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第16話

 結果的に康介との約束をすっぽかす事となり、只ならぬ悪寒で目を覚ましてスマートフォンを覗くと、顔面蒼白ものだった。 「うっわぁ……」  引き攣った口元から、思わず声が出る。  康介からの着信は二桁にも上っていて、最後の着信は目を覚ました数秒前だった。  今の時間は、午前三時。この時間まで何度も電話をかけ続けていた康介を想像すると鳥肌が立ち、身震いが追ってくる。  ベッドから上体を起こし、睫毛にかかる前髪をかき上げる、大きく息を吐いた。 「どうすっかな……。やっぱ、行くしかねーのかな」  ブツブツと呟きながら布団から這い出て、ベッドの縁に腰を下ろす。焦点の定まらないままで眉間に力が籠り、頭を抱えると大きな溜息が低い声と共に零れていく。 「あぁ、マジで……」  あんなに幸せで気分が良かった数時間前が、夢だったかのように気が重かった――。  清十郎と手を繋いだままで玄関前に立ち、鍵を開けるのを理由にして手を離した。  汗で湿っていた掌を、暑さのせいだと自分に言い聞かせて清十郎を一瞥すると、思わず息を呑んでしまう程の表情で見つめられていた事に気が付く。清十郎の優しい瞳は自分に見惚れているかのように細められていて、薄くて形の良い唇は弧を描いていた。  照れ臭さから顔を背けて鍵を開け、ドアが開くと中へと足を進める。靴を脱いで照明をつけようと壁に手を這わせると、スイッチに指が届く前にドアが閉まる音がした。  月明りで薄暗かった室内から一切の光が消え、振り返った矢先に身体が拘束される。 「清、十郎?」  外で抱き寄せられた時の比ではない程の強い力が鼓動を高鳴らせ、名前を呼ぶ声が裏返った。途端に羞恥で頭の先から爪先までが熱を帯び、ついでに眉が寄ってしまう。  決して居心地の悪いわけではない沈黙と、汗ばむ身体を包んでくる人肌。こんなシチュエーションは今までに幾度もあったというのに、相手が清十郎だというだけで、全く気持ちに余裕がもてない。少しでも平静を取り戻したくて一呼吸置いてみるけれど、吐いた息が僅かに震えていて、かえって居た堪れなくなっただけだった。  黙ったままの清十郎のシャツを掴み、引き寄せるようにして握る。清十郎の吐息が首筋を撫でると、言葉にされているわけでもないのに嬉しさが込み上げてくるようだった。  そういえば、以前に一度だけプレイをした場所もこの辺りだった。そんな事を思い出してしまうと、あの時の興奮が身体の中心を擽り、淡い期待が胸の内で騒ぎ始めていた。  この雰囲気なら、今なら、そういう話も出来る気がする。  ――気持ちを、伝えたい。  期待と共に、先延ばしになっていた想いが顔を出す。徐々に慣れてきた視界で清十郎を捉え ると、薄闇の中で視線が絡み合った。  だが息を呑み、意を決して唇を薄く開いた矢先、清十郎に先を越されてしまう。 「新、以前にこちらで、私にキスを強請ったことを覚えていらっしゃいますか?」  頭に浮かんでいたことが一瞬にして吹っ飛ぶほどの衝撃的な問いに、反射的に目を見開いていた。  忘れるわけがない。心待ちにしていたのに期待外れで、少しだけ、いや、かなり落ち込んだから。 「……覚えてるけど、何?」  肩透かしを食らったようなあの瞬間を思い出すと、今でも少し気が滅入る。苦笑いが出てしまいそうな口元に力を籠めて訊き返すと、清十郎が静かに睫毛を伏せた。 「実は、私のいた世界でのキスはとても神聖な行為で、一生添い遂げると決めた者同士のみが出来ることなのです」 「えっ……⁉」 「ですから……」 「いや、でも、それ言ったら、……俺、清十郎と初対面だった時にキスしてるよな?」  思わず口を挟んでしまうと清十郎が困惑を露わにするかのように眉を下げ、意味深そうに一瞥される。ほんのり漂う緊張感に息を呑むと、伏せられていた清十郎の睫毛が色香を放ちながら瞬いた。 「あれは私の、……初めてです」  しっとりと呟かれた清十郎の言葉は衝撃的過ぎて、時間が止まったかのような感覚に陥る。色々と思う所はあるけれど何も思い浮かばず、ただ頭の中が慌ただしかった。 「えっ、……ぁ、えぇっ⁉」  言葉にならない間の抜けた声しか発することが出来ず、半ば錯乱状態で清十郎との初めてのキスを思い出すと、罪悪感が背筋を凍らせる。  あの時は、朦朧とした意識の中で清十郎を天使と思い込み、深く考えもせずにキスを強請った。清十郎の住む異世界の文化を知らなかったからだと言い訳するのは簡単だけれど、キスとセックスを置き換えて想定してみると真顔になってしまう。 「なんか、……ごめん、本当に」 「いえ、私もやぶさかではありませんでしたので」  ついさっきまでの甘い雰囲気は何処へやらで、暑さとは無関係の汗が背筋を伝った。  清十郎の腕が緩むと顔を見合わせ、気恥ずかしさから視線が泳いでしまうと、清十郎の睫毛が伏せられる。  手持無沙汰から腕を伸ばし、壁のスイッチに触れて照明をつけた。  清十郎へと何気なく視線を向けると、顔が真っ赤に染まっていて絶句してしまう。視線に気が付いた清十郎が手の甲を頬に触れさせ、バツの悪そうな笑みを向けてくると、思わず息を呑んでいた。 「……あの時は、新の気持ちが康介さんへと向けられていると思い込んでおりましたから、キスに応じることが出来ませんでした。……、申し訳ありません」  清十郎の発する言葉尻が徐々に小さくなっていき、窺うような視線を受ける。今はどうなんだ? と言外に訊いてくるような視線に言葉が詰まってしまうけれど、今ここではっきりさせなければ、きっと後悔する。 「あの時、キスしてくれなかった理由はわかった。正直、その理由でホッとしてる。……それと、俺はもう、康介に気持ちはないし、出来れば、清十郎とずっと一緒にいたいって思ってる」  好きだと口に出来なかったのは、臆病だから。好きだと言われれば、すんなり返すことが出来るのに、自分から口にするのが怖い。万が一の拒絶が、消えたくなる程怖かった。  それでも、こんな中途半端で粗末な返事であったのに、清十郎は破顔すると離れた身体を再び引き寄せてくる。 「新のそのお気持ちだけで、私は恩返しにきた甲斐があったというものです」  清十郎の肩口に乗せた顔を緩やかに傾けて頭をくっつけると、清十郎の歓喜を滲ませた吐息が首筋を撫でる。熱の籠った声で名前を呼ばれると、蕩けてしまいそうだった。  ――清十郎は俺の事、どう思ってる? 「キスしたい」  口にした瞬間、大きく目を見開いていた。思っていた事と、声に出した事が逆だったからだ。  けれど、その弁解をしようと口を開くと同時に、唇を塞がれていた。  柔らかい感触が唇に触れ、濡れた舌先に歯列をなぞられる。吐息を漏らす隙をつくように舌が口内を探り始め、舌が触れ合うとそのぬるりとした感触に背筋が粟だった。  もっと深く、もっと清十郎を感じたくて首に腕を回すと、清十郎はそれに応えるような深くて濃厚なキスをくれる。舌が絡み合う度に厭らしい水音が耳に届き、口内で溢れる唾液で喉を鳴らす至福で目の前が真っ白になっていた。  息継ぎをする間も惜しい程の、官能的で満たされるキス。こんなキスをして身体が反応しないはずもなく、唇同士を繋ぐ透明な一筋を見つめていた視線を下へと向けると、二人分の膨らみに目が留まった。  したい。プレイ込みでも、ただのセックスでも、何でもいいからしたい。そんな風に思いながら強張りを隠せない顔を上げると、清十郎の人差し指に唇をやんわりと押される。 「ストップ」 「え……っ」  突然のコマンドに肩が小さく跳ねたけれど、胸の内は温かさで満たされはじめていた。グレアを受けるとより一層温もりが心地よく感じられ、深く息を吸うとそれだけで達してしまいそうな感覚に陥る。 「私も先に進みたいのは山々ですが、新のそのお顔が拝見できましたので、本日はここまでといたしませんか? お仕事でお疲れの新を、……、これ以上疲れさせるわけにはいきませんので」 「ぉ、おあずけって、こと?」 「はい。新も、お好きですよね?」 「……っ、そういう事なら、わかった」  自分の性癖を否定する気も起きず、生唾を呑み下して頷いた。 「では、積もるお話は明日にいたしましょう。今夜はどうぞごゆっくりお休みください」  こんな悶々とした身体で眠れるわけがないだろうと思う反面、支配されているという高揚感で乳首が再び硬く尖りはじめる。僅かに身体を動かすとシャツが乳首の先端に触れ、湧き上がる快感を堪えようと、奥歯を噛み締めていると、清十郎の含み笑いが耳に届く。 「なんだよ……?」 「いえ、他意はありません」  清十郎の穏やかな笑顔の裏に清々しい程のサディズムを感じ、無自覚と持つ関係の素晴らしさに只々吐く息が熱かった。  数時間前の事を思い出すと、つい口元が緩んでしまう。  だが今は、康介をどうするかが先決だ。明日は幸い自分と清十郎は休みだけれど、康介がシフトを把握しているとは思えないし、仮に自分達がいないからといって、康介が何もせずに引き下がるとも思えなかった。  せっかく良い感じになった清十郎に、康介との事を知られたくない。けれど、清十郎にこのまま隠し続けるのが難しいことも、わかっている。 「服脱いだらアウトだしなぁ」  服で隠れている部分の鬱血や、紐状の擦り傷。古いものには到底見えないし、そもそも清十郎とプレイをした際にはなかった痕ばかりだから弁解の余地もないだろう。  重々しい溜息が口から零れ、小さく唸る。  とりあえず用足しにでも行くかと立ち上がり、トイレを済ませてダイニングキッチンへと戻ると、照明をつけた記憶もないのに室内が明るくなっていた。  照明を見上げ、寝ぼけていたのかと小首を傾げたところで名前を呼ばれ、肩が大きく跳ね上がる。 「せ、清十郎、驚かすなよ」  声の方へと反射的に顔を向け、ダイニングテーブル横に姿勢よく立っていた清十郎へと声を掛けながら、胸を撫でおろした。  自室で眠っているだろうと当然思っていた清十郎の出現に、鼓動がすぐには落ち着いてくれない。  けれど、そんな自分とは対照的に清十郎は落ち着いた雰囲気で、ゆったりと歩み寄ってくる。ティーシャツとジャージの自分と、上下パジャマの清十郎。こんなところでも性格が出るんだな。他人事みたいにそんなことを思いながら大きく息を吸い込むと、清十郎が目の前で立ち止まった。 「驚かせてしまい申し訳ありません。物音が聞こえたので、つい心配になり出てきてしまいました」 「そっか、……いや。悪い、起こした」  大きい音を出した覚えはないけれど、清十郎の部屋は隣で特別壁が厚いわけでもない。素直に申し訳なく思い謝罪を口にすると、清十郎が緩く首を横に振った。 「いえ、新が心配で、私の眠りが浅かっただけの事です。……どうかされましたか?」  心配してくれてるのか。そう思うと胸の内がフワッと温かくなり、照れ臭さから声が小さく なってしまう。 「ん……、トイレ行っただけ」 「そうですか。……、何かお困り事があれば、私にお話しください。明日は仕事もお休みですし、私は新の力になりたいのです」  そういえば、肝心な部分は結局お互いに話せていなかった。  けれど、清十郎の気持ちが嬉しい反面で、康介との関係を話すことへの抵抗は、未だに大きな壁を作っている。迷う気持ちが胸の内を騒めかせていたけれど、清十郎にやんわりと手を握られると、壁が揺らぎはじめた。  自然と足がダイニングテーブルへと向かい、椅子へと腰を下ろす。清十郎も自分同様に椅子に腰を下ろし、聞く姿勢を態度で示してくれた。  一呼吸置いて清十郎を見遣ると、向けられていた穏やかな瞳が、安心を促すように細められる。自分の唇が喋りたそうに小さく震え、気持ちが決まると大きく息を吸った。 「聞きたいって言うから話すんだからな。引くのは良いけど、……嫌いだとか言うなよ」 「無論です。それだけは有り得ません」  気が気ではない質問を自信満々で返されると、悪い気はしなかった。直接的な言葉を聞いてはいないし、口にしてもいない。でも、その曖昧な関係が、今の自分にはちょうど良いのかもしれない。 「率直に言うと、……飲みに行くって言って、康介と寝てた」  ここ数日間の康介との事、帰路での通話相手も康介だった事をぽつぽつと白状していくと、清十郎が神妙な面持ちで頷いた。  けれど、次の瞬間には普段着のような穏やかな表情に戻っていて、柔らかな笑みを向けられる。 「お話いただきありがとうございました。コーヒーを召し上がりますか? それとも、今一度お休みになられますか?」  想定外だった清十郎の反応に唖然としていると、清十郎の口角が僅かに上がったように見えた。 「新はお疲れのご様子。やはり休まれることをお勧めいたします」  責められることも否定されることもなかったのだから、最悪の事態は免れたと言えるはずだ。けれど、胸の内のモヤモヤは濃くなるばかりで、清十郎の反応に納得がいかなかった。 「ちょっと待てよ。俺が嫌われる覚悟で話したってのに、何も言わねーのかよ?」  気付いた時には口から突いて出ていて、喧嘩腰だった態度に罪悪感がじわじわと湧いてくる。  清十郎は驚愕するかのように目を丸くしていて、気まずい沈黙が二人の間を完璧に支配しているようだった。

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