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第2話

 ――無駄だ。  暗闇の中で、誰かが言った。それは自分たちの活動への抗議にやってきたオメガだったかもしれない。無駄じゃない。世界は少しずつ変わってきているんだ。そう伝えようとしたのに、張り付いたように喉は動かなかった。  ――無駄だよ、お前は頭が悪いんだから。  その言葉に、体が凍り付く。あぁ、違う。この声は、オメガじゃない。これは――  ――出来損ないが。何をやったって無駄だ。  この声は。ごめんなさい。次は頑張るから。これは、この記憶は。許してください。俺は―― 「……っ!」  薄っすらと目を開くと、覗き込む顔にかち合った。背を預けた柔らかい感触と、見慣れた自室。あのオメガを運んだあとに、自分もフェロモンに当てられたままソファで眠ってしまっていたらしい。ベッドに寝かせたはずの彼――確かトウイといった――は、深海のような瞳で、アイリスを見つめ続けていた。 「――君、ヒートは」 「薬が効いて今は落ち着いている。水を飲もうと思ったら、あんたが寝てることに気付いたんだ」 「すまない、うっかりしていたよ。水は冷蔵庫にあるけど、もし飲めるならハーブティーはどうだ? 気分を落ち着けてくれる」  トウイは首を傾けるように動かした。多分、YESということだ。L字型ソファの底辺側に座るよう促すと、恐る恐るといった様子で腰を下ろした。最初にセントラルパークで抗議をしてきた時と比べ、随分大人しい。表情こそ変わらず澄ましているものの、まだ体が辛いのかもしれない。しおらしい態度は、ティーカップを前に差し出してからも変わらなかった。 「苦手? 大丈夫、変なものは入ってない。ほら、私も飲むから」  温かい湯気と共に、鼻の奥を抜けるような柔らかい香りで空間が満たされる。アイリスはカップに口をつけて見せた。非常事態への緊張で張っていた気が緩むのを感じる。落ち着くよ、ともう一度言ってみせたが、彼は「違う」と首を振った。 「あんたを疑っているわけじゃない」 「それじゃあ」 「――悪かった」  俯いたままの彼は、ぽつりと言葉を零した。それは雫となって、ティーカップの水面へと落ちていくように見えた。 「あんた、俺のせいで殴られてただろ。体は大丈夫か」  そう言われて意識した途端に痛み出すのが不思議だ。背中は打ち身のようにずきずきと熱い痛みを訴えていたが、明らかに彼は責任を感じている。気遣わせないように「大したことなかったみたいだ」と笑顔を作ってみせたが、彼は暗い顔のままだった。 「こんなに親切にしてもらう理由はない。本当はさっきだって、あんたが眠っている隙に何か弱みでも握れやしないか考えていたんだ。俺はそういう奴なんだよ」  雨が降り出すように言葉が溢れていく。この温かい空間が、強張っていた心を解したのかもしれない。アイリスは黙って聞いていた。 「あんたはあの時、本気で俺を助けてくれた。あんたが親切で正しい人間だってことはわかったよ」 「トウイ」 「え?」 「仲間が君のことをそう呼んでいた。それは君の名前? 私はアイリスだ」 「――知ってるよ、あんた有名人だからな」  微かにその唇が皮肉めいたように歪む。それから「俺はトウイだ。バランに住んでる」と名乗った。バランとは、この街の貧困地区であり、職にあぶれたオメガや、オメガの親を持つベータの多くが暮らしている。トウイは清潔な白い壁に囲まれたリビングを見渡し、「アルファってのは、やっぱりこんな暮らしをしているんだな」と疲れたように笑った。 「教えてくれ。あの時、君――トウイは、私に何を言おうとしていたんだ」  ヒートがきたことでうやむやになってしまったが、元々トウイが友人のことを訴えようとしていたことをアイリスは忘れていなかった。それに――あの瞳。今は倦み疲れ、自信を失くしているように見える瞳が、あの瞬間、叛逆の意志に燃えていた。 「……話した通りだ。俺の幼馴染が、一方的に番を解消されて、おかしくなったんだ。アルファに囲われてるも同然な生き方だったから、今更ろくな仕事にも就けない。食うに困って盗みをやって、今は塀の中にいる」 「――それは」 「わかってる。あんたらアルファにも色々いる。それはベータだってオメガだって同じだ。だから、あれは八つ当たりだよ。ヒートが近いってわかってたのに、俺はわざわざ出向いた。それで結局あんたに助けられてる。馬鹿みたいだろ」  ふいに腰を上げたトウイは、「邪魔したな」と背を向けた。手つかずのカップの中身が小さく揺れる。トウイの足取りは覚束ず、危うかった。 「待ってくれ! ここからバランまでは遠い。抑制剤が切れたらどうするつもりだ」 「どうもこうも。ずっと耐えてきたことだ。何かあったってそれは」 「それは私が見過ごせない」  立ち上がってトウイの前方を塞ぐ。アイリスよりも小柄で華奢なトウイは少年のように見えた。しかし、睨みつける視線の鋭さは、子どものものなどではない。どけ、と凄まれ、アイリスは首を横に振った。 「ヒートが治まるまでここで暮らせ」 「冗談言うな。これ以上迷惑をかけるつもりはない」 「冗談なものか。君を行かせはしない」 「――アルファ様は人に命令するのが染み付いていやがる」 「アイリスだ、トウイ」  睨み合いのなかで、アイリスは再びトウイの瞳を覗き込む。あのとき――目が離せなくなった瞳。諦念と激情の入り混じった、この男の本質を、もっと知りたいとアイリスは思う。 「トウイは、本当は諦めたくないんじゃないか? この世界を変えることを。だとしたら、私と目的は同じだ。私たちは仲間になれる」 「馬鹿、そんなこと」 「馬鹿じゃない。実際トウイは見ただろ、私たちを乗せたタクシーの運転手――多分ベータだが、君を見て襲わなかった。うちのチームのジェンだってそうだ。少しずつ、世界は変わってきている」  一歩進むと、トウイは一歩引き下がる。アイリスは言葉と歩みを止めなかった。 「私たちの活動は無駄だとトウイは言ったな。どうしてそう思う? 問題を解決するには、当事者の視点が不可欠なんだ。それを俺に教えてほしい」  いよいよ追い詰められたトウイの背が、ガラス窓に着く。アイリスは目を見据えた。 「俺と一緒に世界を変えてくれ、トウイ」  その時、沈黙の中にあったのは交錯する視線だけだった。二人ともぶれないまま、息を止めたように見つめ合った。 「断る」 「っ――」 「でも、一週間ここで暮らせるのは悪くないな」 「それじゃあ――」 「世界を変えるとか、あんたの理想や矜持はどうでもいい。ただ滞在の報酬として、俺はあんたに協力できることをする。それでどうだ?」  十分すぎるほどの提案だ。大きく頷いたアイリスは掌を差し出す。しかし、タクシーの中で彼の熱い手に触れた時のことを思い出した。その戸惑いをすぐに察知したらしい。慣れているとでもいうように、トウイは肩を竦めて「まぁ、よろしく頼む」と無愛想に言った。 「すまない」 「別にいい。ただ――」 「ただ?」 「俺はこんな良い茶を飲んだことがないんだ。この匂いは、本当に大丈夫なのか?」  眉を顰めたトウイの怪訝な表情は、初めて素を見せたようだった。その様子がおかしくて、アイリスもようやく本心から笑った。

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