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第1話
日向ぼっこをしているといつの間にか眠っていて、不意に感じた愛おしい人の匂いで薄目を開くと、満面の笑みに迎えられる。
ピンクのチューリップが可愛いと彼が言っていた三月のカレンダーも、あと数日で自分一人で捲らなければならなかった。
――つらい。受け入れたくない。ずっと一緒にいて欲しかった。
そんな本音が、いつまでも頭から離れてくれなかった。
篠崎 新(しのざき あらた)。個人経営のカフェスタッフとして働き始めて五年、現在は二十七才で独身。身長は百七十五センチで、筋肉質では無いが細くもない標準体型……だと思う。
左サイドが長いアシメショートは指通りも良く、金髪にしていた時よりも格段に艶も出るようになり気に入っていた。
ドム、サブ、ユージュアルの三つのダイナミクスが存在するこの世界で、多数を占めているのは全体の七割だと言われているユージュアルだ。
だから、普通に生活をしているとドムやサブと関わる事は殆どないし、関わったとしても深い関係にならなければ何の支障もない。
見た目では判断の難しいダイナミクスだからこそ、敢えて公表するタイプと、ひた隠しにするタイプの二極化がみられていた。
自分は後者で、ひた隠しにするタイプだ。
支配されたい、庇護を受けたい欲のあるサブだからというのが大きいかも知れないけれど、サブ=マゾヒストは『誰から』も虐められて喜ぶと思われがちな印象が拭いきれなくて、そういう扱いを受けたくなかった。
半年間同棲していた彼が去った後のベッドは広く感じ、寝ぼけ眼で見た先の枕に手を伸ばして見ても人肌の温もりはない。
悪夢こそ見なかったけれど、最悪の気分だった。
欠伸をしながらベッドから抜け出ると、カーテンと窓を開ける。
今日は雲一つない青空で、頬を撫でる風の心地良さに自然と目を細めていた。
小鳥の可愛らしい鳴き声もどこからか聞こえてきて、今日はきっと良い日になる。
前向きになれそうな予感がしていた数分後、まさか自分が膝をつくことになるとは思ってもみなかった。
「っ、…ぁ、…はっ、ん」
肩が何度も上下する程に短い呼吸を繰り返し、内臓のどこだかもわからない不快感で口内が唾液で溢れかえっている。
薄らと浮いた額の汗に張り付く髪の感触が気持ち悪くて、今すぐにでも指で払い除けたいと思うのに、手指はピクリと動くだけだ。
寝室のドアを開けと同時に現れたこの体調不良は自業自得で、それがわかり過ぎて強く目を閉じると唇を噛んだ。
「くっ、そ……、ぁ、うっ」
滲む視界で数メートル先にあるキッチンを捉え、気力だけで何とか床を這い距離を詰めていく。
気を抜いたら吐きそうだし、最悪ここを事故物件にしてしまいそうだ。
だから、とにかくキッチンのテーブルを目指していた。
そこにはこの体調不良から解放してくれる、頼みの綱の抑制剤を置いてあるから。
抑制剤とはパートナーのいないドムやサブには必須の医薬品で、自身の本能を抑制し、欲求不満からの体調不良に効果を発揮する。
同棲が解消されて以来、飲まないとまずいとはわかっていたのに放置していた。
――もしかしたら戻ってきてくれるかも知れないと、期待していたから。
この期に及んで無意識に視線が玄関に向いてしまうのは、まだ期待している気持ちがある現われで、こんな自分は嫌いなはずなのに体調不良からとは違う涙が目尻に溜まる。
自然と眉間に力が籠り鼻を啜ると、頭痛までしてきて顔を顰めた。
耐え難い不快感で溜まっていた唾液は呑み込む事さえ叶わず、顎を伝い始める。
誰かに助けを求めようとも思ったけれど、自分がサブである事を隠している為、頼れそうな身近な人は誰もいなかった。
元恋人に頼るわけにもいかないし、家族は他県に住んでいる為、連絡がついたところで救急車を代わりに呼ばせた挙句、心配をかけるだけになりそうだから選択肢はない。
過去に一度だけ同じ理由で体調不良になった事はあるけれど、今回はその時の比ではなく具合が悪い。
指が震えてきたかと思うと血の気まで引いてきて、意識を保つのがやっとの状態まで陥ったのは今回が初めてだった。
「…、康、…っ、介…ぇ」
無意識に元恋人の名前が零れ、いつ走馬灯が見えてもおかしくない位に気持ちが悪い。
半べその状態で唇を噛み締め、もう駄目かも知れないと鼻を啜った次の瞬間、玄関のドアをノックする音が耳に入った、気がした。
幻聴を疑いながらも眉間に皺を刻み、呼吸を抑えて耳を澄ます。
静かな室内で祈るような気持ちで玄関のドアを見つめていると、確かに聞こえたノック音に九死に一生を得た気分だった。
好都合な事に良く通る低い声が、ドアの向こうから話しかけてくる。
「…、燕谷清十郎と申します。怪しい者ではございません。篠崎新様とお話をしたい事がございますので、ここを開けていただけないでしょうか?」
聞いた事の無い名前と、全く聞き覚えの無い声に内心では狼狽するけれど、中に人がいると確信しているかのような問いかけには期待が自ずと高まる。
どこかの不慣れな営業が訪ねてきた可能性も否めないけれど、最早誰でもいいという心境だった。
昨夜は飲んで帰って来て、その後に玄関の鍵を閉めた記憶が無い。
思い切ってドアを開けて入って来い。普段なら苛立つ事間違いなしだが、今日は許す。さぁ、開けてくれ。
そんな事を胸裏で願っているとドアノブが静かに下がり始め、中を窺うようにドアがゆっくりと、遠慮がちに開き始める。
俺は、助かった……!
そう思った安堵感からか瞼が一層重くなり、視界が霞でくる。
「…っ⁉ あっ、えぁ? あの…っ?」
だがすぐに酷く狼狽している声が耳に飛び込んできて、閉じかけた瞼が上がった。
「ごめ…っ、テー、ブルに、ある…、薬、とって…、飲ま…、せて、下さ、い」
男の顔も確認出来ないまま、ただそう告げるのが精一杯で、言い終わると同時に意識が途絶えた。
柔らかくて暖かい。良い匂いもする。
床に倒れていたはずだったのに、どういう事だ。ここはどこだ?
そう思って薄目を開けると、思わず息を呑んでしまう程の美人に顔を覗き込まれていて思考が完全に停止する。
「…、お薬は服用していただけましたが、他に何かお手伝い出来る事はございますか?」
心配そうに眉を寄せた男の瞳は、まっすぐでいて胸が熱くなる程に優しい。
そして男が着ている服は一般的なスーツでは無く、英国の執事を彷彿させる燕尾服で、ついに自分の所へお迎えが来てしまったのだと思わせてくる程だった。
――きっと彼は天使だ。
男の瞳は自分の欲しかった庇護欲に満ちていて、初対面だというのになぜだかわからないが、甘えても良いと思わせてくる。
それに、薄い唇も形が良く魅力的で、吸い寄せられるように見入っていた。
「じゃあ、キスして欲しい」
「…っ⁉ …、かしこまりました」
天使は目を丸くして、さらには瞳を左右に忙しなく揺れ動かしている。
天使のくせに何を動揺しているんだ。鼻で笑いたくなる光景に気持ちが安らいだ。
口からついて出た言葉に天使は明らかな戸惑いを見せたが、すぐに唇が重ねられた。
天使の熱い吐息が頬を掠め、柔らかな唇の感触は雷にでも打たれたのかと思う程の衝撃を与えてくるのに蕩けそうな程に心地良く、再び意識が朦朧としてくる。
そして、再びゆっくりと目を開くと天使はそこには居らず、さっきまでとは打って変わって、見たくもない、嫌な記憶の景色が目の前に広がっていた。
地獄にでも落とされたのか。思い出したくもない、悪夢の様だった『あの日』の出来事が目の前で繰り広げられ始めた。
「はぁ⁉ 俺なんか悪い事した⁉」
「してないよ。けど、ごめん。僕、他に好きな人出来たから出て行くね」
世間話でもするかのような康介は柔和な笑みを浮かべながら合鍵をテーブルに置き、靴を履いてそそくさと出て行ってしまった。
何の前兆も感じとれなかったから、心の準備なんて何も出来ていなかった。追いかける事も出来ず、ただ茫然と立ち尽くしてしまった事を今でも後悔している。
元恋人の康介はモデルの様な見た目と物腰の柔らかさを持つドムで、夜は別人だった。
康介との出会いは所謂マッチングサイトだったけれど、バニラプレイでは物足りなさを感じていたからぴったりの相手だった。
だから、康介の事を忘れたい一心でまたマッチングサイトを使いワンナイトに挑んでみたけれど、声を掛けてきた強面の男はユージュアルで、失恋をしたと話すと、とても優しく抱いてくれた。
――期待外れだった。
「本当に良いのか?」
「…、っ、平気、中に、出して、……俺の事より、気持ち良くなる事だけ、考えて」
本来なら癒されるだろう気遣うような優しいセックスも物足りなくて、ドムだと確定している相手を探そうとも思ったけれど、信頼関係の無いドムとのプレイにはリスクも大いにあり、踏み切れなかった。
何をしているんだ、俺は。
冷めた頭でそう思った瞬間に突然覚醒し、目を開くと見慣れた天井があった。
今のはただの夢だと頭では理解しているのに、気分の落ち込みから溜息が零れる。
リセットしたい気持ちから静かに目を閉じ、胸裏で三秒数えて目を開けると、もう過ぎた事だと自分に言い聞かせた。
もう一度息を吐き、なんとなく寝返りを打つと素肌に布の感触がありギョッとする。
さらには夢で見た天使が隣で静かな寝息を立てていて、頭の中が一瞬にして真っ白となっていた。
何も考えられないままで天使に見入ってしまい、長い睫毛と綺麗に浮き出た鎖骨に生唾を呑む。
だがすぐに我に返ると、そんな所に目を奪われている場合じゃ無いだろっ! と、自分を胸裏で叱り飛ばした。
今注目すべき事は自分が全裸で眠っていた事と、この睫毛の長い麗しい天使も恐らく服を着ていないという、なぞの状況だ。
玄関に入ってきた男に薬を飲ませて欲しいと懇願し、その後の記憶がなくての今。
服を着ていない男二人が、一つのベッドで眠っている。身体の関係をもってしまったというのが安直な発想ではあるけれど、その辺を思い出そうと小さく唸ってみても、一片の記憶も出てこなかった。
「お目覚めですか?」
「ひぃ…っ⁉」
眉間に皺を刻んでいたところで、何の前触れも無く天使の声が耳元で響く。
あまりに突然のことで、意図せず口から上擦った声が洩れてしまい、思わず顔が熱くなっていた。
それにしても、寝起きとは思えない、ハッキリとした口調がどことなく怖い。
気付けば速くなっていた鼓動を無視し、全裸である理由を訊ねると、天使は身体を起こして小首を傾げた。
造形美を感じさせる均整の取れた体躯は目を奪わる程で、肌の色は白く透明感がある。黒く艶やかな前髪を指で避ける仕草に品の良さを感じ、やはり天使だと息を呑んだ。
けど、羽が無いな。そんな風に寝ぼけた頭で思っていると、天使の声が聞こえてくる。
「申し遅れました。私は燕谷 清十郎(つばたに せいじゅうろう)と申します。……、忘れもしない夏の暑い日、貴方様に助けていただいた燕です」
「……⁉ は⁉ はっあああああああぁぁぁぁぁぁぁ⁉」
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