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第27話
「――……何で、謝るんですか?」
どれほど時間が経っただろう。
やがて、秋吉がわずかに腕の力を緩め、くぐもった、しかし確かな声で囁いた。その声には、喜びと、少しの呆れと、そして深い安堵が滲んでいた。
圭は、ゆっくりと瞬いた。秋吉の肩越しに滲む夜の闇が、少しずつ輪郭を取り戻していく。
ずっと目を背け続けていた。自分の気持ちからも、彼の気持ちからも。でも、もう、逃げられない。これほどまでに温かく、誠実な腕の中から、逃げ出すことなどできるはずがない。
深く息を吸い込むと、冬の澄んだ空気が、熱くなった身体を少しだけ落ち着かせてくれた。
「理由、か」
圭の指が、縋るように掴んでいた秋吉のコートの布地を、そっと握りしめた。
「君を傷つけ、拒絶したこと。それから……教員として、あるまじき感情を抱いたこと、だろうか」
秋吉が小さく身体を離し、圭の顔を覗き込む。その瞳は赤く潤んでいたが、先ほどまでの不安の色はなく、確かな光が宿っていた。
「俺、もうハタチですよ。ちゃんと大人です」
「……それでも、立場というものがある。大学は学問の場だ」
「学問してるじゃないですか。成績優秀でしょ、俺」
悪戯っぽく笑う秋吉に、圭は言葉を失う。その明快さと優しさに、胸が熱くなる。
ひと呼吸の間。
秋吉の掌が、労わるように優しく圭の背で律動を刻む。
「……それだけですか?」
秋吉の声は、静かで、しかし透徹な響きを帯びていた。
過去の苦い記憶が胸をよぎる。裏切りと後悔。信じていた人に裏切られたあの日から、自分は誰かを深く愛することを自らに禁じていた。そんな資格などないと。
「わからないんだ。自分が、何を感じているのか――どうしてこんなにも感情が乱されるのか、言葉でうまく説明できない。ただ、秋吉を見ると、どうしようもなく胸が苦しくなる。嬉しいのに、怖い。…怖いくせに、この上なく、幸せ、で」
ひく、と喉が引き攣り、みっともない嗚咽が漏れる。
「――……これが、恋というものなら、私には、到底、理解できない。どう扱えばいいのか、わからない」
たまらず、再び秋吉の肩に額を押し付ける。理解できないものは遠ざけ、関わらない。そうやって今まで生きてきたはずなのに。
今は、このぬくもりを手放すことができない。
「わからないのに、離れたいのに、――なのに、秋吉の気持ちが、……とても、うれしい」
背中に触れる掌に、そっと力が籠ったのを感じた。
また涙が溢れる。眼鏡のレンズが曇る。秋吉のコートを汚してしまうかもしれない、と、どうでもいいことが頭をよぎった。
「こんな矛盾した感情で君を縛ることなど、許されていいはずがない」
また、一呼吸の沈黙。
「先生」
秋吉の声の響きが、不意に変わった。真摯で、芯の通った――強い。
同時に、両肩を掴まれる。密着していた体温が少しだけ離れ、まっすぐに顔を見合わせる。
圭の頬が熱くなる。みっともなく泣き崩れた顔を今すぐにも伏せたいのに。
だが、秋吉の視線は、痛いほどに強く、そしてどこまでも優しかった。
「俺、縛られるなんて思いません。俺が、自分で、先生を選んだんです。『わからない』って言う先生のこと、好きになったんです」
吸った息を、吐き出すことができない。強く、ひたむきな黒い瞳に、吸い込まれてしまいそうな錯覚。
「俺だってわからないことだらけですよ。でも、先生のこと好きだっていうこの気持ちだけは本当です。――先生は、その俺の気持ちを『うれしい』って言ってくれた」
柔らかな笑顔。
「先生が何を怖がってるのか、全部はわからないけど。一緒に向き合っていきたい。先生が自分を許せないなら、俺が許します」
笑顔の輪郭がぼやけていく。頬を伝う涙は、もう冷たいのか熱いのかさえ分からない。
「好きです、先生。俺の、恋人になってほしいです。……もう一回、返事を教えてください」
低く、真剣な――けれど、どこまでも温かく包み込むような声。
圭は、やっと、小さく息を吐いた。細く長く、震える吐息だった。
「――……私も。君が、すきだ」
ぎこちなさは残っていたが、先刻よりはっきりと、滑らかに想いを告げることができた。
しかし、秋吉はそれだけでは満足してくれなかった。悪戯っぽく細められた目で、じっと答えを待っている。
「俺の恋人に、なってくれますか?」
赤裸々な単語。誤解の余地のない明晰なその単語が、圭に改めて現実を認識させる。
――こいびと。
――私が、秋吉の、こいびと、に。
また鼓動が乱れる。頬から首筋まで熱くなる。
答えは、もうとっくに決まっている。なのに、答えようとする唇が小さくわななく。口にすることが、どうしてこんなにも気恥ずかしく、難しいのだろうか。
それでも圭は、懸命に、霞む視界いっぱいに映る、優しい笑顔を見つめ返した。
「なり、ます」
消え入りそうな声だったが、やっと言えた。
次の瞬間――張り詰めていた何かが、音を立てて弾け飛んだような気がした。
「……っ、せんせ……っ!」
再び、今度は先ほどよりももっと強い力で、けれど壊れ物を扱うように優しく、秋吉の腕の中に抱き締められた。喜びと、安堵と、そして疑いようのない確かな愛情に満ちた、温かい抱擁。
酩酊にも似た、眩暈がするほどの幸福感。秋吉の胸に顔を埋めなければ、本当にその場にへたり込んでしまっていたかもしれない。
恐る恐る、震える自分の手を、彼の広い背中に回す。しっかりと抱き返すと、重なる身体から伝わってくる彼の確かな体温と、力強い鼓動。秋吉のそれは、圭のものより少し速い。けれど確かに、同じリズムを刻んでいる。
深い安堵と、満ち足りた想いに包まれ、圭は恍惚と目を閉じる。
まだ、「わからない」ことだらけだ。
この感情の正体も、これから先に待ち受けるであろう数々の困難も。
それでも、秋吉が隣にいてくれるのなら。
今、この腕の中で感じている、どうしようもないほどの幸福感と、この温もりだけは、絶対に手放したくない。
それが、揺るぎないただ一つの真実だと、圭は静かに噛み締める。
冷たい冬の夜空の下、二人の吐息だけが白く重なり合い、静かに消えていく。
その傍らでは、秋吉が大切そうに握りしめたままの、紫色のチープなボールペンが、まるでささやかな祝福のように、微かな光を放っていた。
<了>
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