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第3話

 ハロルドが『屋敷』と呼んでいたのは、ダンブレイスを治めるサマヴィル家が所有する『ダンブレイス城』のことだった。馬車から降りたカイトはあんぐりと口を開き、小高い丘に建つ石造りのカントリーハウスを見上げる。遊園地の中央に建つ煌びやかな城ではなく、直線的で堅牢な建築物だ。遠目に見ていたときよりクラシックで荘厳な印象がする。  燕尾服を着た初老の男がハロルドを迎え、ジョージがハロルドに呼ばれる。 「彼に部屋と食事を頼む。それから温かい風呂も、忘れずに」 「仰せの通りに」  従者のジョージはうやうやしく一礼をした。彼の肩越しに視線を向けたカイトに気づくと、ハロルドは軽く手を閃かせた。髪や瞳の黒さを微塵も気にしていないようすで微笑み、開け放たれた玄関に吸い込まれて消える。 「こちらへ」  すっかり目を奪われていたカイトの視界が翳り、何度も声をかけていたらしいジョージが眉根を引き絞った。呆れ顔で背中を押され、建物の裏へまわる。小さめに作られたドアから地下へおりた。  使用人たちの反応は想像通りだ。ジョージの言いつけに従い、風呂を準備してくれたが、見たこともない東洋人の顔だちをいぶかしがり、ハンチング帽を取ったカイトの黒い髪と黒い瞳に気づくなり、小さく悲鳴をあげて飛びすさった。そのあとは目をそらしてしまう。  廊下の隅に置かれたイスへ座らされたカイトは、ひとりでぼんやりと床の一点を見つめた。働く使用人たちの気分を害さないようにする。  ひっそりと息を詰めているうちに、でくわしたばかりのメイプルストームのことを考えはじめた。  予兆めいた静寂、雲の動き、風の流れ。  さまざまな要素がよみがえり、肩にかけた布カバンを探って手帳と鉛筆を取り出す。忘れないうちに書きつけていると、風呂の準備ができたことを知らせにジョージが戻ってくる。手帳と鉛筆を布カバンへしまい、ジョージの先導に従った。 「まずは、その髪をよく洗ってからだな」  荷物を置き、服も脱がないうちから、大きなたらいの前へ膝をつかされた。  面倒を見るようにハロルドから念を押されたとぼやくジョージは、これみよがしなため息を何度もくりかえす。それでも、根気強く桶で湯をすくい、カイトの洗髪を手伝ってくれる。石けんを使うのは久しぶりで、汚れが落ちるまでには三回もかかった。 「まるで捨て猫を拾ってきたみたいだ」  ジョージのひとりごとを聞き流していると、ビネガーリンスをかけられ、丁寧に櫛を通された。そして、またすすぐ。  ようやく髪の汚れが落ち、毛並みも整う。ジョージはひときわ大きな満足の息をついた。 「ずいぶんとまっすぐな髪質じゃないか。おどろいた。……さぁ、風呂は自分で入って。石けんはここに置いておくから。あまり長く浸かっていると、湯冷めするから、ほどほどにしておけよ」  最後に着替えを示し、廊下のイスで待っていると言い残して出ていく。  狭い風呂場に残されたカイトは衣服を脱いでバスタブへ入り、顔や身体を丹念に洗う。次はいつ使えるかわからない石けんを見つめながら思案した。 (もう、かなり小さくなってる。頼んだら、もらえるかも)  冷たくそっけないジョージの表情が脳裏に浮かび、気持ちはシュンとしぼんだ。もしかしたら高級品かもしれない。香りは控えめだが、泡立ちは抜群だ。  カミソリを見つけ、濃くはないヒゲを剃る。髪と同じで、やわらかな毛質だから、たまに剃ればよかった。  風呂を済ませて廊下へ出ると、一分の隙もない姿勢で座っていたジョージが近づいてくる。手には、ころんとした形のカゴを持っていた。 「部屋を用意したから、今夜は休んでいくように。……ハロルドさまの気づかいだ」 「石けん。残りをもらえませんか」  礼を言うのももどかしくたずねると、ジョージは不満げに目を据わらせた。  無礼者といわんばかりの冷徹な表情だが、カイトは臆することなく相手を見た。黒い瞳を向けても、ジョージは怯まない。  カイトを無視することもなかった。 「新しいものを用意しよう。他に必要なものがあれば、教えてくれ。……明日の朝、聞きにくるから、昼までに用意できそうなものにしてくれると助かるな」 「いいんですか」 「ハロルドさまからの謝礼だ。今夜の食事はこのカゴのなかに入っている。申し訳ないが、部屋で食べてくれ。外の空気が吸いたくなったら、そのドアから外へ」  屋外にあるトイレの場所も教えてもらい、使用人たちがにぎやかに働くホールとは逆の方向へ進む。突き当たりの部屋へ案内された。  狭く細長い部屋で、手前には古めかしいクローゼットがひとつ、そのすぐ奥に小さなベッドが置かれ、引き出し付きのサイドテーブルが並んでいる。息苦しいほどの狭さだが、雨風をしのげるだけでも感謝しなければならない。  メイプルストームが発生した夜は気温が低くなる。野宿では厳しい一晩だ。 「ありがとうございます」  ドア枠にもたれるようにしているジョージを振り向き、受け取ったカゴをかかえて深々と頭をさげた。 「……こちらこそ、礼を言う。ハロルドさまにお怪我がなくて、なによりだ」  天井間近に作られた横長の小窓から、淡い秋の陽差しが入ってくる。ジョージの顔ははっきり見えなかったが、ほんの少しだけ笑顔を浮かべたような気がした。  彼もハロルド同様に背が高く、年齢は三十代半ばぐらいに見える。サイドで分けてなでつけた髪は暗い茶色で鼻が高い。つんと澄ました冷淡な表情がよく似合う顔だちだ。ジョージはすぐに踵を返し、ドアが静かに閉まる。  ひとりになったカイトはパッチワークのカバーがかかったベッドへ腰かけ、カゴとカバンを足元へ置いた。  硬いマットの上に、ゆっくり転がってみる。部屋には地下室らしいかび臭さが漂い、ベッドカバーも湿り気を帯びている。けれど、手入れのされた部屋だ。  湿ったベッドカバーからも、ほのかなハーブの香りがする。保管されていたものが、いま広げられたばかりなのだとわかった。  カイトはそのまま目を閉じる。隣の部屋との仕切り壁は薄いかもしれないが、二方向の石壁は音を吸収していく。民家の軒先や納屋とはまるで違う静寂に包まれ、いまとなっては遠い、日本での暮らしを脳裏に思い描いた。  電車の音やコンビニの明かり。  だらだらと眺めた携帯電話の画面。好きだったゲームの効果音。  なにもかもなくなってしまったと思うたびに、秋空を染めて広がる夕焼けの幻影に意識が包まれる。 「夕焼けの、きれいに見えた翌日は、晴れ……」  小さな声でつぶやき、かすかに開いた目をふたたび閉じた。  日本の天気は偏西風の影響を受けるから、天気を左右する低気圧や高気圧は西から東へと移動する。ここがイギリスと同じ位置にあるとすれば、西岸海洋性気候で日本と同じ温帯だ。  しかし、イギリスにメイプルストームはない。当たり前だ。風に巻かれた葉っぱが凶器と化してしまうなんて、日本の妖怪でいえば『かまいたち』のような怪異だろう。  イギリスにも同じような伝承があるのだろうかと考えたが、日本、つまり向こうの世界にいたときには興味のなかったことだから、思い出せる知識もない。  もっと、この土地の、ダンブレイスの資料を得ることができたら、メイプルストームの解明へ前進できる。 いまのようにちまちまと空を眺めている程度では、研究どころではない。  ため息があくびへ変わり、カイトは眠りに誘われた。肌も髪もさっぱりと清潔になって、心底から気分がいい。  ベッドカバーの内側へ入らなければと思いながら、いつしか意識を手放してしまう。夢も見ず、泥のように眠り、やがて自分のくしゃみで目が覚めた。  部屋はしんしんと冷え込み、からだがブルッと震える。 湿った髪が首筋へ当たって冷たい。  窓の外から差し込む光は月明かりへ変わり、サイドテーブルに置かれたランプは使わずにカゴのなかのパンを食べた。チーズとハムが挟んであり、小瓶の牛乳もついている。 「帰りたいなぁ」  いつもの言葉がくちびるからこぼれ、冷ややかに笑う。眉をひそめ、くちびるを歪め、肩をすくめた。  パンを食べ終えて今度はベッドカバーをめくる。毛布の下へ入った。しかし、背中に取りついた寒気は去らず、いっそう全身へと広がっていく。 (髪が冷えてる……。風邪、ひいたかも。……しまったな。どうしよう。明日からはまた野宿なのに……。どうしよう)  堂々巡りの思考が渦を巻き、カイトはそのなかへと引き込まれていく。  考えたところでどうしようもない。また眠りへ誘われた。

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