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第2話

 メイプルストームは確かに発生したが、林を越えた先には現れなかった。カイトの予測通り、まっすぐに抜けて消えたのだ。 「彼に命を救われたようなものだ」  凜とした青年の声が木立のなかに聞こえた。張りあげてはいないのに、よく通る声だ。 「ですから、ハロルドさま……」  対する従者らしき男は、なかば呆れた雰囲気で声をひそめた。 「礼金を渡しましょうと申しあげております。なにも、屋敷へ連れて帰ることはありません。あの黒髪……しかも瞳まで黒いとは……気象魔道士かもしれません」 「口を慎め、ジョージ。あのままでは、五体満足に屋敷に帰れたかどうか……。とにかく、私が決めたことだ」  ハロルドと呼ばれた青年はいかにも貴族然とした仕草で振り向くと、肩掛けカバンを両手にかかえているカイトの前までやってきた。  体格のいい身体を包んでいるのは仕立てのよさそうな明るい茶色のスーツだ。村人たちの衣服とは生地からしてまるで違う。 「きみのおかげでメイプルストームに遭わずに済んだ。礼を言おう。もしよければ、屋敷に招待したい。風呂と食事、新しい衣服も提供しよう」 「いや、べつに……。そういうつもりじゃないから……」  視線が合わせられず、よろめくようにあとずさる。逃げようとしても無理だった。ハロルドに命じられた男ふたりが左右に控えている。 「遠慮をすると、厄介なことになる」  声をひそめたのはハロルドだ。いたずらっぽく前髪を跳ねあげる。  懸命に走ったせいで汗だくになり、ヘアスタイルは崩れていた。それでも、チラリと見た顔だちはまぎれもない美形だ。形のいい眉にスッキリとした鼻筋をしている。  そのキラキラした容姿を前にして、くたびれたハンチング帽をかぶり直したカイトはいっそういたたまれず背中を丸めた。その耳元に、ハロルドがささやいてくる。 「……あのメイプルストーム、起こしたのがきみならば、致し方ない」  甘い美声は、英語の発音も流れるように見事だ。 「ちがっ……、違う、違う! そんなことできるわけ、ない!」  飛びあがる勢いで否定すると、ハロルドの片眉がひょいと跳ねる。 「そうだとしたら、発生場所を予知した方法をご教授願いたい。ここはサマヴィル家伝統の土地だ。跡取りとしては、ひとびとの暮らしを守る義務がある」 「……跡取り」  なにかを思い出しそうになる。しかし、悠然としたハロルドに意識を取られ、肝心なことはなにも思い出せない。  土地に暮らしはじめて二年経つが、出会ったのは村人たちばかりだ。貴族はときどき遠くに見かけたが、狩りの流れ弾を心配する以外の関心は持ったこともなかった。 「さぁ、馬車が来た」  立ち姿も見栄えするハロルドの声が爽やかに響き、木立が風に揺れる。つられて顔をあげると、視線がバチッと音を立てるようにぶつかった。 (あ、イケメンを超えてる……)  初めて直視するグランブリテンの貴族に目を奪われる。日本にいたころも見たことのない超絶美形だ。しかも、青い瞳が透き通るようにきれいだ。 「ハロルドさま。座面が汚れてしまいますから、外に腰かけていただいては」  従者のジョージが声をひそめたが、やはりハロルドは聞き入れなかった。 「もういいから、おまえたちはのんびり歩いてこい」  毅然とした態度で言いつけ、まごつくカイトを迎えの馬車へ押し込んだ。  続いて入ってくるハロルドの背後に、悲鳴を呑み込んだジョージを見てしまう。 「よかったんですか。お付きの人、目が吊りあがってました」 「元からの顔つきだ」  ハロルドはおかしそうに笑う。その穏やかな微笑みでさえ、内側から光り輝くように見え、カイトは思わず脱力した。座席から床へすべり落ちる。 「どうしたんだ」 「……おれ、ここでいい、です……」 「ジョージの言うことなら気にしなくていい。……そこのほうが落ちつくなら、どうぞ、そのままで」  語気に柔らかな気づかいが滲み、いたたまれなくなったカイトは両膝をかかえてうつむく。すると、すぐに伸びてきた手に背中を押された。 「あぁ、ドアにもたれるのは危険だ」  にじにじと動いて、中央へ寄った。 「……すみません」 「命の恩人が転げ落ちたら、寝覚めが悪い」 「おれのこと、まだ、気象魔道士だと思ってます?」 「そうだね」  ハロルドははっきりと肯定した。 「確かに魔法は廃れて、いまや民間伝承のまじない程度のものでしかない。けれど、不思議というものは、世の中に山ほどある」 「おれは……違います」  異世界から召喚されたとは、まさか言えない。 「気象魔道士は貴重な存在だから、恥ずかしがることではないけどね」  ハロルドに言われ、カイトはため息をこぼした。そんなことは言われたことがない。  貴族と村人では、考え方そのものが違うのだろうかと内心で首を傾げながら、カイトはおずおずと口を開いた。 「魔法なんて使ってないです。さっき、メイプルストームの来る方角がわかったのは、そういう予兆があったからで……」 「たとえば、どんなものだろうか?」 「それは……風速と風向きです。メイプルストームが起こるときは、すべての風が止まったようになる。雲の動きも止まるので、おそらく上空で風がぶつかっているんじゃないかと」  秋にしか起こらないメイプルストームだが、シーズン中の発生タイミングは不規則で『気まぐれな災害』とも呼ばれている。  すっきりとしたあごのラインに指を当てたハロルドがニコリと笑った。 「なるほど。なかなか現代的な観点だ」 「元々、そういう仕事をしてたから……。好きなだけです」  そして、なにより、この世界でやれることがなかったからだ。毎日、暇で暇で死にそうになり、ひとり勝手に、嵐が発生するメカニズムを解析しようと決めた。大学では大気科学を学んでいたから、幅広く現象や仕組みを知ることに興味がある。  カイトの本心を知りもしないハロルドは興味ありげにうなずき、落ちつきのある声で言った。 「もしも、メイプルストームの謎が解明できたなら、すばらしいことだ。災害の予防にもなるだろう」 「まだまだですけどね。……いまは、その場にいて予兆を感じるだけだし、今日みたいに飛んで逃げないといけないし……」  片膝をかかえながら座るカイトは、窓の向こうを見あげた。  のどかな空に、白い雲が浮いている。馬車はガタゴトと揺れて、そのたびに身体が小刻みに跳ねる。尻が痛くなって耐えられず正座になると、ハロルドがおどろいたように目を丸くした。 「そんな体勢……」 「あぁ、おれは平気だから」  生粋の日本人だからと心のなかでつぶやくと、ささやかな証しにすがるしかない日々が脳裏をよぎった。日本語はひとりごとでしか口にしなくなったし、米や醤油を使った日本食にいたっては、ここに来てから一度も見たことがない。 「やはり、シートに座ってくれ。見ていられない」  ハロルドに腕を掴まれ、カイトはハッと息を呑んだ。あわてて手を振り払う。 「汚れてるから」  さっと逃げて、正座を崩す。片膝を立てた姿勢に戻り、視界の端にハロルドの革靴を見た。  途端に、泣きたい気分に襲われる。ハロルドの靴先やズボンの裾も砂埃に汚れていたが、カイトのみすぼらしさとは比べものにならない。 (恵まれてるんだな。なにもかも、おれと違う……)  金色のやわらかそうな髪、くっきりとした二重と凜々しい眉。顔のパーツは整って並び、青い瞳はきらきらしていた。  長い間、水に映った自分の顔しか見ていないことを思い出し、カイトはくちびるを噛みしめる。日本にいたころは、おしゃれでないにしろ、清潔感だけは心がけていたのに、いまはなにひとつ気を使えない。  腹の虫が雰囲気を読みもせずにグゥと鳴ったが、小石を踏んで進む車輪の音にかき消される。カイトはいっそう顔を伏せた。

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