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第2話
なぜ呼び止めたのか、自分でもわからない。
驚いたように振り返った秋吉に向けて、再び手を差し出す。
「少し見せてもらえないだろうか」
圭の唐突な申し出に、秋吉は一瞬、目を丸くした。だが、すぐに人懐こい笑顔を浮かべた。
「もちろんです! ……って、藤堂先生に見られるの、めっちゃ緊張しますけど」
はにかむようにわずかに視線を落としたその頬は、言葉通り、微かに上気しているように見えた。
圭は構わずノートを受け取り、無造作にページを捲った。そして軽く瞳を瞠る。
紙面を埋め尽くす、見慣れた数式群。思考の格闘を物語るような、走り書きのメモや図。決して綺麗とは言えないが、どの記述も熱意に裏打ちされている。重要な箇所には何度も線が引かれ、試行錯誤の跡が生々しく残っていた。
噂に聞くような、ただ容姿が良いだけの学生という印象とは全く違う。そこには、学問に対する、真摯で泥臭いまでの取り組みの軌跡が刻まれていた。
「……意外だな」
思わず漏れた呟きは、やはり秋吉の耳に届いていた。
「どういう意味ですか?」
悪戯っぽい光がその瞳に宿っている。
「いや……君のような学生が、これほど真面目にノートを取っているとは、正直思わなかった」
「俺のような学生って、ますますどういう意味です?」
屈託なく笑うその顔は、春の陽光を浴びて咲いた花のように鮮やかに圭の目に映った。なるほどこれが『イケメン』というものか、と、やや間の抜けた理解がすとんと腑に落ちる。
ただ、その外見と、今見知ったノートの内容とのギャップが、なぜか圭を落ち着かない気分にさせていた
。
大学構内で彼を見かけるのは、いつも彼が学生たちの中心にいる時だった。賑やかな男子学生たちに囲まれているか、あるいは華やかな女子学生たちの視線を集めているか。
圭は、そんな彼のことを、スマートに要領よく万事そつなくこなすタイプだろうと勝手に思い込んでいた――見かけに惑わされず本質を見抜くべきだと、常々自戒しているはずなのに。
「気を悪くしたなら謝罪する」
ノートを返しながら、圭は淡々と言った。
すると、秋吉は笑顔のままわずかに瞳を瞠った。その微かな表情の変化に、圭は訝しげに眉を寄せる。
「何かおかしなことを言ったか?」
「あ、いえ……」
秋吉は一瞬、視線を彷徨わせたが、すぐにまた視線を戻し、悪戯っぽく笑った。
「先生みたいな人が、学生に普通に『謝罪する』なんて言うと思わなかったから、ちょっとびっくりしました」
「……先生みたいな人、とはどういう意味だ」
真面目に問い返すと、秋吉が小さく吹き出した。
「おあいこ、ですよ。先生」
その言葉で、圭も、先程の自分たちのやり取りと立場が入れ替わっていたことに気づく。
「つまり、俺はいかにも勉強してなさそうに見えて、先生はいかにも年下に頭を下げなさそうに見える、ってことですね」
「――……」
「お互い、人を見た目で判断しちゃダメってことで」
に、と口の端を引き上げて見せた笑みは、先程までの人懐こいものとは少し質が違う。猫のようにしなやかで、掴みどころがない。
くるくるとよく変わる表情は、圭の周囲にいる人間にはあまり見られないタイプだ。それは、圭が普段築いている冷徹な思考の壁を軽やかにすり抜けてくるような感覚をもたらした。
若干の居心地の悪さを覚え、圭は無意識に眼鏡のブリッジを指先で押し上げた。自身の平静がわずかに乱されていることを自覚する。
「――留意しよう」
その硬い返答がまた可笑しかったのか、秋吉がくすくすと笑う。
圭はそれに構わず、研究棟へ向かって歩き出した。これ以上、この学生と言葉を交わす理由は、本来なら無いはずだ。
「藤堂先生! 本当に、ありがとうございました!」
背中に投げかけられた明るい声。振り返ることはしなかったが、その声は奇妙に耳に残った。
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