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第3話
「アイリスさん、頼まれていた資料です」
出先からオフィスに戻ると、きびきびとした足取りで近づいてくるメンバーがいた。リリーだ。彼女はこの団体で唯一、アイリスと同じアルファで、ベータのパートナー・シンと共に働いてくれている。ファイリングされた資料は、必要とする情報の部分にマークや補足情報の書き込みがあり、わかりやすく整理されていた。
「ありがとう、流石速いね。シンの研修も順調みたいだな」
シンは事業主や企業人事に向けた、オメガの雇用に関する研修講師を担当している。電子で回答された受講者アンケートを移動中のタクシー内で確認したが、結果は上々だった。
「アイリスさんも、出資の話はまとまったんですか?」
「あぁ。クレディ・ラウフェンのオーナーは私たちの活動に共感してくれた。ぜひ支援もとのことだ」
「よかった。これでもう少し活動も広げられますね。その資料も、新しい活動に関することなんですよね?」
経理を担当しているリリーの洞察は鋭い。彼女に頼んだのは、前年度国家予算の内訳に関するものだった。
「あぁ、その話なんだけど。このあと、シンとジェンが戻ってきたら三人に話したいと思っていたんだ。君たちに協力してほしいことがある」
※
トウイの同居が決まった翌日。
正直なところ、アイリスは帰宅した時に彼がいなくなっている可能性も予想していた。彼がこの社会に抱えている恨みは簡単に消えるものではないだろう。実際、彼を助けるために、目の色を変えた男たちに囲まれたとき、アイリスは感じたことのない恐怖を味わった。こんな危険に常に晒されていれば、彼らが拒絶的な態度を取るのは当然だ。
だから驚いたのだ。「ただいま」と言いつつ恐る恐る玄関の扉を開けたとき――部屋の中は温もりと光に満ちていた。
「トウイ?」
「おう」
リビングに入ると、ソファに腰掛けたトウイが当たり前のようにそこにいた。薬が効いているのか顔色はいい。それどころか、テーブルにはチョコレートとカップが置かれ、ハーブティーの香りが漂っている。寝室にあった毛布を膝に掛けたトウイは、本棚から拝借したらしい本を読んでいた。
自由にしてくれていいとは伝えたが、勝手知ったる我が家という様子は不遜にすら見える。多分、呆気に取られているアイリスの顔がおかしかったらしい。トウイは、「色々借りた。この紅茶、匂いに慣れたら悪くないな」などと不遜に笑った。
「淹れ方、わかったのか?」
「馬鹿にするな。本で読んだことがある」
「本を読んだりするんだな」
思わず率直な感想を伝えると、トウイは「本当に、俺たちのことを無学で非力な存在だと思ってるんだな」と、わざとらしく溜息を吐いた。
「あ、いや、悪い! そういう意味じゃ」
「いいよ、事実だ。俺の街じゃ学のない奴も多い。俺だってそうだ。本だって、親父が置いていった蔵書を読んだくらいだからな」
置いていった。それは含みのある表現だった。しかし続きを待ってもトウイは語ろうとしない。気にならなかったわけではないが、彼の個人的な事情に踏み込むのは時期尚早だろう。アイリスは切り替えるようにキッチンに立ち、「さ、今日は何が食べたい?」と尋ねた。
「――わかんねぇよ、食べたいもんなんて」
「何かあるだろ。ヒートの時に食べやすいものとか」
「ない、なんでもいい」
「あのなぁ」
「知らねぇんだよ。パンだとか、野菜のスープだとか、普段はそんなもんしか食ってねぇんだから」
むっとしたようなトウイは、本を閉じてソファに寝転がった。悪いことを聞いてしまったと思うが、開き直ったように気ままに振る舞ってくれることがうれしい。アイリスは、「じゃあ、本当に何でもいいんだな?」と念を押した。
「しつこいな、そう言ってる」
「わかった。じゃあ俺の好きなものにする」
「勝手にしろ。高級な肉でも魚でも、適当に出せ」
お前がいろって言ったからいてやってるんだからな。ソファで丸まったトウイの背中はそう語っていた。望むところだ。好きなように振る舞ってくれていい。俺もそうするから。アイリスは冷蔵庫を開けて、夕食の献立を決めた。
「――これは流石に食ったことある」
食卓に並べられた皿を見て、トウイはやはりむすっと口を引き結んだ。白いプレートに山盛りになっているのは、鶏肉のフリットだった。オーロラソースやレモンも添えてある。
「ムネ肉を使っているからヘルシーなんだ。トウイにはもっと栄養のあるものをと思ったんだが、好きなものでいいってことだったからな。ちなみにこの肉は、スーパーのお得パック。いつも買いだめしていて、そろそろ消費したかったんだ」
「お得パック……」
「別に俺だって、余裕があるわけじゃないよ。俺の活動は金儲けの事業じゃない。それに、本当に好きなんだ。母親がよく作ってくれていたから」
ボイルドエッグを乗せたサラダも、コンソメスープも、舌に慣れた味だった。オレンジ色の電球に照らされたそれらは、きらきらと光っているように見える。「早く食べよう」と、アイリスは席に着いてフォークを持った。
「いただきます」
「……いただきます」
食卓に会話はなかったが、それは冷たい静けさではなかった。少し濃い目の味のスープを啜る音。ふんわりと揚がったフリットの衣が歯の間でくしゃりと鳴る音。それらを口にしたトウイのはっとするような吐息や、手の運びが速くなっていく音。小さな口にたくさん物を詰めて、ばくばくと食べるトウイの様子は見ていて心地がよかった。
「――何見てんだよ」
「いや。元気そうでよかったと思って」
「……薬とか、食事とか。感謝はしている、一応」
請われたからここにいるのだと開き直ってはいるものの、こうして礼も言ってくるところが天邪鬼なようで面白い。食後にデザートも出してやろうとアイリスは決めた。
アイスクリームにベリーを乗せたものまで平らげて一息吐いたころ。トウイはぽつりと「――あんた、母親がいるんだな」と呟いた。
「……あぁ、まぁ。もうあまり連絡は取っていないけどな」
家族のことが気に掛かるのは、やはり置いていったという父親の存在があるからだろうか。「トウイの家族は?」とさりげなく尋ねると、言い淀むように視線が下がった。
「――俺は、」
「悪い。無理に話さなくても」
「いや、いい。これもあんたへの協力の一環だと思え」
よくある話だよ、とトウイは前置きした。
「俺には母親がいない。男のオメガから生まれたんだ」
「――そうだったのか」
「でも、家庭なんてものはない。相手は番じゃなかったから。孕ませた相手は男のアルファで――俺の産みの親は複数人いる囲い相手の一人にすぎなかった」
それでも父は、辛そうな顔なんて一切見せなかった。そうトウイは続けた。アイリスも、バランの貧民街には何度か足を運んだことがある。崩れかけた土壁。テープで補強した窓ガラス。そんな家があるのはまだいい方で、定住できる場所を持たない者もいる。隙間風が肌を刺す部屋で、身を寄せるように暮らす幼いトウイと父親の姿が脳裏に浮かんだ。
「相手を恨んじゃいなかったと思う。父は穏やかで優しい男だったから。それどころか、俺を産めて良かったということをしきりに話してくれた」
「……いい親御さんだな」
「俺が十三の時に死んだよ。俺を食わすために働きすぎて、病院にも行く金もなくて。もう十年以上も前の話だ」
「――そうだったのか」
それは決して、珍しい話ではなかった。勿論、アルファと一緒になることで幸せに暮らしているオメガもいる。他にも、抑制剤を使いベータと変わらない生活を送りながら、社会的に成功しているオメガもいた。ただそれはまだ少ない例だ。現実の多くのしわ寄せは、彼らの元へきている。
アイリスは話として知っていた。相談者の話も何度も聴いたことがある。だけど、こうして個人として知り合った人間の生々しい話を聞いたのは初めてだった。
「ちなみにうちの蔵書は、父の相手のアルファが贈ったものらしい。父が言うには――相手の男は、学があった上に文芸の趣味も良かったらしい。俺としては、どれだけ高尚で風流な趣味人だったとしても、父を苦しめた相手のことは許しがたいけどな」
それでもトウイはその本を読んで育った。売り払って生活の足しにすることはできただろうに、それをしなかったのは、トウイの父が、トウイの豊かさに繋がると信じたからだろう。しかしそう返すのは、相手の男を擁護しているようにも聞こえると思い黙っていた。
「――悪かった」
「だから、いいっていってんだろ。身の上話くらい、飯代のかわりにもならない」
「それだけじゃなくて。俺は……俺の活動は、本当に、正しいものだったのかと思って……」
普段のアイリスを知っている者が見たら、驚いただろう。アイリスは常に堂々としたリーダーだった。その彼が、迷いを滲ませ、肩を落としている。そんな様子を、トウイは鼻で笑った。
「ばーか。俺たちの生活にあんたが責任を感じる必要はない。アルファとオメガ。俺たちは別の生き物で、この社会がこうなんだから、仕方ないだろ」
「別の生き物なんて言うな。俺は」
「わかってる。変えたいと思ってくれていることはありがたい。だから俺は抗議に行ったんだ」
「そうだ、トウイが言おうとしていたことはなんだったんだ? 本当は、単に文句を言いに来たわけではないんだろう」
「別に。腹が立ったから、当たり散らしただけだよ」
「嘘を吐くな。トウイは俺たちの活動に対し、もっと具体的な提案を持っている。そうだろ? なぁ、トウイ。俺はどうしたらいいと思う?」
身を乗り出すように迫ったアイリスがおかしかったらしい。トウイはくすくすと笑って「アルファ様が、随分と謙虚じゃねぇか」とからかった。
「馬鹿、俺は本気だ」
「俺」
「え?」
「あんた、格式張ってる時は気取って〝私〟とか言ってるくせに、さっきから〝俺〟って」
油断してるな、とトウイに笑われて初めて気が付いた。そういえば、自分のことをそう呼んだのはいつぶりだろう。ずっと仕事と一人住まいの往復で、こんなふうに話す相手がいなかった。なんだか途端に、自分が子どもじみたように思えて恥ずかしい。アイリスは誤魔化すように話を変えた。
「――とにかく、俺はトウイと真剣に話を」
「わかってるよ。とりあえず、テーブルを片付けよう。あんた、袖を皿に浸しそうだ」
客人なのだから座っていていいと言ったのに、トウイは譲らなかった。食事を作ってもらったのだから片付けは自分の役目だと言って、食器洗いを引き受けてくれている。アイリスはその隣に立って皿を拭いていくことにした。
「あまり気を遣うなよ。俺がいない間に掃除とか、したりしなくていいから」
「はっ、なんだよそれ、振りか?」
「あ、違う、そういう意味で言ったわけじゃ……!」
「知ってるよ。あんたって、天然って言われない?」
やや失言が多い自覚はあったので、アイリスは何とも言えず俯いた。気軽な雑談、というものは正直得意ではない。枠に捉われない仕事をしているからこそ人との繋がりは大切で、仕事相手と喋ることへの抵抗はなかった。互いの近況から、最近注目しているニュースや社会課題について話題は移り、やがて議論になってゆく。そうしたパターンが決まっているからだ。
だけど、これまで接点のなかった見ず知らずの相手との会話はどうだろう。責任感からトウイを家に置くことにしてしまったが、よく考えれば、これまでの人生で親しくしたことのないタイプだ。先程喋り方を指摘されたことと言い、一度意識してしまうと、何を話していいのかわからなくなる。
「どうした?」
「あ、いや、トウイは、俺といて退屈じゃないかと思って」
思わず零れた本音だった。アイリスを見上げるトウイは、皿洗いのスポンジを握ったまま固まる。それから、ふはっと噴き出すように笑った。
「退屈な奴だと思ってたよ。つまらない理想主義者だって」
「そうか……」
「でも、思ったよりずっと面白い」
にやりと笑った顔は、悪戯に成功した子どものように見えた。
「アルファ様がそんなこと気にしてんじゃねぇよ、アイリス」
アイリス。そう呼ぶ声は、これまであまり聞いたことのないトウイの声だった。低く掠れた、柔らかい音に包まれる。鋭い目はきゅっと細められ、目尻が下がっていた。あぁ、この男は、笑うと随分印象が変わる。そんなことを思いしばし見惚れたあと、我に返った。
「――っ、よし、食器洗いはそれで終わりだな。話をする前に湯を溜めてくるから。今日は風呂に浸かれ」
「……あぁ」
背を向けて遠ざかりながら、今の自分の行動を思い返す。今、確かに自分はトウイに見惚れていた。並んでいた側の肩が熱い。そばにいた体温の余韻が残り、それが全身に染みわたるようだった。これは――きっとヒート中のフェロモンに当てられたからだ。お互い服薬していたとしても、完全に抑えられるわけではない。
自分は、どんな顔でトウイを見ていただろう。あの時トウイを襲おうとした男たちと、同じ顔をしていなかったか。怖がらせてはいないか。一度考え出すと、申し訳なさでいっぱいになる。そして、この厄介な性と本能が恨めしい。
――アイリス。
名を呼ぶ声が温かいと感じたのも、本能のせいなのだろうか。この性が無かったとしたら、どう感じたのだろう。考えてみても、答えは出るはずもなかった。
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