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「突然訪問されたから、大したもてなしは出来ないんだが……ああ、試しに購入したやつがあったな。炭酸系でもいいか?」  アイは冷蔵庫からクリームソーダの缶を取り出すと、二つのコップに注いで氷を入れた、即席ドリンクを用意した。赤いストローを刺し、冷たいドリンクがテーブルに置かれると、夕日の淡いオレンジ色が室内を照らしているせいもあってか、ちょっとしたカフェのような空間が生まれる。  だが、イブキは手を付けない。棒立ち状態のままだ。アイが反応を探りながら椅子に座ると、イブキはアイの見ている前で、自分と相手のコップを交換した。  あからさまに不信感を露わにしてドリングを飲んでいるのを目の当たりにしたアイは、静かにふっと息を吐いた。 「……別に、このコップに細工はしていないんだがな」  椅子にもたれ、コップに入れられた美しい緑色を眺めてから、アイも一口。カラン、という澄み切った氷の音が、哀愁の姿を引き立たせた。 「アイさんまで僕を裏切るとは思いませんでしたよ」イブキはコップを置く。「アイさんの目当ては、チハルじゃなくて僕なんですよね? 彼女は関係ないんですよね?」 「ボクでもドン引くくらい貶されたというのに、お前はお人よしが過ぎるな。――ご想像通り、ボクのターゲットはお前だ。隠しカメラの類はすべて一人でやった」 「僕個人のために、よくもまああんな膨大な量を……失ったものが多すぎて、今では逆に関心してますよ。いつの間に仕掛けていたんです?」 「家具の設置の手伝いを頼まれた時と、訪問するたびにジェンガのごとく罪重(つみかさ)ねていった」 「裸の王様同然の3Dボディスキャナールームもですか?」 「360度フルチンコンプした時はテンション上がった」  アイは椅子をイブキのいる方向へ傾けると、足を組んだ。そして再びドリンクを含み、連動して喉仏が動く。同じ飲み物を飲んでいるはずなのに、色気を含んだその飲みっぷりは、まるで優雅にウィスキーでも嗜んでいるかのように見え、アイの周りだけカフェから夜のバーへと、舞台が様変わりしてしまったかのようだった。 「どうしてこんなにも執着するんですか? 異常ですよ。何かする必要なんて、なかったのに……」  イブキは伏し目がちに袖口をいじくり出す。最後の気恥ずかしげな呟きには、アイへの想いが乗せられている。  ――チハルの素性がああなら、自分は自然と心変わりしていた。  ――コップの交換なんかせずに、今、二人きりのこの時間を、純粋に楽しんでいた。  イブキは残念で仕方がなかった。一方で、まだやり直せるんじゃないかという気持ちも育ち始めていた。矛先が一貫していて、他に牙が向いていないという事と、何よりも自分自身が穏便に済ませたがっていたのだ。  だが、アイが次に取った行動は、平和ボケとも言えるイブキの心に冷や水をぶっかけるようなものだった。イブキが慈悲の一歩を踏み出そうと、口を開こうとした瞬間、アイはイブキの飲みかけのコップを手に取り、ストローに口を付けたのだ。  飲んでいる事がはっきりと分かるように、横顔を見せつける。ストローを含んだ唇の動きが、すぼんで、時々離れて、舌でちろちろと舐めて、キスに――ディープキスに、果てはナニかを連想させるようないやらしいものに変貌していく。ストローのつまみ方と減っていく液体、がなり立てる氷、底が尽きた事を知らせる長い吸引音が不快音となってイブキの耳に届き、心を凍り付かせた。  げぷっ……。満足したアイは、酔いしれた流し目で怯えるイブキを捉えた。 「……視姦された気分はどうだった?」 「しか……え?」 「言葉の意味が分からないか。私生活はおろか、着替えもトイレも風呂もシャワーを浴びているところも余すところなく除かれていたと知って、どう思ったか聞いている」 「……」 「返事」 「ひ……っ」  コトンとコップがテーブルに置かれると、イブキはと己を抱きしめた。それほど大きな音でもないのに、今のイブキはアイが立てる音の一つ一つが怖くて堪らなかった。  アイは歯を見せてほくそ笑む。 「覗きだなんて言葉では生温いか。見た。聞いた。知った。撮った。保存した。感じた。味わった。――そうやって腕で体を隠そうが、どれだけ着込もうが、ボクにはもう、透視能力を得たかのようにすべてが見えている。筋肉質ではない、強く抱きしめただけで砕けてしまいそうな繊細な体、細い首、骨の浮き出た鎖骨、小さな肩と綺麗なラインの背中に、吸い付きたくなるような、ぷくっと愛らしい乳首、滑らかで、思わず指先が粗ぶってしまいそうな尻と腰と腿と腹すじと……そこからぶら下がる、美味そうなご馳走……」  ギッとテーブルを押す音が聞こえて、イブキは咄嗟に壁際まで逃げた。玄関の場所を確認するが、その時にはもうアイが退路を断つように立ち塞がっている。  今までで感じた事がない恐怖だ。眼前の、人の形をした魔物が襲い掛かってきたら、きっと太刀打ち出来ない。「や、やめて下さい!」と声を振り絞り上げるだけで精いっぱいだった。 「――というのは全部、ボクが今考えた空想だ」  イブキの恐怖心が最高潮に達したその時、アイはカラッとおどけたふうに笑った。「へ……?」イブキは目を白黒させると、アイはテーブルのある場所まで戻って行った。 「く、空想って事はないでしょう! 事実、大量にカメラが隠されていたんですから!」 「見はした。が、流石にやっている事が気持ち悪すぎて、透視能力を得るほど詳細には見てはいないさ」 「何ですか……その、ちゃんと人並みの倫理観はありますみたいな口ぶりはっ! しっかりきっちり犯罪ですからねっ!」  そう叱りつつも、イブキはあれ以上の発展がなかった事に酷く安心している。アイは頭を掻いて笑った。 「――なぜ、ボクは人の人生を滅茶苦茶にする事しか出来ないんだろうな」 「え?」  アイはぽつりと呟くと、驚くイブキに背を向けて、コップの片付けを始めた。 「気が付けば、ボクに関わった人間は皆不幸になっていく。お前も、チハルも、家族もすべてボクのせいで地の底に沈んで行った。幸せになった奴なんか一人もいない」 「不幸って……どうしたんですか急に。らしくないじゃないですか」 「……いや、悪い。先程まで湿っぽいシーンを書いていたから、うっかり空想の中に入って主人公の心境をぼやいてしまった。忘れてくれ」 「なる、ほど? そうですか」 「バレるのも時間の問題だと思っていたし、いろいろと整理がついたら自首しようと思っている。二度とお前に近付かないし、危害も加えないと約束しよう。……すまないな、深く傷付けてしまったのに、こんな形でしか償えなくて」  アイはキッチンへ向かうと、三角コーナーにコップの氷を捨て、クリームソーダの空き缶をゴミ箱の底に投げ入れた。淡々と処理しているように見えるが、主人公の心境をぼやいたらしい発言以降、イブキから顔を背けたがっているように感じられて、首をもたげたその背中はやけに寂しそうに見える。  やがて意図的である事を確信させるように、アイは背中を向けたまま玄関の方を示す手振りをした。帰ってくれ、という事なのだろう。  何やらすべて解決したふうな空気があったが、結局、なぜイブキに固執するのかは分からずじまいだった。

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