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第1話

「オメガの人権向上のため、ご協力をお願いします!」  休日のセントラルパークに、活気ある声が響く。石畳を歩く人々の足並みは時折緩み、掲げられたボードを読んだり、メンバーの声に耳を傾ける様子があった。その光景に、オメガの人権向上NPO『イコールフット』のリーダーであるアイリスは、これまでの努力が結実したような充足感を覚えた。  勿論、この国における第二の性に由来した差別は、未だ根深いものだ。第一の性のジェンダーギャップは解消されつつあるとはいえ、第二の性に関する平等への道は遠い。特にオメガの人々は、その体質ゆえ一般的な就労は困難と見做され、正規雇用に繋がらないケースが多いかった。結果、彼らは貧困から抜け出せないまま、アルファと番になるか、過酷な環境の中で生きていくかを迫られるしかない――というのがこの国の現状だ。実際、独り身のオメガたちが集まった貧民街のような場所も存在している。  NPOを立ち上げた時、アイリスは賛同してくれたメンバーにその志をこう語った。 「この試みは、多くの反発があるだろう。何故なら平等とは、これまで私たちアルファやベータが享受してきた生まれながらの特権が、脅かされるように映るかもしれないからだ。でも考えてみてほしい。アルファは社会を牽引するリーダーとしての役目を担っている。その矜持に照らし合わせたとすれば――旧来的な支配ではなく、民主的な平等をもってアップデートしていくことこそ、私たちアルファの役目なのではないか? 私はアルファとして、すべての性の人々が平等に暮らせる社会の実現を目指したい」  この活動を始めてから四年目――いまから一年ほど前にアイリスは、大手新聞社・ハーバー通信が選ぶ、「未来を創造する若者30」に選出された。百八十センチを超えるすらりとした体躯や、優雅にきらめく燃えるような髪、情熱と知性を孕んだ鋭い金色の瞳といったメディア映えする風貌も相まって、取材の依頼が後を絶たない。メディアは彼をこう讃えた――平等と矜持の革命家と。  それらの取材を断らず、自らがスポークスマンとなって働き続けた結果、潮目の変化を感じている。それがこの街頭活動だ。  以前までは足を止める人はおらず、いたとすればそれは、嘲りや怒りをもったものだった。でも、今はどうだろう。これだけ多くの人々が耳を傾けてくれている。 「アイリスさん!」 「マルコ!」  人波の向こうから駆け寄ってくる快活で大柄な男の姿があった。マルコは、ハーバー通信の取材の時から懇意にしている記者で、今回の活動も記事にしたいと申し出てくれたのだ。  マルコは短く明るい髪をかきあげながら、アイリスの隣に腰掛けた。 「活動の様子は見れたか? うちのメンバーにも話は聞けた?」 「はい! 学生のインターンもこんなに増えたんですね。みんな、すっごく明るい表情で話してくれましたよ!」 「あぁ、みんなよく頑張ってくれてる」  学生たちの快活な声が、明るい公園を満たしていた。アイリスがこうした活動に興味を持ったのも六年前、十八歳で大学に入学した頃だった。当時は彼らと同じようなボランティアから始めたのに、気付いたら自分で団体を立ち上げていた。それをここまで発展させ、存続させられていることにも充足感を覚える。  今日の街頭活動で啓蒙しているのは、アルファ・ベータに向けた抑制剤使用についてだった。通常、オメガのヒートへの対策といえば、オメガ自身が自らの周期に合わせて抑制剤を摂取するというものだ。しかし社会的弱者である彼らは、抑制剤を手に入れる金に不自由している者も多い。また、体質によって効き目は様々だった。  そこで、組織や社会の中核を担う存在であるアルファや圧倒的多数のベータが、抑制剤を摂取すればいいのではないかと考えたのだ。実際、以前から非オメガ向けの抑制剤は存在している。ただし、ヒートはオメガが自己責任で管理すべきものであるという風潮が変わらないせいでなかなか普及していないのが現状だ。アイリスは、その状態を打開したかった。 「社会的な意義のある、素晴らしい試みだと思います! 僕はベータで、今までこんな問題があるって気付いてなかったから。アイリスさんの話が聞けて良かったっすよ。――あっ、イワン! こっちだ!」  隣のマルコが立ち上がり手を振った。近づいてくる人影がある。「あれ、うちの新人のイワンです」とアイリスに説明した。大人しそうな猫背の男が、ひょこりと頭を下げた。 「どうも」 「すんません、こいつ陰気な奴で。でもこの活動を見たいって来てくれたんです。勉強させてもらっていいっすかね?」  その時、遠くからアイリスを呼ぶ声が聞こえた。 「アイリスさん! アイリスさんと名刺交換をしたいって方がきています!」  緑に囲まれたベンチで休憩を取っていたアイリスの元に駆けてきたのは、団体の創設メンバーであるジェンだった。大学の後輩である彼はベータだったが、この活動に賛同し、アイリスのことを慕ってくれている。彼は汗を浮かべて、広場の噴水辺りを示した。 「あぁ、ありがとう、いま行くよ――すまない、マルコ。また今度」 「はい! 絶対いい記事にするんで!」  元気な声に見送られ、アイリスはジェンの元に駆け寄った。 「どんな方か聞いた? 記者や編集者かな」 「あ、いえ、それが――以前お世話になった者ですとしか」  それだけでは情報が足りず、思い浮かぶ顔はなかった。それは近づいてからも同様だ。ジェンが示す人物は、小柄な男性らしい。背筋が伸び、ほっそりしたシルエットから、自分たちと同年代の若者に見える。学生時代の知り合いの顔をいくつか思い浮かべているうちに、その人物の目の前まで辿り着いた。 「イコールフット代表のアイリスです。あなたは?」 「……」  男は俯き気味の顔を上げない。少しだけ背を丸め、顔を覗き込もうとした時、刺すような瞳と目が合った。  ――オメガだ。  直感的にわかった。続いて彼の身形を見る。くたびれたシャツ。脚の形を露にする細めのスラックス。それらは皆、何年も着古したように薄汚れ型崩れしていた。彼の履く革靴も同様だ。擦り切れて穴が開きかけている。彼らオメガの苦しい生活の証明だった。  こうしたことは珍しくない。活動が認知され始めてからは特に、当事者たちからの相談は急増していた。今日も、オメガの生活に関する相談のブースを設けている。一瞬、そこに案内しようと考えた。だけどそうできなかったのは、彼の瞳から目が離せなかったからだ。  貧する者特有の諦念や憂いが湛えられた海のような瞳。しかしその奥に、烈しい意志と怒りがある。自分を虐げる世界に叛逆するような、強い意志が。  アイリスには、この男が触れがたいほど高貴なものに見えた。そのみすぼらしさを忘れるほど、張りつめた緊張感と、凛とした矜持を湛えている。男の纏う空気で、周囲の温度が冷えていくようだった。 「お話を聞きましょう。あちらのベンチへ」 「あんたらは――」  そのふてぶてしい物言いに、先に反応したのはジェンだった。むっとして男に迫ろうとする。それを片手で制して、アイリスは言葉の続きを待った。 「――本当に、高みの見物なんだな」 「なんだと!?」  ジェンが今度こそ食ってかかる。しかし男は反応せず、アイリスから視線を逸らさない。 「……どういうことかな」 「なんだ、この活動は。ヒートへの誘発を抑える薬を、アルファに薦める? 馬鹿が、そんなことを世の中のアルファが承服するはずがない」 「どうしてそう思うんだ」 「奴らは俺たちなんかのために気を割くことは無駄だと考えているからだ」 「――その意識を変えたいと私は思っている」 「無駄だ。あんたがそうやって騒いでるうちに、反対派のアルファがどう考えるかわかるか? 脅かされる前に、俺たちを存分に服従させようって思うんだ」 「そんなことは――」  徐々に男の声は熱を帯びていく。その時、やっと気が付いた。彼と同じような身形をした人々が、周囲に集まっている。オメガのグループが抗議に来たのだ。 「わかった。話そう、場所を変えて」 「俺の親友は! アルファと番になったのに、身勝手に解消された! そうなったオメガはどうなるかわかるか!? どれだけあいつが苦しんだか」 「それは――」  一方的に番を解除されたオメガは、精神の支えを失い酷いトラウマを負うと聞く。アイリスは実際に見たことがなかったが、彼の怒りから相当のものだとわかる。だとしたら、聞き逃すことはできない。 「詳しく聞かせてくれ、力になりたい」 「うるさい! 偽善者が! お前らアルファのせいで、俺たちは……ッ――う、」  そのとき、男が突然身を屈めた。そのまま膝をついた男は苦し気に呼吸を繰り返している。男から発せられる、噎せ返るような甘い匂い。これは―― 「ヒートだ……!」  周囲を見渡すと、多くの視線が男に向いていることに気が付いた。イコールフットのメンバーは、皆この活動の前に抑制剤を摂取している。援助を求めるオメガと接触する機会も多く、いざという時に対応できるようにするためだ。しかし、休日のセントラルパークには多くの通行人がいた。彼らは当然、ヒートへの備えをしていない。時にベータでも誘発されるという甘いフェロモンが周囲に満ちる。ぎらついた視線と共に近づく人々に気付いたアイリスは、咄嗟に男を抱きかかえた。 「アイリスさん!」 「ッ……本部に場所を作れ――それから、タクシーの手配も!」 「わかりました、すぐに!」  事態を見ていたジェンは踵を返して駆け出す。アイリスもそれに続こうとしたが、思わぬ足止めにあった。男に先導されてきた他のオメガたちが行く手を阻んだのだ。 「トウイさんに何する気だ! 返せ!」 「安全な場所に保護するだけだ。本部には薬もある」 「嘘吐くな、そうやってアルファは俺たちを無理矢理――」  ふいに、背後から肩を掴まれた。トウイと呼ばれた男のフェロモンに誘発された男だ。目の焦点が合っておらず、理性を失っている。通行人だったと思われる男は、「なぁ、あんた、俺にそいつを預けてくれよ」と強い力でアイリスの腕を引いた。 「っ、やめろ……!」  男に強く揺さぶられ、アイリスはトウイを抱きかかえたまま膝をついた。覆いかぶさるように、男はアイリスを引き剥がそうとする。更に、動きを止めたアイリスに対して、フェロモンに当てられた者たちが、誘蛾灯に近づく虫のようにふらふらと近寄ってきているのがわかった。  ――まずい。  脳内で警鐘が鳴る。腕の中の男は相変わらず苦し気に、頬を赤らめたまま速い呼吸を繰り返している。涙に濡れた目元。艶やかな肌と、汗が滴る白い首。抑制剤を使用しているとはいえ、この距離で浴びると、ぐらりと理性が揺らぐのを感じる。  ――まずい、早くなんとかしないと。  このままでは彼を守れない。それどころか、自分まで加害者になってしまう。依然、アイリスを引き剥がそうとする男の動きは止まず、しまいには背中を蹴飛ばされ、殴られた。 「ッ、だめだ、やめろ……!」 「――おれ、を」  腕の中で弱々しい声がした。見れば、トウイは薄っすらと目を開き、潤んだ目でアイリスを見上げている。渇いた喉に水を欲するように口をはくはくと動かしたトウイの唇の間から、赤い舌がちらりと覗いた。 「おれ、を、捨てろ。置いていけ」 「……! それは、できない」 「なんで。ここで、俺を襲ったら、あんたのこれまでは、水の泡になる……おれは、あんたの足を、引っ張りたいわけじゃない……」 「見捨てたら、それこそ俺の矜持が許さない」  その言葉に、トウイは冷笑を浮かべた。 「はは、平等と矜持の革命家、か――」  既にアイリスたちの周りは数人の男に包囲されていた。遠くからジェンの「タクシー来ました!」という声が聞こえる。だけど今や立ち上がることもできそうにない。 「早くそのオメガを寄越せ!」  横から脇腹を蹴られ、アイリスは痛みに息を詰める。バランスを崩して転倒した拍子にトウイを抱く腕が緩んだ。男たちの視線がトウイに向く。まずい、このままじゃ―― 「ッ、あんた、早く行け!」  ふいに、体に圧し掛かる重圧が遠のいた。顔を上げると、先程のオメガたちが、近寄ってきていた男たちを羽交い締めにして押し留めている。 「っ、ありがとう、助かった!」 「こっちです!」  ジェンの声に従い、トウイを連れて人垣を飛び出す。通りにはタクシーが一台止まっていた。 「ジェン、運転手は――」 「大丈夫です。ヒート中のオメガを搬送したいと伝えたら理解を示してくれました。抑制剤も飲んでもらっています」  よかった。アイリスは胸を撫でおろしつつ、タクシーに飛び乗った。実際運転手は、乗り込んできた二人を見てぎょっとした顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。  少し前までなら、こうはいかなかったかもしれない。しかし、オメガのヒートへの対応を講じる企業は日に日に増えていると聞く。こんな非常時にふさわしくないと思いながらも、アイリスは自分たちの活動への手応えに小さく唇を緩ませた。 「――な、に、笑っ……てる……」 「あぁ、すまない。怖がらせたな、大丈夫。こっちの話だ」  トウイが薄っすらと目を開く。その瞳を直視すると、流石に理性が揺らぎそうだったので、アイリスは真っ直ぐ前を見つめたまま声を掛けた。 「あいつらは撒いた。もう安心してくれていい、誓って私は何もしないから」  落ち着いた場所にきたが、トウイは抑制剤を飲もうとしなかった。もしかしたら持っていないのかもしれない。アイリスは懐から取り出すと、「水がなくて悪いけど」と前を見つめたまま差し出した。  かすかに動く気配がして、熱い体温が近づく。彼の汗ばんだ指先が自分の手に触れた瞬間、眩暈のするような甘い熱にくらりと意識を奪われそうになる。ただ、それは一瞬のことだった。 「わかっ、た……あんたを、信じるよ……」  弱々しく息を吐くように囁いたトウイは、薬を呑み込んだらしい。程なくして、荒い吐息は静かな寝息へと変わった。  掌にはまだ、痺れるような甘い疼きが残っていた。

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