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第2話

 そりゃあ、状況は置いておいて、好きなやつの乱れる姿を見たら、勃ちもするだろう。  そう自分に言い訳するも、罪悪感が拭えない。  あんな夢を見てしまったことも、あんな夢で抜いてしまったことも、灯に申し訳ない。  ふと、廊下が騒がしくなった。  ああ、そうか。今日は学期末テストの成績上位者の張り出しがされる日か。  廊下に出て、灯の名前を捜す。  最近では、自分の名前より灯の名前を――ふと、思考を止めた。  まるで、あのとき見た夢のようだ。  『鈴木 灯』の名前は、上から8番目にあった。偶然だろうか。  ひとしきり騒ぎ終えた生徒たちが、チャイムとともに教室に戻っていく。俺も流れに乗って自分の席に座った。「また1位だったな」など、隣から声をかけられるも、曖昧に頷くくらいしか返せなかった。  灯とその友人である智が教室の後方で話していた。灯の顔色は、ほぼ白に近いくらい悪かった。  かすかに聞こえてきた『保健室』という単語に、どきりとする。  そんなはずがない。あれは、ただの夢だ。春にいとの会話が誘発した悪い夢のはずだ。  それなのに、動悸と冷や汗が止まらない。  もし、現実になってしまったら。  先生が入ってくる。と、同時に立ち上がっていた。  ***  かすかに匂いがする。 「ケホッ、ケホ、う」  『養護教諭不在』の札がかかった保健室の前、灯が四つん這いになっていた。  両手で何かを覆っている。  あれは、薬だ。『オメガ発情抑制剤』だ。 「灯」    灯が、ゆっくりこちらを見た。俺の姿に、ますます色をなくす。俺が、アルファだと知っているからだ。  汗で張り付いた黒髪がなまめかしい。匂いで、思考が奪われる。だめだ。しっかりしろ。夢の中の男たちと同じことをするつもりか。  拳を握りしめ、大きく深呼吸をする。 「顔、真っ白だけど」  なんとか出た声は、みっともなく震えた。  しゃがみこみ、灯の顔を覗き込む。垂れた前髪でよく見えなくて、それを掬い上げようと手を伸ばす。  その手は、すげなく振り払われた。  思わず舌打ちをする。何やってんだ。軽率だろう。こんな状況で、突然現れたアルファに接近されたら、怖いに決まっている。 「わ、悪いけど、ひとりにしてほしくて」 「けど、匂いが」  そう伝えた途端、灯はパと自分のうなじを抑えた。小さく震え始める。「嘘だ」とか「違う」とかそういう言葉が聞こえてくる。  どうすればいいんだ。怯えさせたいわけじゃないのに、全部、裏目に出ている。  どうにか安心してほしくて、ポケットの中をまさぐる。  持ってきておいてよかった。  使ったことはないけど、使い方は何度も習っている。派手な赤色の、一見するとただの太目のノック式ボールペンだが、上の突起を押すと、出てくるのは針と薬液――『アルファ用抑制剤』だ。  痛いのは苦手だが、そうも言ってられない。  太ももに思い切り押し当てた。 「う」  痛みと、かるい眩暈がして、手から抑制剤が落ちる。灯の目がそれが転がるのを追っていた。   「俺は、平気だから。落ち着いて」 「違う。僕、ベータだから。何も、起こらない」  だめだ。思っていたよりも、ずっときつい。  灯が、美味しそうで仕方がない。組み敷きたい。俺だって、灯の項を噛みたい。ああ、違う。堪えろ堪えろ。   「オメガでしょ」    こんな、いい匂いさせておいて、ベータなんてよく言える。  指をさす。廊下に落ちたぐしゃぐしゃの銀の包装紙には、赤字で「オメガ発情抑制剤」とたくさん印字されていた。 「違う」  灯は今にも泣きだしてしまいそうだ。  落ち着け、落ち着け。  狂暴になりそうになる思考を、荒くなりそうになる口調を、必死に堪える。  灯は、何をそんなに怖がっているんだ?  俺が現れたことか、いや、匂いのことを口にしてから、一層パニックがひどくなっている気がする。『何も起こらない』の何もは、なんのことだ。  ――発情期か。  灯は、発情期が来るのを恐れているんだ。 「安心して、発情期じゃない。そこまで強い匂いじゃない。だから、これ以上、この薬は飲まないで。合わないんでしょ」  その薬をあと一錠でも飲んだ瞬間、灯の身体の許容量を越えるんだ。  そして、あの惨状に繋がってしまうんだ。 「病院に連れてく」 「嫌、だ」 「かかりつけはどこ? この薬、処方したのは?」 「病院は、嫌」  灯にしがみつかれるけど、構わず、転がっていた鞄の中を探る。すぐに薬袋は見つかったが、袋に表記されている名前は灯のものではなかった。  恐らくは、母親のものだろう。困惑する。怒りがこみ上げる。  合うわけがない。  もしかして、受診すらさせてもらっていないのか? 「嫌だ」  ついに、灯の目から大粒の涙がこぼれた。俺が泣かせたんだ。胸が痛い。見てられなくて、灯の頭を抱え込んだ。泣き止んでほしくて、できるだけ優しく髪を撫でる。  もう片方の手では、薬袋に印字された電話番号を頼りに、スマホを操作した。   「救急です。そちらがかかりつけの――」  なんとか、要件を伝え終えた後、ふと、灯が気を失っていることに気が付いた。  呼吸はしている。変な震えもない。伝わってくる鼓動のリズムも安定している。安堵した瞬間、俺の視界はブラックアウトした。

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