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第2話 4月の新規

「はい。お電話ありがとうございます。美少年倶楽部(びしょうねんくらぶ)です!」  夜の帳が降りてから部屋の至る所に置いてある4台の固定電話の着信音が鳴り止まない。予約をとる3人のスタッフたちは、饒舌な口ぶりで電話の向こうにいる客にボーイを紹介している。ボーイのナンバー、得意なplay、NGなどを伝えて客に最適なボーイを送り届けること。それが受付係の仕事だった。電話がひっきりなしにかかってくるため、それをタイミングよくとることが重要だ。もしも電話をとれなかったりしたら、客は他の店に電話をかけるだろう。売り専を派遣するサービスの会社は東京都内には数多溢れている。その中で売上を積み有名な優良店になるためには効率的に客からの電話をとる能力が求められている。  茉白桜(ましろさくら)は白い膝小僧を抱えて待機所の個室に寝転んでいた。座椅子を伸ばして簡易的にベッドにしたものに身体を預ける。全身の力を抜いて目を瞑る。個室を遮る黄色いカーテンは小学校の保健室を思い出させる。幼い頃から貧血気味の桜はよくベッドに寝かせて休ませてもらっていたのを思い出す。それはもう遥か彼方の記憶だというのに桜の瞳の裏には鮮明に蘇る。時というものはどうしてこんなにも無遠慮に脳に入り込んでくるのだろう。いっそ身体を休めている間、脳の機能がシャットダウンしてくれていたらと何度思ったことだろう。今日は2人の客を相手した。2人とも桜を指名してくる常連の客だった。1人は60分。もう1人は120分のコースだった。60分のほうの客は今回で4回目の指名だった。有料のオプションをよく付けてくれる客でタイパがよくて助かる。一方、120分のほうの客はそこそこな細客だ。6回目の指名だが有料のオプションは1度もつけてこない。安くサクッと済ませたいタイプのようだ。それに既婚者だ。結婚指輪をいつもはめている。それに気づいても桜は何も触れない。売り専を利用する客の置かれている環境や胸に抱えている事情などは桜には関係ないものだ。ひとつひとつ考え出したらキリがない。桜もまだ新人だった頃には顔には出さずとも複雑な気持ちに駆られることがあったが、それはそういうものと割り切らなければ対人の仕事を続けていくことは難しい。桜は今はただこのまま目を閉じていたいと切に願う。いっそのこと目を開けなくなってもいいかもしれないという破滅願望にもよく似たそれを幾度となく抱えてきた。しかしそれは考えるだけ時間と脳の容量の無駄であるし、何ら前進するような希望の灯る感情ではないことを刻まれるくらい感じていた。  今日も店は繁盛しているようだ。桜は耳から入ってくる音が脳内に響き渡るように感じた。事務所のほうで鳴る電話の音。受付の男たちの朗らかな話し声。事務所の隣にある待機所で聞こえるボーイたちの笑い声。テレビから流れる夕方のニュース。下の階にあるフィリピンパブから聞こえてくる洋楽。そのどれもが今の桜にとっては雑音で思わず耳を塞いだ。瞳を閉じてしまうとその他の五感が冴えてしまうというのを聞いたことがあるがその通りだと思った。  店に電話が鳴り響くのには理由がある。なにせ今日は25日。社会の皆様の給料日だからだ。この25日にどれだけ予約の電話を取れるかが、来月のボーイのナンバーや給料に大きな影響を与える。ボーイ達も仕事道具を入れたバッグを片手に、玄関を出ては入ってと慌ただしい。 「桜くーん! 指名入りました。下に車待ってます。色はシルバーです」  しゃらり、とカーテンがひかれて受付の男に名前を呼ばれる。桜はゆっくりと身を起こすと荷物を持って立ち上がった。 「了解です。じゃあ行ってきます」 「お願いしまーす」  先程までの疲弊した様子とかわり、軽やかな足取りで玄関を出た桜はひび割れたタイルでできた階段を一段ずつおりていく。フィリピンパブや看板の出ていない店が集まる雑居ビルから出て、桜はあたりを見渡した。ビルのすぐ隣の街灯はチカチカと仄明るい黄色を点滅させるだけで、それは明かりとして機能しているようにはとうてい見えない。春風とはいえない冷気のような空気が、桜の首筋を撫でるように吹き抜けていく。  桜はビルの斜め左にとまっていたシルバーの車へ近づき、見知ったドライバーの顔を確認すると後部座席のドアを開けた。するりと猫のように車内へ乗り込むと、暖房のかかった車内のもわっとした空気にむせそうになる。  ドライバーがスマホの地図アプリでホテルの場所を確認し、ゆっくりと車を発信させる。 「グラバーホテルに行くので10分くらいで着きます」 「わかりました」  桜は返事をすると、自分のスマホをポチポチといじってゲームに熱中している。ブルーライトを無遠慮に浴びせられ目がしぱしぱとする。仕事のことを忘れられるこの車での移動時間だけが桜の癒しだった。

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