と黒い瞳だった。
邪険に扱えばあとがこわいと、三日ほどは軒下や納屋の隅を貸してくれるが、それ以上は許されない。
最低限の施しを受けながら、カイトは宿無し生活でなんとか命を繋いできた。
つらくなることも悲しくなることもあったが、そもそもが脳天気な楽天家だ。就職活動では、短所反転の長所アピールとして『切り替えの速さ』を訴えたぐらいだから、冬の寒さをしのげれば、空の研究だけをしていられる生活も悪くない。
そのうちに幸運が巡ってきて、森の小さな家を手に入れる日も来ると考えているぐらいだ。
「……あっちが北か」
宙を見つめていると、遠くに舞うものが見えた。鳥のような、雪のような、風に乗った動きをする。
風に巻かれたメイプルの葉だと気づき、カイトはその場を逃げ出した。左にそれたのは、林が近いからだ。メイプルストームをやり過ごすための横穴がある。
そのとき、視界の端に小ぎれいな衣服が横切った。めったに見かけることのない高級貴族の装いだ。いつもなら関わり合いにならないようにするのだが、メイプルストームの近づいている現状では無視できなかった。
「おぉーい!」
大声を張りあげて腕を振りまわす。カイトはぴょんぴょん飛び跳ねながら丘をくだった。
「そっちはダメだ! ストームが来る!」
息せき切って声をかける。身振り手振りで来た道を戻るように伝えたが、四人の男たちは怪訝そうな表情で足を止めるだけだ。
「服も身体もズタボロになっていいんなら、好きにしろよ! おれは言ったからな!」
捨て台詞を怒鳴り散らし、その場を離れる。一刻の猶予もなかった。
だれからも信用されないことはわかっていた。二年間の宿無し生活で衣服はボロボロ、髪も伸び放題。ヒゲだって、ろくに剃れていない。黒い髪や黒い瞳以前の問題だ。
それでも腹が立った。一緒に走ってくれさえすれば、直撃をまぬがれる。
カイトは大きく息を吸い込んだ。もう一度、彼らを呼び寄せようと振り向く。
「止まらなくていい!」
集団のなかから抜け出た長身の男が手を振った。カイトの呼びかけに応え、一目散に駆けてくる。瞬間、カイトの胸に熱いものが込み上げた。この二年間で初めて、自分の言葉がまっすぐ届いたからだ。
「ハロルドさま!」
「お待ちください!」
「そのような戯れ言に……ッ」
残された男たちがくちぐちに非難の声をあげる。
「ここは、彼を信用しよう!」
明瞭な声がメイプルストーム直前の晴れ渡った空に響いた。
人影がカイトの隣に並んだ。金色の髪が跳ねるたび、キラキラと輝く。背は高く、足が長い分だけ走るのも速い。
三人の取り巻きたちも駆け出し、追われた兎のような勢いで追いかけてくる。
カイトはまっすぐに林を見つめた。少しも気をゆるめずに声を張りあげる。
「あの木の向こうまで走れ!」
背後では笛を吹くような風の音が聞こえはじめていた。
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