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第1話
降り注ぐ陽光の下、満開の桜が惜しげもなく花弁を散らす敬信大学の春。理工学部の評価が高いこの中堅私大でも、春の訪れは格別だ。
しかし、その華やかさとは裏腹に、藤堂圭 の心は鉛のように重い。
教養科目である基礎物理学の講義を終えたばかりの彼は、講義棟を出るなり深いため息をついた。
熱意のない学生を相手にする虚しさには慣れているはずなのに、ここ数ヶ月の研究の行き詰まりが講義の虚しさに重なり、例年以上の疲労となって圧し掛かっていた。降りしきる桜吹雪すら、彼の無味乾燥な日常とは何の関わりもない、ただの背景に過ぎない。
早く静かな研究室に戻り、思考の迷宮に再び没入したい――その一心で研究棟へ続く小道を歩いていた時、ふと、圭の視界の端に、場違いな色が引っかかった。
古い桜の大木の根元。散り敷かれた花弁と瑞々しい下草の上に、それはあった。自然界には存在し得ない、精密な幾何学。一冊のノート。
誰かの忘れ物だろう。見なかったことにして通り過ぎようとした、その瞬間。
春の微風がノートの端を悪戯にめくり上げ、桜の花弁が数枚、吸い寄せられるように舞い降りた。まるで、見つけてくれと訴えるかのように。
圭は気づけば足を止め、導かれるように手を伸ばしていた。
大学生協で売られている、ごく普通の水色のキャンパスノートだった。角は擦り切れ、全体に使い込まれた痕跡がある。新入生の持ち物ではなさそうだ。
裏表紙を上に置かれていたノートを表に返し、圭は軽く目を見開いた。
『量子力学・自主演習ノート』
丁寧だが力強い筆跡。
自身の専門分野に通じる内容だ――ならば、知っている学生のものかもしれない。
好奇心に抗えず表紙を開こうとした、その時。
背後から慌ただしい足音が近づいてきた。
「すみません! ここにノート落ちてませんでしたか!?」
切羽詰まった、必死さが滲む声。
振り返ると、息を切らしてこちらへ駆けてくる学生の姿があった。
少し癖のある明るい茶色の髪。甘く整った、しかしどこか少年のような快活さも感じさせる顔立ち。
――入学当初から『イケメン』として噂になっていた顔だ。名前も知っている。
圭が教鞭をとる理工学部物理学科の三年、秋吉悠也 。
「これか?」
圭がノートを示すと、秋吉の表情がぱっと輝いた。焦燥から安堵への急転換が、見て取れるほど鮮やかだ。
「それです!」
駆け寄ってきた秋吉にノートを手渡しながら、圭は無意識のうちに彼を観察していた。同じ学科とはいえ、直接講義を担当したことはない。こうして間近で向かい合うのは初めてだった。
「助かりました! 今日提出の演習課題、全部ここにまとめてたんで」
秋吉は、受け取ったノートをまるで宝物のように両手で胸に抱き締め、圭を真っ直ぐに見詰めた。視線の高さはほとんど変わらない。
大きく、曇りのない黒い瞳。その奥にひどくひたむきな光が宿っているのを圭は見た。
――いい目をしている。
そんなことを思った自分の心の動きに、圭は少し驚いた。
「拾ってくださってたんですね、藤堂先生。ありがとうございました!」
深々と頭を下げ、きびきびと踵を返す。その時、圭の口が勝手に動いた。
「待て」
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