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第5話

「黒猫を飼っていたんだよ。冬の日に、白い雪に埋もれているのを見つけたんだ。あの子も、きれいな毛並みをしていた」 「なんだ、猫か」  やわらかな林檎を飲み込んだカイトが笑うと、ハロルドは安堵の表情で目を細めた。 「ジョージは口うるさく反対して……。子猫を風呂に入れたと思ったら、風邪をひかせた。あのときは、ふたりで看病したんだよ。……ジョージとはもう十五年も一緒にいる。私より七つ年上の従者だ」 「何歳?」  カイトは指先を立て、ハロルドの胸下あたりを指差した。 「私は、今年二十五歳になった。きみは……、待って、当てるから」  そう言って、宙にさまよわせた視線を戻す。澄んだ青空のような瞳でじっくりと見つめられ、カイトはまばたきをくりかえした。  ハロルドが、うぅんと唸って言う。 「そうだな……。十七歳。そんなところだろう」 「……ノー」  端的に答えて首を左右に振る。 「じゃあ、十六歳か十八歳ってところだね」  たいした違いはないから正解だと決めつけたハロルドは、ニコリと笑う。片手を伸ばしてきた。肩につく、ざんばらな髪を指先で揺らされる。 「ベッドから出られるようになったら、散髪をしてもらおう」 「……あの、おれは」  断ろうとしたが、開いた口へ林檎が運ばれる。ハロルドは穏やかな雰囲気のなかにも、有無を言わせぬ気品を滲ませて言った。 「きみには聞きたいことがたくさんある。もしも、メイプルストームの発生が予測できるとしたら、災害対策もできるようになるだろう。……この家の跡継ぎだからね、ダンブレイスの管理を任されているんだ」 「跡継ぎ……」  カイトがくりかえすと、ハロルドは優雅にうなずいた。 「そう。ダンブレイス公ハロルド王子と呼ばれている。……つまり、グランブリテン連合王国の正式な後継者でもある。だから、この国で起こる異常気象は、重大な問題だ。メイプルストームは各地で報告されているし……」 「連合王国の?」  そこでカイトの理解は止まる。ハロルドはベッドを下りて、小皿をサイドテーブルへ戻した。 「きみが何者であるかは、追及しない。藪からヘビをつつきだすようなものだろう。けれど、ジョージが心配するほどの性悪にも思えない。……私の予感は当たるんだ。血筋というものだろう」  そう言って、カイトをまた横たわらせる。 (ダンブレイスを管理するのは、サマヴィル家だ。なにか特殊だって、だれかが言ってた。なんだったかな)  考えながら毛布を引きあげ、自分の肩をしっかりと包む。ほっこりとした温かさに全身がリラックスしていく。 「夜はカボチャのスープを作らせよう。パンぐらいは食べられるといいね」  眠るようにと勧められ、カイトは目を閉じた。 一方のハロルドは円卓へ戻っていく気配だ。  ちらりと盗み見て、背筋のぴしりと伸びた姿に納得した。 (マジか……)  彼は『王太子』だ。サマヴィル家の長男で、第一王子。  出会ってきた村人たちが、領主さまは次期国王で我々の誇りと胸を張っていた。 (そうだ。父親が国王だから、息子が領地を管理しているって話だった)  しかし、問題はそこではない。異常気象を案じているハロルドは、カイトの知識に本気で期待しているのだ。 「おれは、気象魔道士でもないよ」  期待には応えられないと言いたくて、ひとりごとのようにつぶやく。 (だって、気象観察は単なる趣味の延長線だ)  読書に戻っていたハロルドは聞き逃さず、うつむいたままで答えた。 「そうだろう。魔女とも思っていないよ。さまざまな技術が日々、進歩している。伝承に縛られる時代でもない。……きみはなにか、新しい考えを持っているようだから」  開いた本を手で押さえ、ハロルドが振り向く。 「早く元気になってくれ」  まっすぐな視線を投げられたカイトは、くすぐったいような気分になった。少し前の会話が浮かんでくる。 (拾った子猫って、どうなったんだろう)  ジョージが風邪をひかせて、ふたりで看病して……。そのあとのことが気にかかる。  そう思いながら、カイトはまた眠りに落ちた。口の中には甘酸っぱい林檎の味が残っている。  北風が窓を静かに揺するのを聞きながら、カイトは黒い猫のことをぼんやりと夢に見た。懐かしいコンクリートジャングルの片隅に、しなやかな身体が見え隠れする。黒い尻尾はピンと長かった。  寝込んで四日目。ベッドサイドの円卓が持ち去られ、ハロルドの看病はなくなった。  代わりに、食事のようすを見にくる。トレイを運ぶジョージは、さりげなく迷惑そうな一瞥を投げてきた。早く屋敷から出ていって欲しいのだ。  ハロルドは気づいていたが、ジョージを咎めることはなかった。止めても無駄と言いたげに、カイトへ向かってこっそりと片目を閉じた。軽妙さがいたずらっぽく、ふたりだけの秘密を思わせる。  はじめはあたふたしたカイトも数回目には慣れ、ジョージから冷たくあしらわれるほどにハロルドの優雅なウィンクを期待した。人間関係というものを持たなかった二年間の反動だ。少しの気づかいでも嬉しく感じられる。  食事を取れるようになったカイトの調子はぐんぐんと良くなった。歩行のリハビリ代わりにベッドの周りを歩いたり、廊下を行き来したりも許され、日中は窓際の大きなカウチソファでメモを書きつけた。  内容は窓から見える空のようすだ。方角を把握して、雲の動きを観察する。 (この屋敷のあたりはメイプルストームが起こらないって話だったな。どうやって土地を選んだんだろう。……偶然か?)  湧いた疑問を書き留めて、手帳と鉛筆をそばに置いた。  与えられたジャケットを着て、内ポケットに片づけ直す。タイミングよく、昨日から部屋付きになった使用人の男が呼びにきた。  裏口から出て、屋敷をぐるっとまわる。晴れ渡った秋空を眺める丘の端に、大きく育った木が見え、木製の簡素なイスが置かれていた。  伸びきった髪を切ってもらう予定だが、まだ散髪屋の姿はない。 「おまえのような禍々しい男が居座っていると知られたら、ハロルドさまの評判に傷がつく。これ以上の迷惑をかけないうちに、荷物をまとめて出ていくことだ」  視線を合わせようとせず、使用人の男は威嚇するように身体を揺すった。身長差は二十センチほどあり、このあたりの成人男性の平均よりもまだ高い。カイトが子どもに見られるのは、身長のせいでもあった。 (まぁ、言いたくもなるよな)  使用人の男に同情しながら、カイトは一歩たりともあとずさることなく相手を見た。 (でも、仕方ないんだって……。これもなにかの縁だ)  寝込んでいるあいだ、ずっと、地下の使用人部屋の端でいいから住まわせてもらえたらと考えていた。  黒い髪と黒い瞳に忌避感情を持たないハロルドは珍しい。そして、カイトのすることにも興味を持ってくれている。一縷の望みをかけたくなるのは当然だ。 (これから冬が来る……。納屋を転々とするのは、もう嫌だ)  生きていくための鈍感力をフル回転させて、カイトはまるで言葉が通じないかのように使用人の男を見据えた。 「そ、そんな目で……」  うっかり目を合わせてしまった男がぐっと押し黙る。肩がわなわなと震え出すのは、言葉にならない恐怖ゆえだ。  あまり怖がらせるのもかわいそうだったが、脅しに屈すると侮られては今後に影響する。この際、邪悪だと思われてもいいから優位に立ち、雨風のしのげる部屋と安定した食事を手に入れ、いびり出されないようにしなければならない。

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