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■出会い

 中森(なかもり)イブキのこれまでの人生は、順風満帆だった。  小・中・高校と進んで、この辺じゃ名の知れた企業に内定を貰い、就職。研修期間を経てあっという間に二年が経ち、仕事は順調そのもの。内気な性格だが、ひたむきで真面目な性格を買われて、ちょこちょこリーダーとして重要な案件を任されるまでになっている。  恋愛の方も好調だった。年が一つ違い且つ期待のルーキーという事で、社長から愛娘のチハルを紹介。春の訪れを思わせる、桜の甘い香水を付けた可憐な美人の登場に、イブキは冗談だろうと笑って誤魔化していたが、会った際に少し話すくらいの間柄から、互いに意識するようになり、気を熟した頃にイブキからアプローチ。先月めでたく交際スタートと相成った。  イブキにとって、身に余る程の幸福の日々だった。就職難に喘ぐことなく良いところに就職出来て、早々に美人の令嬢をゲットだなんて、何の気無しに語っても自慢やマウントにしか受け取られかねない事実。友人や同僚が羨ましがって、反転冷たく接するようになってもおかしくない。だが、イブキは周囲にも恵まれていて、「ふざけんなよテメーコノヤロウっ!」、「不公平だぁっ! お前の強運分けてくれーっ!」なんてど突きつつ、彼らは心から祝福してくれた。  唯一不安を感じているのは、当の本人くらいなものだ。見た目は日常風景に紛れるくらいの、然したる特徴もない痩せっぽちで、特別品行方正を掲げて生きて行こうと思ったことは無い。結果として良い印象を持たれてきただけ。そんなふうに自己評価が低く、謙虚さを忘れない彼は、上手くいけばいくほど、内心ほの暗いものを宿すようになっていった。  ――真面目さが取り柄なだけの凡人の自分が、こんなにも順調な人生を歩んでいいのだろうか……?  ――どこかでコロッと、果てにはゴロゴロと、大きく急坂を転がり落ちる日が訪れるんじゃないだろうか……?  決して望んでいたわけではないが、「いつか災いが降りかかりそうだ」と感じていた。  そしてその予想は、当たってしまった。  入社三年目の春。イブキとチハルは、とあるタワーマンションの一室に同居する事になった。愛娘と将来の夫の為、費用は全額父親である社長負担である。流石に最上階や中層階ではないが、見晴らしのいい景色が望める十階なんてのは、二階建ての高さまでしか住んだことがないイブキにとっては、現実を飛び越えて異次元の領域であった。 「あっ、あそこ! スカイツリータワーが見える! 綺麗だなぁ! あそこにあるのは何駅かな? 電車が出発したぞ」 「ふふふ、まるでおもちゃのショーウィンドウに噛り付く子供ね。目がキラキラしてるわ」 「あ……ごめん、大はしゃぎしちゃって。すぐに荷物を片付けるよ」  エレベーターを使って展望台に上るような場所に、毎日住むようになるのかと、つい夢中になってしまったと恥ずかし気に頭をかく。だが、チハルは「新鮮な反応が見れて楽しい」と、くすくす笑い返した。チハルの実家は、一等地の大層なタワーマンションなのだ。設置したばかりのガラス張りのテーブルで、慣れた手つきで茶の支度をするチハルに、庶民のイブキは照れ隠しするように段ボールのビニールを剥がしていった。  ふと、チハルは掛け時計を見上げる。 「そろそろ三時間経つかしら。段ボールの処理で疲れたでしょう。 休憩したらどう?」 「そうだね。ずっと同じ体制をしていて、もうガチガチだよ」  イブキとチハルは作業を中断して一息ついた。桜のふくよかな香りが、前方からも紅茶の中からも香ってくる。  お菓子の味わいやキッチン周りの新しい機能など、会話しているうちに、いつしか二人の話題はあいさつ回りに移っていった。チハルは実家での経験から、そこまで人付き合いを気にした事は無かったので、きちんとした挨拶は適時でいいと考えているらしい。が、イブキは首を横に振った。 「この部屋の住人がどんな人物であるか知ってもらうために、一度は顔見せした方がいいと思うな。いざという時に助け合えるし、仲良くなったらこの辺の穴場スポットを教えてもらえるかも」  そう発言するイブキは、隙あらば関わる気でいる様子。隣人関係で、オレオレ詐欺を未然に防いだ経験があるのだ。顔を合わせるごとにお菓子や野菜を貰っていたお婆さんから、孫が交通事故を起こしてお金に困っているという旨の相談を受けた際、通勤手段の側面から、以前聞いていた話と食い違っているのに違和感を抱いた。それが犯罪者の逮捕へ繋がり、見事お婆さんを救う結果となったのだった。 「左隣りは少し前に退去して空き部屋になったって話だったよね。となると、右隣りと上下の階にご挨拶って事になるかな」 「イブキったら、ここはそんじょそこらの安アパートではないのよ? 防音対策なんて当然きっちりしているんだから、隣りだけで十分よ」 「そ、それもそうだね。やだなぁ~。僕ってば、前の一人暮らしの感覚が抜けていないみたいで……」  イブキのマヌケっぷりを笑い合ったところで、早速あいさつ回り用の包みと、出かける準備を整える。あいさつ回りがてら、気晴らしに近所を散歩する気でいた。  住居のランクが上がれば、お隣りさんだって相応の立場の存在であるはず。失礼のないようにしなくては。イブキはネクタイをきゅっと締めるような感覚で隣りの部屋の前に立ち、インターホンを鳴らす。  ややあってドアを開けたのは、二人揃って一瞬呆けてしまうような、息を呑むほどの美人であった。180はありそうな細身の背格好に女神(ヴィーナス)と謳われそうな、日本人離れした顔立ち。身なりはシンプルな白地のシャツだというのに、合間に覗かせる首筋の白さと服のしわが形作る締まった体つきがまぶしく、心を激しく揺さぶって来る。 「今日越してきたお隣りさんですか?」細くてふわふわとした長い金髪を揺らして、朗らかに麗人は問う。 「え!? その声……男性の方ですか!?」 「え? ……ふふ、そうですよ」  てっきり絵にかいたような社長像が出てくると思っていたイブキは、あまりにも突飛な人物の登場に、うっかり思ったことそのままを口に出してしまう始末。しまったと気付いた時には、肩を震わせて笑われてしまっていた。  結局、いろんな恥ずかしさが入り混じってろくに顔向け出来ず、言いたい事だけ言うような形で包みを渡してしまうイブキ。初顔合わせの対応としては大失敗。チハルを引っ張ってその場を後にし、外に出ると、イブキは派手にやらかした事を振り返っては顔から湯気を出した。 「ごめんチハルぅ……、僕が不甲斐ないばっかりに、君にまで恥をかかせてしまったよ。自己紹介すら頭の中からすっぽ抜けちゃったし……」 「気にする事ないわ。私だって、あんなに綺麗な人初めてだもの。女性であれば、社交場に出ればいくらでもいるけど、若い男性でタワーマンションに住めるほどの富と美貌を兼ね揃えているのはそう多くないわ。美容関係か、業界人なのかしら」 「どうだろう。テレビで見た事は……多分なかったかも。――うう、きっと印象最悪だよね。今日中に謝りに行った方がいいかな?」 「余計に傷口を広げるだけよ。共働きで二人共忙しいんだし、そこまで親しくなる機会はないわ」 「そうかなぁ」 「仮に行く事になったとしても、一人で行っちゃダメよ。イブキったら、美人に耐性ないんだから。あなたには私がいるんですからね」 「はは、耐性ない、か。確かに本能的に目が行っちゃう事はあるけど、僕は『この人』って決めた人には真っ直ぐでありたいから。安心していいよ」  街路樹として植えられた桜の花びらが散る光景と会話によって、爆発しそうな気持ちが落ち着いてきたイブキは、愛する人へすっと手を差し出した。チハルは風に攫われる黒髪の合間から、赤く染めた頬を覗かせて好意を受け取る。そうして、今日の晩ご飯は何にしようかとか、今度行く予定の映画デートだとか、身近で幸せに満ちた話を交わした。  ビリッ  散歩道から遥か上空のとある一室。カーテンに鋭い爪を立て、疑似的に間を裂いた人物の存在に、二人はまったく気付かなかった。

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