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第26話
それきり、とっくにその存在すら忘れていた。取るに足らない安物のペン。それを、秋吉は。
「まだ持っていたのか……?」
呆然と呟いたその時、背後から慌ただしい足音が聞こえた。
振り返ると、秋吉が、血相を変えてこちらへ走ってくるのが見えた。息を切らし、肩で大きく呼吸をしながら、圭から数メートル離れた場所で足を止める。そして、愕然とした表情で、圭と、圭の手に握られた紫色のペンを交互に見詰めた。
こんなにも近くで彼と向き合うのは、どれほどぶりだろうか。
彼の瞳が、自分だけを射抜いている。その事実に、圭の心臓は痛いほど高鳴った。だが同時に、その瞳の奥に揺れる、かつてないほどの動揺と、大切なものを奪われまいとするような警戒の色を見て、胸が締め付けられる。
濃く短い沈黙が重く落ちる。冬の冷たい空気が、二人の間にぴんと張り詰めた。
「……返してください」
ようやく絞り出された秋吉の声は、押し殺したように低く、微かに震えていた。
圭は、すぐには反応できなかった。ただ、安っぽい作りのペンを握りしめたまま、彼の瞳を見つめ返す。いつもただひたむきに圭を見返していた瞳の奥に、今は抑えきれない何かが渦巻いているのが見えた。このペンが、彼にとってどれほどの意味を持つというのか。
圭が動かないのを、拒絶と受け取ったのだろうか。秋吉が、焦れたように一歩踏み出した。
「返してください!」
今度は先ほどよりも強く、懇願するような響きを帯びた声だった。その必死な声に、圭ははっと我に返る。
慌ててペンを差し出すと、秋吉はそれを、まるで壊れ物を扱うかのように、そっと、しかし素早く受け取った。まるで最後の希望の欠片を取り戻したかのように、両手で大切そうに包み込む。
その痛々しいほどの仕草に、圭は胸を突かれた。
「それは……私が、夏に貸した――」
「俺のです」
尋ねようとした言葉を遮り、秋吉の声が高く響いた。必死さが滲んでいる。その顔には、先刻すれ違った時の他人行儀な冷たい表情はもうどこにもない。怒りにも似た強い激情と悲痛なまでの切実さが、彼の双眸を濡らし、強く光らせていた。
「いいじゃないですか。ペン一本ぐらい、俺にくれたって」
秋吉の声がひび割れた。
「それで、俺はちゃんと諦めます。もう先生に迷惑かけない。――ホントは嫌だけど。ペンじゃなくて、先生に、傍にいてほしいけど」
震える声を零しながら、潤んだ瞳が真っ直ぐに圭を射抜く。
「もう我侭言いません。先生の邪魔はしないから」
今にも泣き出してしまいそうな、痛々しいほどに純粋な瞳。
圭はようやく悟った。この取るに足らない安物のペンが、今の彼にとって、自分と唯一繋がっていられる最後の拠り所なのだと。自分とのささやかな記憶を、こんなにも必死に守ろうとしている彼の想いが、どれほど深く、強いのかを。
深く吐き出した息が震える。
圭の胸の底から、激しい衝動が突き上げてくる。生まれて初めて感じる、身を焦がすような、それでいてどうしようもなく愛おしい、強い想い。
もう、駄目だ。
理性も、立場も、世間体も、過去の傷も、未来への恐怖も――何もかも、どうでもいい。
秋吉の、こんな顔を、二度と見たくない。
この純粋な想いを、踏みにじることなど、できるはずがない。
――それは、決して望んではいけないことだと、頭では分かっているのに。
「……ゆるして、くれ」
気づけば、声が漏れていた。震えて、掠れて、自分のものではないような声。
何を許してほしいのか。教師でありながら教え子に惹かれた自分か。臆病風に吹かれて彼を拒絶した自分か。それとも、今、この禁忌を破ろうとしている自分自身か。
秋吉が、びくりと肩を揺らし、息を飲むのが分かった。
「私は……わたしは――きみが……」
言葉が途切れる。舌が、自分のものではないように重い。息ができなくなる。
「――きみが、すき、だ」
言ってしまった。
瞬間、世界から音が消えたような錯覚。
俯き、片手で顔を覆う。圭の中で何かが脆く崩れ落ちていく。溢れる涙が指を濡らす。
答えはなかった凍り付いた沈黙が下りる数瞬。
吸い込んだ息が冷たい。胸が凍る。
当然だ。あれほどまでに彼を拒絶し、傷つけておきながら、今更何を言っているのだ。自分勝手にも程がある。
膝が震え、その場にうずくまりたくなるのを、必死で堪える。情けなく嗚咽が漏れるのを懸命に抑える。
「……忘れて、くれ」
ようやく絞り出した言葉は、囁くように弱々しく、秋吉に届いたかどうかさえ定かではなかった。
涙に濡れた顔を上げることなどできない。この場から消えてしまいたい。
――そう思った、次の瞬間。
圭の身体は、不意に、温かく、力強い腕の中に、きつく抱きしめられていた。
「ぁ、……あ、き、よし?」
驚きに見開いた目に映ったのは、自分の肩に顔を埋める、彼の黒髪。耳元で聞こえるのは、乱れた荒い息遣いと、自分のものか彼のものか判別できないほど、うるさく鳴り響く心臓の音。鼻腔を満たすのは、微かに甘く、清潔な、懐かしい石鹸の香り。
五感の全てが秋吉に満たされ、思考が白く染まっていく。――経験したことのない激しい混乱。だというのに、胸の奥から湧き上がってくるのは、どうしようもないほどの、安堵と幸福感だった。
ぎゅっと瞳を閉じればまた涙が零れ落ちる。先刻と違う理由で溢れた雫は、ひどく熱い。
微かに震える秋吉の吐息が、首筋にかかる。同時に、抱き締める腕にさらに力が込められ、圭は思わず背を反らせた。
足元に小さな振動。自分が持っていたカバンを地面に落としたことに、圭はそこで初めて気づいた。だが、そんなことはもうどうでもよかった。
耳に繰り返し触れる、やわらかくあたたかい感触が、秋吉の濡れた頬だと気づいた瞬間、また嗚咽が込み上げてきた。
――こんなにも、君は。
――私を、求めてくれていたのか。
眩むような幸福。
吹き過ぎる風は確かに冷たいのに、少しも寒さを感じない。
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