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第3話 新卒社会人の苦悩

「社会人になって初めての給料で風俗とか、俺の人生虚しいなぁ」  ホテルのベッドで突っ伏していた若い男は、ぽつりと弱々しい声を漏らす。まだ型がくずれていない真っ白いワイシャツを見て、はあと深いため息をついた。入社して1ヶ月を過ぎた頃のスーツのジャケットは上司とのタバコミュニケーションを試みたせいか少し煙草臭い。大学生の頃から電子だったのに慣れない紙を吸って咳き込む毎日に嫌気がさし、上司とも緊張して話せないしで諦めた。新卒社会人になって諦めたことリストの4番目の項目だった。1つ目は同僚と飲みに行くこと。2つ目は部署にいるお局様に可愛がられること。3つ目は昼休憩を誰かと過ごすこと。その4つがなかなか手強くて何度も挑戦してみたが、PDCAサイクルをやったとてめぼしい効果は出なかったので次々と諦めたことリストへ追加されていった。 「緊張して電話でもカミカミだったし、俺ってほんと情けねぇ」  とりあえず酒臭い口のままではさらに情けないと思った男は、重たい体を起こして念入りに歯を磨いた。洗面台の鏡にうつる自分の顔を見て、またもや本日何度目かもわからないため息をつく。  父親の顔とよく似た任侠ドラマに出てきそうな強面。思春期の頃は父親のDNAを恨むこともあったが、そんな男もいまや一人の社会人。同期の女性社員も男性社員も近づきがたく思っているらしく、入社1ヶ月を過ぎてもいっこうに飲みに誘われない。顔のせいで近づきがたいならまだマシなのだが、男は根っからのコミュ障で明るく振舞ったり冗談を言えるようなタイプでもない。それも周りの輪に溶け込めない要因なのだとよくよく己がわかっていた。学生時代も愛想のいい表情を浮かべたり先輩に胡麻をするのが苦手で孤立していた。今は社会人になって初めて一人暮らしをしていて、1つの小さな命と共に暮らしている。実家にいた頃から飼っているジャンガリアンハムスターの小丸(こまる)くんだ。手のひらにすっぽりとおさまるほど小柄なハムスターで毛は灰色と白が混じったマーブル模様。触り心地はふわふわもちもちとしている。小丸くんとの出会いは男の中では印象深いものだった。大学4年生のときにふらりと立ち寄ったペットショップの隅の狭苦しいケージに入れられていたハムスターがいた。生まれつき個体が小さいとペットショップの店員から聞いた。兄弟たちと比較して身体や骨が脆く買い手がいないまま数ヶ月を過ごしていたという。男は自分とは違う理由でありながら孤独に生きるそのハムスターを見て、いてもたってもいられなくなりそのまま迎えることに決めた。以来、小丸くんとは1年以上共に暮らしている。家で小丸くんを部屋んぽさせたり、おやつのニンジンチップスを与えたり、ケージの掃除をしているときは男の心が和らいでいた。小丸くんは人懐こい性格で手乗りをしたり、眠くなったら男の手のひらでお餅のように平らに溶けてくれるいい子だ。そんな小丸くんとの同棲生活を楽しみつつも男はやはり人間に餓えていた。だからこそ、こうして人生で初めて売り専を呼ぶために電話をかけたのだ。  今日はせっかくの初給料も何に使ったらいいのかわからず、仕事が終わるとそそくさと会社を後にして居酒屋でちびちびと酒を飲んでいた。なんとなく酒の力を借りて明るい気持ちになった彼は、その勢いでとんでもないところへ電話をかけてしまった。  それも30分ほど前のことである。  男はなんとなくテレビを付けると、そこに映し出されるAVを冷めた目で見た。胸の大きな女優と、細身で引き締まった筋肉を満遍なく駆使する男優との絡みにオエッとえづきそうになる。急いで冷蔵庫に入っていたミネラルウォーターに口をつけると、男は少し落ち着きを取り戻した。生理的に受け付けないものを見ると身体は拒否反応を示すらしい。  パチンとテレビを消して、先程予約した売り専のボーイが早く来ないかとドアのほうに目をやる。大学生の頃からずっと、風俗は利用してみたいと思っていた。ただ、コミュ障な自分が電話をかけて予約するまでがスムーズにできそうになくていつも諦めていた。小丸くんに愚痴を聞いてもらうことも多々あった。小丸くんは何も言わずに静かに男の話を聞いてくれる。小丸くんとの日々は男にとって何よりもかけがえのない時間だった。  酔いの覚めた頭はやけに冴えてしまって、男はこれからきちんと売り専のボーイと会話できるのだろうかという不安が広がる。  コンコンとドアをノックする音が聞こえて、男はゆっくりドアに近づいた。おそるおそるドアノブに手を回す。ドアの前に立っていたのは、自分より若そうな男の子だった。185センチと宣材写真のプロフィールに書いてあるように巨人だ。目線を上げないと目を合わせられない。背の高さとは相反して愛くるしいポメラニアンのようにふわふわとした雰囲気に緊張していた身体がほぐれた。見れば見るほどホームページに載っていた宣材写真と同じどころかむしろ逆写真詐欺というべきか、つい守ってあげたくなるような美人がそこに立っていた。ぱっちりとした二重と硝子のように透き通った黒い瞳はうるうるとしている。まさにたぬき顔というやつか。手足はすらりと長く品のいい仕草をする。男は初対面でこの男の容姿と品性を抵抗なく受け入れることができた。 「はじめまして。美少年倶楽部の桜です」  風鈴のような凛とした声に重なってぺこりと丁寧なお辞儀をされて、男もつられるようにお辞儀をする。 「よっ、よろしく」 「お部屋。入ってもいいですか?」 「あっああ。どうぞ」  完全に慣れていない男はぎこちなく桜を部屋に通した。まるで自分の身体がロボットになったかのようにギクシャクと動く。それほど桜の容貌は美しく、まるで御伽の国に出てくる王子のように男の目に映った。

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