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第4話
翌朝は高熱にうなされ、ようすを見にきたジョージには、恐ろしいほどそっけなくあしらわれた。仮病だと思われたのだ。
昼になると、約束通りに新品の石けんを渡され、荷物をまとめろと急きたてられた。もうろうとしながら起きあがり、天井がぐるぐる回るほどの目眩に吐き気を覚える。
『ちょっと、待って……』
英語を使う余裕がなかった。自分が発した日本語の音さえ、遠い世界から聞こえる声のように感じる。ベッドの端に座ったカイトは呆然と壁を見た。
「呪文か……。まさか、恩を仇で返すつもりでは……」
焦ったジョージの言葉も理解できない。カイトはただひたすらにベッドへ戻りたかった。発熱の倦怠感に全身が包まれ、指の関節までもが痛い。
「やはり、下へ案内されていたのか」
開けたままの出入り口から若い男の声がする。不満げに鋭い響きだが、現れたのは玄関先でにこやかに手を振っていたハロルドだ。
「上の部屋を用意するように頼んだはずだが……。ジョージ。もっとはっきり言うべきたったか。子どもに言い聞かせるように?」
「彼が遠慮したのです」
「……ようすがおかしいな」
「いえ、気のせいですよ。あなたはこのようなところへ下りていらっしゃってはいけません。昨日の礼は、私から丁重に伝えました」
「だから、上の階を、と……。やはり、おかしい」
ジョージを押しのけて近づいてきたハロルドが優雅に身を屈める。手のひらをカイトの額に押し当て、小さく息を呑んだ。
「ジョージ……、ジョージ・ファーレイ。私を落胆させないでくれ」
言葉はジョージへ向けられる。ハロルドの手を冷たく感じていたカイトは、壁際に立つジョージの肩が強張るのを見た。
「普段は野宿をしているような者です。地下室の冷気が身体にこたえたわけではないでしょう」
「そうであったとしても、髪を乾かしてやらなかったのは、おまえの落ち度だ。まったく……。人を見かけで判断するものではない。……メイプルストームの進路を予知できるなら、魔道士でも魔女でもかまわないんだ」
そう言って、ハロルドは身を起こした。背筋を伸ばして凜々しく立つ。
「……だいたい、いつの話をしているんだ。機関車が縦横無尽に走るようになったというのに、非科学的な」
「ですが……、ハロルドさま」
「これほどの高熱を出している人間を追い出そうなどと……。ひとでなしか」
ハロルドの語気が強くなり、ジョージは押し黙った。
(なにの話をしてるんだろ)
ぼんやりと座っていることしかできないカイトには、ふたりの流暢な英語が聞き取れなくなり、会話の内容が理解できない。
「私が看病をする」
宣言が響き、地下にある使用人部屋の空気は一変した。ぴりっと引き締まる。
(ん? いまの言い回しは知ってる……。けど、なんだっけ)
カイトはよろめくように声の主へ顔を向けた。熱で視線が定まらず、ハロルドの表情は見えない。
「いけません、ハロルドさま」
ジョージが焦ったように声をひそめた。
「だれに対する諫言だ。私の決めたことを覆せる力が自分にあると思うのか」
ハロルドの口調は強く、ジョージはため息さえつかない。直立の姿勢になったのが、高熱で揺らぐカイトの視力でもわかった。
「今度こそ、上に部屋を用意しろ。すぐに。……のんびりしていると、私の寝室で寝かせることになるからな」
「……あなたというひとは」
あきらめのひと息をこぼし、ジョージは素早く踵を返す。
部屋に残ったハロルドに促され、カイトはベッドへ横たわる。まぶたは自然と閉じた。息があがり、先ほどまでは乾いていた肌に汗が噴き出す。
「……きれいな髪だ」
指先が髪に触れてくる。まずは毛先を引っ張られるような感覚がして、次にそっと指で梳かれる。やがて、頭頂部から表面をなでられた。
まるで、幼い子どもや、犬猫にするような手つきだ。
(……あぁ、ひとがいる)
いまのカイトには、弱った生き物に対するハロルドの気づかいが沁みた。優しさが伝わってきて、閉じたまぶたの裏が燃えるように熱くなる。発熱の心細さが少しはやわらぐようだ。
「ジョージの臆病者め。黒い毛並みとなると、風邪をひかせる……」
ハロルドの声が子守歌のように聞こえ、背を向けたカイトは手足を縮める。
身体をベッドカバーで包まれ、やがて部屋の準備ができたと知らせがきた。
すると、そのまま数人の手で運びあげられてしまう。嫌がったり遠慮したりする気力はなく、身体はふわふわと宙を移動する。
着地したのは、昨晩とはまるで寝心地の違うベッドで、身を包んだ毛布と布団のやわらかな感触は二年ぶりのものだった。
頭の下には枕が押し込まれ、冷たく絞ったタオルが額を覆う。
カイトの意識は遠のき、深い深い眠りへ落ちた。できれば、長い夢から覚めて、現実社会の日本へ戻りたいと願う。
春の桜を散らす突風、夏の夕立、秋の高い空、冬の低く垂れ込めた雲。眺めてきたひとつひとつを夢に見て、カイトは発熱でうなされながら涙をこぼした。
だれかが、そっと拭ってくれる。
この二年間、たったひとりだったと思い知り、カイトは手探りにだれかの指を握りしめた。
高熱は三日続き、寝たり起きたりをくりかえす。目を覚ますと、いつもハロルドがいた。
ベッドのそばに円卓を置き、書き物をしていたり、本を読んでいたりする。真剣な横顔は端整で凜々しく、カイトを振り向くときの笑顔はやわらかい。
「目にも力が戻ってきたようだ。水を飲むか?」
カイトがうなずくと、小鳥のような形の水差しが口元へあてがわれる。カラカラに渇いた喉が潤ったのと同時に咳き込み、何度もされたように背中をなでられた。
「そろそろ、食べものを口にしてくれないか」
言われて、ぼんやりとうなずいた。けだるさが全身に残り、まだ明確な食欲はない。けれど、食べなければ回復が遠のくばかりだ。
「林檎のコンポートを作らせた。小さく切ってあるから」
カイトの身体を起こしたハロルドが、座りやすいように背中へクッションを詰めながら言う。小皿がサイドテーブルにあり、スプーンを手にしたハロルドはベッドの端へ腰かけた。
甘く煮て冷ました林檎は、ほどよい酸味が残っていて美味しい。口を開けるのがようやくのカイトは、ゆっくりと咀嚼して食べた。
そうして、穏やかな表情のハロルドを見る。
(おれのこと、十代のガキだと思ってんだろうな)
この世界に来てから、何度も同じ扱いを受けた。かわいそうな子どもの浮浪者だと同情して、その黒い瞳がなかったら引き取ったのにと言われたことも数えきれない。
この国では、黒い瞳は『邪悪』の象徴だ。黒い魔女か、黒い魔道士か。子どもに化けているだけだと、追い回されることだってある。
時代が時代なら魔女裁判にかけられて火あぶりだったと眉をひそめたのは、教会の牧師だ。時代は変わったといいながら、伝承を覆すまでには至らなかった。
「……おれのこと、子どもだと思ってます?」
久しぶりに出した声は、ガラガラに嗄れていた。それでも、なんとか言葉になる。
「いいや。そうは思っていないけれど……。魔女は若く見えるというからね」
ふふっとふざけたように笑い、また、ひと匙の林檎を運ぶ。カイトの口へと流し入れ、小首を傾げた。
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