3 / 27

第3話

 夜の帳が下り、昼間の喧騒が嘘のように静まり返った大学構内。  規則的に並ぶ街路灯が無機質な光を投げかけ、アスファルトの小路に長い影を落としている。  圭は、研究室での作業を終え、思考の残滓を引きずりながら図書館へと向かっていた。講義の準備に必要な文献を数冊、借りて帰るつもりだった。  ひんやりとした夜気が肌を撫でる。春の宵、と表現するには、人工的な光に照らされたキャンパスはあまりに殺風景だ。聞こえるのは、自分の革靴が石畳を踏む規則正しい音だけ。 「――?」  ふと、そんな静寂を破って、前方から複数の明るい話し声と弾むような笑い声が聞こえてきた。図書館の入り口付近に、数人の学生が集まっているらしい。  こんな時間まで何をしているのか。普段なら気にも留めず通り過ぎるはずだった。  しかし、その輪の中心に見覚えのある明るい茶色の髪を見つけた瞬間、圭の足はぴたりと止まった。  秋吉悠也だ。  数日前の、あの桜の下での邂逅が鮮明に蘇る。  ひたむきに光る黒い瞳と、数式で埋め尽くされたノート。――圭の胸の奥に、さざ波のような何かの感情が小さく波打つ。  秋吉は、入り口の階段に腰掛け、数人の学生に囲まれて楽しそうに談笑していた。屈託のない笑顔を振りまき、身振り手振りを交えて場を盛り上げている。甲高い笑い声が、静かな夜気に響いた。  圭は、なぜかその場を動けずにいた。図書館の入り口から少し離れた、街路灯の光が直接届かない位置に身を潜めるようにして、その光景を眺めてしまう。  くだらない。心の内で毒づく。  学生が夜のキャンパスで騒いでいる。それだけの、ありふれた光景だ。  いつもの自分なら、視界の隅に映るただのノイズとして処理し、何の感慨も抱かずに図書館のドアを通っているはずだ。だというのに。  圭の目は、まるで引力に捕らえられたように、秋吉の姿から離れなかった。  彼の一挙手一投足が、やけに鮮明に網膜に焼き付く。遠目にも、彼が周囲に気を配り、巧みに会話を回しているのがわかる。 「もー、悠也ってホント調子いいんだからー!」  黒髪ショートの女子学生が、楽しげに言いながら秋吉の肩を軽く叩く。親密さを隠さない仕草。  その光景が、妙に圭を落ち着かなくさせた。不快、というのとは少し違う、もっと複雑で掴み難い感情が胸の底で揺れる。 「やば、あたしもうバイト行かなきゃ!」  一人が慌ただしく立ち上がった。それを皮切りに、他の女子学生たちも腕時計やスマホを確認し始める。解散の時間のようだ。 「悠也は? この後、一緒にカフェ寄ってかない?」  残った数人が立ち上がりながら秋吉を誘う。  圭は、なぜかその問いの答えを待っていることを自覚した。自分でも理解できない執着に困惑するが、足は動かない。 「俺は、ちょっと図書館で課題やってくから」  秋吉の断る声が聞こえた。 「えー? じゃああたしも図書館寄ろっかなー」  別の女子学生がそう言いかけるのを、秋吉は静かに遮った。 「ごめん。今日は一人で集中したいんだ」  その声のトーンに、圭は思わず息を詰めた。  秋吉の表情は、先刻までと変わらず柔らかな笑顔を浮かべている。  だが、その笑顔の裏に、ぴしりと張り詰めたような他者を拒む壁のようなものが感じられたのは、果たして気のせいだろうか。 「そっか。じゃあ、またね」  誘いを断られた女子学生たちは諦めたように去っていき、やがて秋吉は一人になった。  彼は、ふう、と誰にも聞こえないほどの小さなため息をついたように見えた。  ――いい加減、ここで盗み見ている自分は何なのだ。  圭はようやく我に返り、今度こそ図書館へ向かおうとした。その刹那、思わず息を飲む。  街路灯の白い光が、一人佇む秋吉の横顔を冷ややかに照らし出していた。  先程までの人懐こい笑顔はそこにはない。硬質で、真剣そのものの表情。  無機質な光が彼の整った顔立ちに彫像のような陰影を与え、どこか近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。そしてその瞳は、何か遠くの、あるいは内面の深い場所を見つめているようで、ひどく思い詰めているようにすら見えた。  知らず、鼓動が早鐘を打つように高鳴っていた。  女子学生たちと笑い騒ぐ屈託のない笑顔。  圭に向けた真摯な黒い瞳と、泥臭く数式で埋め尽くされた使い古しのノート。  そして――今、夜の闇の中で一人佇む、思い詰めた横顔。  まるで別人のようなその表情に、圭の胸の奥で揺れていたさざ波がひときわ大きく波打った。  鼓動が、静かに、しかし確かに、その熱と速度を上げていく。  ぼんやりとした靄のような疑問が、次第に鮮明な形を結び始めていた。  秋吉のあの表情の裏には、一体何が隠されているのだろう。  その疑問は、圭が日頃取り組んでいるような、仮説と検証の射程にあるものとはまるで違っていた。  混沌として、指先から胸の奥まで不可解な熱で満たしていく——どこか危うくて、厄介な好奇心。圭にとってはただの「感情」に過ぎない、余計な異物。  そんなものにこれほど心を乱されることなど、かつてなかった。しかも相手は、あの桜の下で偶然出会っただけの、ただの一学生だというのに。  一人呆然とする圭の視線の先で、秋吉が、何かを振り払うように小さく頭を振った。そして、図書館の自動ドアの向こうへ消えていく。  秋吉が立ち去ってからしばらく経っても、圭はその場から動けずにいた。  その後ろ姿は、未解決の公式のように、圭の中で静かに燻り続けていた。

ともだちにシェアしよう!