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第67話 大沼の仕事

 どれくらい意識を手放していただろう。  桜は背中に柔らかいものを感じた。柔らかくて、あたたかい。  なにかが聞こえる。  桜はうつらうつらする意識の中で静かに目を開けた。  霞んだ視界に真っ黒な天井が見える。  ゆっくり横を向くと、自分がベッドの上にいることに気づいた。  見覚えのない天井とベッド。真柴の寝室でもないし、もちろん自分の部屋でもないことはわかった。  身体を起こそうとすると背中がひやりとしていたことに気づく。先程、大沼に胸ぐらを掴まれてからの記憶がない。おそらくその時に嫌な汗が流れて今汗冷えして乾いているのだろう。  冷静に分析ができる自分に苦笑が洩れる。  ある程度の経験をしてきたからか、見ず知らずのところに放り投げられてもそこまで動揺せずにいられる。同世代より修羅場をくぐり抜けてきた桁が違う。  桜はただじっと柔らかなベッドの中で丸まっていた。  すると、ペタペタと誰かの足音が聞こえてきた。なんとなく寝たフリをする。  足音はどんどん近づいてきてドアの開く音がした。パチンと電気をつけられて桜は一瞬まぶたを震わせた。 「おい起きてんなら聞け」  この声は黒豹の声だ。大沼の声を聞くだけでカタカタと体が震えそうになる。  桜はぎゅっとシーツを握った。 「お前が急に倒れたから俺の家に連れてきた」  大沼は淡々とした口調で話しだす。その声からは感情が読みとれない。  大沼はシーツを握る桜の手が震えてることに気づいた。 「起きてんなら目を開けろ」  ごつごつした無骨な手で桜の肩を叩く。不意に触れられて桜はビクリと身を震わせた。  寝たフリは通用しない。桜は諦めてしぶしぶ目を開く。 「感謝でもしろってことか」  相変わらず好戦的な構えの桜に大沼は額に手を当てて深くため息をつく。苛立ちを込めて呆れたように。 「躾のなってねえ餓鬼が。だが、よく聞けよ」  大沼が声音を低くして桜に言い聞かせる。  桜の目がしっかり開いたのを確認すると、じっと桜を見据えながら言った。 「お前を助けたのはお前のためじゃねえ。睦月のためだ」  なおも言葉を続ける。 「お前は俺に貸しをつくった。あとできっちり返してもらうからな」 「助けて欲しいなんて言ってない」  桜は大沼の態度が気に食わなくて、つい思ったことを口に出す。 「あ? 助けてもらってありがとうございますだろ」  ヤクザの取り立てのように追い打ちをかけてくる大沼を見て、なぜこんな輩が真柴と親しいのか検討もつかない。  寡黙で心根が優しい頼りになる真柴と、不機嫌で苛立ちを募らせるこの大沼という男。  まるで水と油だ。  桜はこれ以上大沼を刺激しないように、ベッドに顔をうずめた。 「気に食わねえがお前を傷つけたら睦月がうるせえからな」  大沼はベッドサイドに腰かけた。重みで桜の体がベッドサイドに傾く。  突然毛布を剥ぎとられた。  男は桜の全身を舐めるように見てくる。  その視線がとても冷たくて、恐ろしくて桜は自分の身体を自分で抱きしめた。 「……こんなキズモノの何がいいんだか」  大沼は無遠慮に桜の傷跡に触れてきた。前髪をかきあげて、まだ少しかさぶたになっている額の傷をなぞるように指で触れてきた。  桜は身構えてボクシングのポーズをとる。 「馴れ馴れしく触るな」 「口だけは達者だな。おしゃべりはこのくらいにして本題に入るぞ」 「……本題?」 「お前が気を失ったあと、仕方ねえから俺が背負って部屋に入れたんだがお前の滝汗で俺のシャツはゴミ箱行きだ」  皮肉るように笑った。でも目が笑ってない。本気で怒っている。 「洗濯すればいいだろ。汗くらいで敏感なんだよ」  桜の一言が決定的だったのか大沼は鬼の形相で桜を睨む。 「なんでも庶民感覚でものを言うなよ。あのシャツは世界に一着だけのオリジナルなんだよ。他人の汗を吸った服は着る価値がねえ。あのシャツに0が何個あるか知りたいか?」  そう言われてしまったら、桜は何も言い返せない。おそらく簡単に弁償できる金額ではないのだろう。  桜が黙り込んでいると大沼はにやりと頬を上げた。悪魔のような笑みだった。 「……俺に何を望んでる」 「話が早いな」  せせら笑うように言うと、桜の顎に手をかけた。 「……俺はお前が気に食わねえ。が、俺の仕事の役に立ちそうだ。俺のモデルになれ。わかってるとは思うが拒否権はない」 「モデル……?」  桜はてっきり身体で支払えなどと野蛮な要望を言ってくると思っていたが、耳にしたのは思いもよらない言葉だった。 「ああ、俺は画家を本業にしている。ちょうど今モデルを探してたんだがなかなか良いのがいなくてな」  大沼は冷たい張り付けた笑みを桜に向けた。 「お前は見た目だけは整っているようだ。睦月には俺から話をつけておく。勝手なこと喋ったらただじゃおかねえ」 「……わかった」  鷲のように鋭い眼光に耐えきれず目線を逸らす。

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