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第15話

「清十郎、もう帰れるか?」 「あぁ、いけるよ」    ――今日こそは清十郎に、訊く!  意気込み十分でロッカーを閉め、清十郎に声を掛ける。いつも通りの柔和な笑顔が返ってくると、反射的に緩んでしまう表情を隠したくて唇に力を籠めた。  事務所には須永もいて、何気なく視線を向けると意味深な笑みを向けられる。見なかったことにしても良かったけれど、弱みを握っていると勘違いされたくなくて、目を合わせたままで声を掛ける。 「……、じゃ、須永。俺達先に帰るからな。須永も気をつけて帰れよ」 「あれ、新が優しい。雨でも降るのかな? ってことで、早く帰った方がいいよ。お疲れ様―」  わざとらしくも聞こえる須永の言葉に肩眉がピクリと反応を示したけれど、清十郎の手前で軽口を叩き合うことは避けたい。奥歯を噛み締めながらドアノブを捻り、清十郎がついてきていることを視界の端で確認してドアを開けた。 「じゃあ、雨が降る前に帰るわ。お疲れー」 「お疲れ様でした」  肩越しに振り返って須永に声を掛けると、合わせていたわけでもないのに、清十郎と言葉尻が重なる。思いがけず表情が固まってしまうと、視界にいた須永の瞳があからさまに笑って見えた。 「……っ、お疲れ様―」  目を細めた須永の表情が想像できるような声色を背に外へと出ると、ドアの閉まる音と共に光が消えていく。  薄暗い路地裏をずんずんと歩き、街灯の明かりが濃くなってきたところで歩調を緩め、横目で後ろを歩く清十郎を窺った。 「ついて来てるか?」 「はい、新のお傍についております」  清十郎の口調が二人きりでいる時のものへと戻ったことと、穏やかな表情の中に微量のグレアを感じた気がして、鼓動が跳ねる。  照れ隠しから首筋を手で擦り、辺りを見回す仕草をして目を逸らすと、普段と変わらない口調に努める。 「今日も、忙しかったな」  幸いにも光と言えば街灯の明かりだけだから、顔が少し赤くなっていたとしても気付かれないはずだ。けれど、そうは思うのに、顔を合わせられなかった。  時々車が通る程度で、擦れ違う人も殆どいない。そんな空間が心地良くも、手に汗を握らせてくる。 「そうですね。ですが、新のお傍で働けるからでしょうか。毎日が充実していて、とても楽しく感じております」  清十郎の言葉に嘘はない。そう無条件に思わせてくる清十郎の声色が胸の内に心地よく響く半面で、胸を締め付けてくる。  ――だったら、なんで辞めるんだよ。  逸らしていた視線を真正面へと戻し、息を呑むと隣を歩く清十郎に顔を向けた。 「でも、辞めるんだろ? 今月で」  清十郎の目が僅かに見開かれ、すぐに柔和な表情へと戻る。  どうして自分に一番に話してくれなかったのか。どうして辞めるのか。辞めた後はどうするのか。……俺の傍から離れてしまうのか。俺の気持ちは、もう知りたくないのか。  訊きたいことは山ほどあるのに、それを言葉にしようとすると鼻の奥がツンと痛みはじめてしまい、ただ息を呑んだ。 「……はい。新のお耳にはすぐにでもお入れしたかったのですが、申し訳ありません。実は、私にはタイムリミットがあり、九月には故郷に、戻らなければなりません」 「故郷って、こことは違う場所、世界ってこと、だよな?」  二度と会えなくなる。そう直感すると同時に足が止まり、離れたくない気持ちが先立って清十郎の腕を掴んでいた。  清十郎の睫毛が伏せられると、それが答えなのだと察した。上手く深呼吸が出来なくて、吐いた息が震える。清十郎の腕がするりと落ちていき、視線も力なく落ちていく。 「新が私の話を信じて下さっていたことを、嬉しく存じます。場所などの詳細をお話しすることは出来ませんが、私が故郷に戻ると同時に新の記憶から、……私に関わった方々の記憶から私は消えますので――」 「気にすんなとか言うなよ? なんで勝手に記憶消されなきゃなんねーんだよ」  清十郎の淡々とした口調と、その内容に我慢が出来るわけもなく口を挟むと、睨み付けた先にある清十郎の眉が寄せられる。  俄には信じ難い話ではあったけれど、疑う気持ちなんてこれっぽっちも湧いてこない。それよりも、切り捨てることを予告されたような気分は絶望にも近くて、最後まで聞いていられなかった。  重々しい空気が薄闇をより一層濃く感じさせ、視界を流れる車のヘッドライトさえも鬱陶しいと思わせてくる。  最悪の沈黙だ。そんな思いが脳裏を過ぎった矢先、清十郎がポツリと呟く。 「私だって、新の記憶に残りたい。帰りたくなんて、ありません」 「なら、帰らなければいいだろ」  口から突いて出ると同時に清十郎を見遣ると今にも泣きだしそうな笑顔がそこにはあって、釣られるようにじんわりと視界が滲む感覚がして慌てて顔を逸らした。 「……帰らなくていい方法、なんかねーのかよ。家に来た時は、ずっと住みつく勢いだったろ」  自宅へ向けて足を進めると後ろから小走りを思わせる靴音がついてきて、安堵感が口元を緩ませてくる。 「こちらに留まる方法がないわけではありませんが、私一人でどうこう出来ることではありませんので」  自信なさそうな清十郎の声が耳に届くけれど、そんな事はこの際どうでも良い。希望が見えた喜びで顔が強張り、声が自然と大きくなっていた。 「なんでそれを先に言わねーんだよっ」 「えっ……、ご、ごめんなさい」 「謝んなくて良いから、話してみろよ」 「……はい。その方法は」  目を丸くしていた清十郎の表情が柔和なものへと変わっていき、小さく相槌を打った瞬間、スマートフォンの着信音が鳴り響いた。  嫌な予感が背筋を粟立たせ、息を呑む。  この時間にかけてくる相手と言えば思い当たる人物は一人しかいないし、呼び出される理由も一つしかないはずだ。  ――気付かなかったことにしたい。  このタイミングで清十郎との話を終わらせたくないし、行きたくもない。でも、無視したらどうなるかわからない。  脳裏に浮かんだ康介の唇がゆっくりと、意地悪く吊り上がる。そんな想像を無意識にしてしまい、眉間に皺が刻まれた。  鳴り止まない着信音が、次の瞬間には聞こえなくなればいい。心底そう願うけれど、その期待は叶いそうもない。  ジーンズの後ろポケットからスマートフォンを取り出し、ディスプレイを横目で一瞥して、そっと耳に当てた。 「悪い、……ちょっと、電話」  清十郎を一瞥すると笑って見せ、数歩離れた場所でディスプレイの通話をタップする。 『出るのが遅いから、お店まで迎えに行こうかと思っちゃった。……でも、出たから良いよ。それで、今日も来れるよね?』  悪い意味で察しが良い。わざとらしい程に機嫌良さそうな康介の声は、今の状況を見透かしているようで、第一声が出遅れた。 「……、康介、悪いけど、今日はちょっと」 『え? 良く聞こえない』 「体調が」 『うん。悪くても、良いよ』 「ぁ、わかった。……今から行く」  話すだけ無駄かも知れない。そう思った瞬間に、了承を口にしていた。  スマートフォンを持った手が力なく下がり、肩越しに振り返って清十郎に声を掛ける。 「清十郎、悪いけど先に帰っててもらえるか? 話は絶対、明日聞くから」 「お断りします」  半ばやけくそで、気持ちを切り替えていくしかないと思った矢先だったから、出鼻を挫かれた気分だった。 「……へ?」  想定外過ぎた清十郎の返答には拍子抜けしてしまい、間の抜けた声が口から突いて出ていた。 「お電話のお相手がどなたかは存じませんが、気分が乗らない、新はそんなお顔をされておりますが、気のせいでしょうか?」  思い切り、図星をつかれた。そんな風に思ってしまったから、視線が泳ぐのを止めることはおろか、咄嗟に否定を口にすることも出来なかった。 「詮索する事が不躾であると承知の上でお伺いいたしますが、……その電話のお相手は、新の気持ちを無視してまで、優先しなくてはいけない方なのですか?」  畳み掛けてくるような清十郎の言葉が自分の中の迷いに全てクリーンヒットして、思わず小さく唸ってしまう。  けれど、果たして清十郎に話すようなことだろうか。勿論、清十郎を巻き込みたくないというのも言いなりになっている理由の一つではあるけれど、自分の性癖やダイナミクスを職場の人に知られたくないという思いが大きいのも明白だ。  だから、やっぱり清十郎に話す必要なんてない。適当に誤魔化した方がスムーズだ。  ――違う。本当は電話の相手が康介だと清十郎が知った時の反応が、怖いだけだ。  迷いが不安へと変わり唇を結び直すと、ゆっくりと身体が前に傾いた。 「……新、私は貴方に恩返しをする為、ここにおります。ですから、どんな事でもお話しください。私が貴方の力になります」  清十郎の匂いが鼻孔を擽り、低くて優しい声が鼓膜を揺らす。後頭部に触れた手指が髪を梳くように往復して、触れ合った部分から伝わる熱が息を呑む程に心地良かった。  抱き寄せられたと気付くまでに時間はかからず、煩く高鳴る鼓動で視線が揺れる。  清十郎の腕の中にいるだけで眩暈がしそうな程の幸福感に包まれ、ここが屋外だという事も忘れて身体を預けた。 「新。……私は貴方の為だけに、ここにおります」  頬を撫でる清十郎の熱い吐息に呼応するように顔が火照り始め、喉が上下する。上目遣いに見上げると優しい瞳と目が合い、示し合わせたかのように同時に笑みが零れた。 「新、お話いただけませんか?」  穏やかに囁かれると、迷いは残っているはずなのに唇が自然と薄く開く。  コマンドを使われているわけでも、グレアのせいでもない。甘くて、少し強引な清十郎に、本能が従いたいと身を委ねたがっているようだった。  車のヘッドライトが視界を横切り、夢うつつだった頭が少しだけ目を覚ます。顔が一気に熱を帯び、よろけるように後ろ下がる。 「悪い、外なのに、……こんな」 「いえ、新を抱き寄せたのは私ですから」  生温い外気が清十郎との間を潜り抜けていき、その空いた距離を無意識に目で測る。自分から離れたというのにとても嫌な気分で眉が下がってくると、清十郎の微かに笑う気配がした。 「新、帰りましょうか」 「……そうだな」  差し出された手を取らないなんて選択肢はなかったけれど、恋人繋ぎを外で出来るほどの度胸はない。反射的に清十郎を見てしまうと、試すような笑みが挑発的だった。 「なんなんだよ……っ」 「新の気が変わられてしまったら、困りますので」  苦笑交じりに呟くと清十郎が柔らかく微笑み、固まっていた指先にゆっくりと指を絡めてくる。指の腹で撫でられると思わず情けない声が漏れてしまい、唇をきつく結んだ。 「わざと、やってるだろ……?」  伝わってくる熱が心地良すぎる反面で、ほんの少しだけ悔しい。恨めしさから清十郎を見遣ると、満面の笑みが返ってくる。 「はい。新のそういうお顔を拝見できるのが、嬉しくて」  呆気にとられると同時に項がゾクゾクと粟立ち、熱い吐息が漏れた。  清十郎の手指に捕縛されながらの帰路は満更でもなく、自宅がもっと遠ければ良かったのにと、密かに小さく溜息を吐いた。

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