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第66話 大沼とガチる
その日の帰り道、お昼ご飯は真柴の行きつけの蕎麦屋でお蕎麦を食べた。つるっと喉越しのいい麺と鰹の香りが広がる優しい味わいだった。
近くで撮影した後にたまに食べに来る店らしい。店主は気前のいいおじさんで、地元では名の知れた有名店のようだ。サラリーマンやOLが和やかに昼休みを過ごしている。
こうして真柴の知らない一面が見れることは自分にとってすごくプラスのことだと思った。
蕎麦屋を出た後にすると真柴のスマホが鳴り出した。
「すまない」
そう言うと真柴は電話に出た。
仕事先の人だろうか。真柴の声がいつもより高い気がした。
すぐに終わりそうもないので道の隅でじっとしていた。
真柴は桜に背を向けて電話で何やら難しい単語を使って話している。仕事の専門用語だろう。カメラに詳しくない桜にはちんぷんかんぷんだった。
真柴はいったん電話を切ると桜に言った。
「悪い。仕事でトラブルが起きたみたいで今すぐ事務所に向かうことになった。ひとりで帰れるか?」
「っ全然ひとりで帰れる」
「すまないな。じゃあまた後で。今日は夕食は一緒に食べられなさそうだ。先に食べていてくれ」
桜は早足でタクシーを拾って事務所に向かう真柴を見て、飼い主が急にいなくなってしまった子犬のようにその場に立ち尽くしていた。
「……帰ろ」
せっかくの楽しい休日が、急にぶつ切りにされて気持ちが落ち込む。けれどそんな姿を真柴に見られたくなくてさっきは気丈に振舞ってしまった。
地図アプリで家の住所を確認し、桜もタクシーを拾って帰宅することにした。
マンションのエレベーターの前で悶々としていると、すぐに降りてきたようで扉が開く。
そこに今一番顔を合わせたくない男が乗っていた。大沼だ。
ボタンを押したのに乗らないのも失礼だと思って、桜は静かに壁際に身を寄せた。大沼の鋭い視線が背中に刺さって痛い。
トゲのある視線を感じながらもただ黙ってエレベーターが上につくのを待つしかない。
桜は話しかけられませんように、話しかけられませんようにと心の中で唱えたが、40階でエレベーターを出たときに声をかけられてしまう。そして大沼も降りてきた。
「睦月はどうした」
「……仕事」
「いい身分だな。こんな平日の昼間からひとりで悠々自適に出かけて」
無表情だった大沼はフンと馬鹿にしたように言った。イラ、と桜の導線に火がつく。
「お前もどうせ買われたんだろう。だがな、お前じゃ絶対に睦月の症状は治せない」
「……どういう意味だ」
大沼が何を言ってるのか意味がわからなくて、噛み付くように質問する。
「とぼけるなよ。……それにしても今回はあいつも冒険したな。こんな女みたいなのを買うなんてな」
「は?」
ついに桜の堪忍袋の緒が切れた。まだ深くも関わってないうちから容姿で判断されるのは気に食わなかった。
「何も知らないんだな」
不敵に微笑む大沼の視線が桜の頭から足の先までを舐めるように這う。
黒豹が獲物を見定めるような目付きで男は桜の周りをゆっくりと一周する。
桜は大沼の眼光に負けたくなくてむしろ一歩足を前に踏み出す。ほとんど同じ身長の大沼のことを睨みつけた。
それが気に食わなかったのか男は桜の鼻先と触れる寸前まで顔を近づける。
大沼の不意打ちの動きに思わず桜も一歩足を後ろに下げたが、それ以上下がるわけにはいかないと己のプライドが燃えてきた。
「生意気な餓鬼が」
すると大沼は桜の喉ぐらを掴み上げてきた。首が締め付けられる嫌な感覚に脳内で危険信号が飛び交う。
その瞬間、清水に暴力を振るわれたことがフラッシュバックする。
少しずつだが薄れていた記憶が突如よみがえった。
自分に馬乗りして楽しそうにカミソリを振るった男のことを。
桜の足がくがくと震えだす。だんだん息が苦しくなり、視界が涙でぼやける。
頭が真っ白になってパニックになった。様子がおかしくなった桜を見て、大沼は手を離して桜に呼びかける。
「おい、どうした。息しろ」
背中をさすられるが、過呼吸になってうまく息ができない。
「……っぐ」
ハァハァと荒く息をして、桜は壁に背中を寄りかけてズルズルと崩れていった。
心臓の鼓動がうるさい。早鐘のように打ち続ける。
大沼が桜の前で苦々しい顔を浮かべたのを見て、ぷつりと意識を手放した。
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