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第2話

 大声を上げたせいか、完全に目が覚めた気がした。    天使が目の前にいるはずもないけれど、天使だと思っていた男は天使でも人でもなく、自分が助けたらしい『燕』だという。  意外過ぎる第三勢力の出現に、目は開いているのに眠っているかのようだった。  夢の中であればすんなり信じられるところだろうけれど、ここは現実だ。天使もいないし、燕が人間になって現れるはずもない。 「新様がお眠りになられたので、ベッドにお運びしました。寝衣が見当たりませんでしたので、私の故郷の習わしに従いました」 「…、それで、全裸だったと」  全裸で眠っていた理由を説明してもらい、清十郎と名乗る、この容姿端麗な男が異国の人なのだと理解した。  一番気になっていた『何故一緒に眠っていたのか』は、夢の中、もしくは現実で、天使だと思ってキスを強請ってしまった気まずさから訊けなかった。  束の間の沈黙後、上裸で一つのベッドに二人並んでいる姿が落ち着くわけもなく、まずは服を着るという提案をすると、清十郎は二つ返事で応じてくれた。  目のやり場に困る。そんなこちらの思惑を知ってか知らずか、清十郎は前を隠す事もせず堂々とベッドを抜けると着替えを始める。  腰骨から下に視線が行きそうになったところで顔を上げ、背中を向けてお互いに言葉を発する事なく着替えを済ませた。  寝室を後にして、二人でダイニングキッチンへと移動する。  そして、テーブルに相向かいで座ると、話の続きを始めた。 「すぐには信じていただけないかと存じますが、私の言葉に嘘はございません。断じて怪しい者ではございませんので、そこだけは、どうかご理解いただければと存じます」  真摯な態度と面持ちで清十郎は言うけれど、首を縦に振ることは、正直かなり難しい。 「……、俺も助けていただきましたし、疑いたくはないのですが、……その服装で怪しくないって、説得力無さすぎませんか?」  着替えを済ませた自分はティーシャツとジャージの部屋着姿で、清十郎には着ていた服を着て貰ったから、この差の違和感は凄い。    清十郎の服は執事服と表現するとしっくりくる様な見た目で、そういう店にでも行かない限り、日本でお目にかかる事はほぼ無いと言っても過言ではないのだ。  ただ清十郎は完全にそれを着こなしていて、着ていることには全く違和感はなく、むしろ品の良さを際立たせていた。 「そう、ですか…。新様の住む土地の書物を読み、一番違和感のない物を選んだつもりでしたが、申し訳ございません」  一体どんな本を読んだんだ。そう突っ込んでやろうかとも思ったけれど、眉間に深く皺を刻み、後悔を露わにする清十郎の表情はどんよりと曇っていて、喉元で呑み込んだ。  少しズレている気はするけれど、悪い人ではなさそうだし、自分にとっては抑制剤を飲ませてくれた恩人である事は違いない。  ともかく、話だけでも聞いてみようと思い、密かに深呼吸をした。 「いえ、服装は個性ですよね。俺の方こそ、すみません。……それよりも、俺が助けた燕って、…どういう意味ですか?」  こちらから話を振ってみせると、清十郎の表情がみるみるうちに晴れ模様へと変わり、嬉しそうに目を細めた表情には、思わず目を見張ってしまう。  ……綺麗だ。この一言に尽きる。 「とても暑い夏の日に、ベランダに水の入った小皿を置いた記憶はございませんか?」  感情を抑えているような、今にも破顔しそうな清十郎がはにかんで視線を落とした。  目を奪われる程の、端正な顔立ちが繰り広げるその一連の流れに見惚れてしまっていると、 清十郎の瞳に「どうしました?」と問われるように見つめられ、我に返ると記憶を探り始める。 「…、小皿を、ベランダに?」  雑念が僅かに残っていたせいか、すぐには何の事を言われているのかわからなかったけれど、よくよく考えてみると思い当たる節があり、「あっ」と声を上げて清十郎に顔を向けると、細めた目で微笑まれた。  脳裏に蘇ったのは、夏の暑い日にベランダに迷い込んだ燕を見つけた日の事で、この話は誰にもした事がない。  熱中症警報が出る程の暑い日に、ベランダにいた燕。植木鉢の植物に水をやっていて気がつき、飛び立つ様子の無い燕を心配に思い、水の入った小皿を置いたのだ。 「…なんで、知ってるんですか?」  占い師に何かを言い当てられたかのような衝撃で息を呑み、震えてしまいそうな声を懸命に抑える。 「私があの時の燕だからです。ずっと、新様に恩返しをしたいと願っておりました。……どうか私を、新様のお傍に置いていただけません?」 「えっ⁉ えええええええぇぇぇぇ⁉」  飛躍しすぎた話題に脳が拒絶反応を示したようで、思わず叫んでいた。  直後、あまりにも大きかった自分の声に驚愕し、口元を手で覆い隠すと、声と眉を顰める。 「いやいやいや、さすがに…、それは。傍に置くって、一緒に住むって事ですよね?」 「はい。私にどうか、新様へ恩返しの機会を与えていただけませんでしょうか?」  真摯な面持ちで言う清十郎が席を立ち、自分の足元に跪いたかと思うと、懇願するような瞳で熱心に見つめてくる。  その表情はあまりに凛々しくて、真っ直ぐな瞳に胸がキュンとときめき、激しく高鳴っていた。  だが、見た目が好みだというだけで、初対面の得体の知れない男を住まわせるわけにもいかない。犯罪に繋がる可能性だってある。危険だ。 ――残念だけど、断るしかない。 「いや…、申し訳ないのですが」 「……難しいでしょうか?」  清十郎に上目遣いで見つめられると、胸の内がざわつく様な、不思議な感覚がした。 「あー、じゃあ、…少しの間だけ、ですよ」 「新様、ありがとうございます。後悔はさせません。誠心誠意尽くさせていただきます」  魔が差したとしか言いようがなかった。  とても寂しそうに長い睫毛を伏せた清十郎を見ていると、断るという選択肢一択だと決まっていたはずなのに、口から突いて出ていた言葉は控えめな肯定だった。  元恋人である康介が出て行った空白を、誰かで埋めたかったのかも知れない。  良い気分転換になれば良い、そう思っていると清十郎と目が合い、目元を赤く染め嬉しそうに微笑まれると、少しだけ胸が痛んだ。 「…えっと、一つ提案なんですけど、一緒に暫く暮らすわけですし、様付けは止めませんか? 堅苦しすぎるっていうか」  清十郎が困惑気味に眉を寄せ、何かを思案する様に視線を泳がせる。  即答してくると思っていたから拍子抜けて、何て呼べば良いのか考えている? そう思って訊いてみると、真摯な面持ちで静かに頷かれ、生真面目さが伝わってくるようで自然と笑みが漏れた。 「……っ、普通に新って呼んで下さい。俺は、…えっと、燕谷さんの事を、清十郎って呼んでも、…良いですか?」 「勿論です。どうぞ清十郎とお呼び下さい。…、新、この命尽きるまで、私は貴方だけに尽くすことを誓います」  快諾してくれた清十郎からは上機嫌さが伝わってくるようで、つられて口元が緩んでしまう。  ――でも、ずっと一緒に住む流れになってないか?  すぐにでも話を正そうと口を開きかけるけれど、傍らに跪いていた清十郎は真摯な態度を崩さないどころか、どこぞの騎士様の如くこちらの手をふわりと取り、手の甲に柔らかい唇を触 れさせてきた。  そして、止めと言わんばかりにもう一度上目遣いで微笑んでくる。 「ぁ、あははは……」 衝撃が動揺を通り越し放心状態になっていて、これ以上の反応が出来なかった。 「それじゃあ、狭くて申し訳ないんですけど、ここの部屋を使って下さい。ベッドも良かったら……」  二部屋のうちの一部屋を、清十郎に使ってもらう事にした。 「ありがとうございます。有難く使わせていただきます」  清十郎が嬉しそうに部屋の中を見渡していて、ここまで喜ばれるとは思っていなかったから苦笑いが零れてしまう。  というのも、この四畳にシングルベッドが置いてあるだけの部屋は、元々客用の部屋だったから。客といえば聞こえは良いけれど、康介の連れてきた『男』が寝る場所だ。 『今日は三人でしようと思って、ユージュアルの男の子連れてきたんだよ』  玄関を開けた途端に上機嫌の康介にこんな事を言われ、笑顔の裏で気分が急降下し、心中穏やかではいられなかった。  けれど、自分に拒否権なんてなくて、誰だかもわからない初対面の男を含む三人で、寝室へと入り、服を脱いだ。  康介の気まぐれで時々あった、愛のないセックス。出来ない事はないけれど、一対一ならともかく、独り占めしたい程に好きな相手が傍に居るのに、その真逆の他人に触れられる良さは、最後まで見いだせなかった。 「も、ぅ…、あっ、嫌っ…、はっ、あぁっ」  自分だけが二人に攻められ続け、終わった頃には涙で顔がぐちゃぐちゃだった。  康介からどんな酷い事をされても歓喜に変わるのに、他の男からされると辛くて、気付くと喘ぎながら大泣きしていた事もある。  しゃくり上げながら「許して」と懇願していた自分の姿が脳裏に浮かび、無感情のままで短く息を吐く。  康介は定期的に男を連れてきていて、三人目を連れてこられていた時は、毎回浮気を疑われている時だった。  何が根拠なのかはわからないけれど、数日間会えない日が続くと、嫉妬深い康介は浮気を疑ってきた記憶がある。  いつでも待っていたし、康介の為なら先約さえも蹴っていたのに。意味不明だ。  でも、康介のやりたいようにやらせてあげたくて、拒否した事なんてなかった。  三人での行為が終わると男を隣の部屋で寝かせ、もう一ラウンドを二人で始める。 『新、僕の事好き?』 『当たり前だろ。好きだよ』 『本当に?』 『俺には、康介だけだって』  二人だけの安心感と、身体に増える血の滲んだ噛み痕を見つける度に心が震えた。    ――まだ、康介が好きだ。 「あの…、新? どうかされましたか?」 「…いや、大丈夫。あー、やっぱりずっと敬語ってのも家に帰った気がしないんで、普通に話 しても良いです? 家にいる時は、仕事を忘れたいので」  不意に耳に入ってきた清十郎の声にハッとし、誤魔化すように話題と笑顔を作る。 本当に忘れたいのは康介だけだけど、そんな事を話せるわけもない。いや、清十郎だって話さ れても困るはずだ。 「新のしたいようにして下さい。新が心から寛げる空間になるよう、善処いたします」  清十郎の裏表を微塵も感じさせない柔和な笑顔がとても眩しく感じ、本当の自分を知ったらどんな顔をするのかと想像してしまい、唇は弧を描いていたけれど、足元に落ちていた視線は 上げる事が出来なかった。

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