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エピローグ
「お待たせ――どうかな」
試着室から出てきたアイリスの姿を見て、トウイは満悦の表情で腕組みをしたまま頷いた。それを見て、アイリスはほっとしたように息を吐く。
「良かった。うちの広報担当様を納得させられて。私はあまりこういう色は着ないから落ち着かないけど。君が言うなら似合うんだろうな」
その信頼に応えられている自信はあった。
あれから、トウイは正式にアイリスの主催する団体『イコールフット』のメンバーとして迎え入れられることになった。雑用でもなんでもというつもりだったのに、アイリスのメディア露出にあれこれ口を出しているうちに広報という位置付けになっていた。彼が進めていたオメガ支援の提言も順調で、トウイは今、記事の確認や活動紹介の対応のほかに、メディアへの営業活動にも追われている。最初はオメガと働くことへの抵抗感があったらしいメンバーのジェンをもってしても、トウイは「やり手」だという。
とはいえ、働けているからといって裕福になったわけではない。アイリスの言っていた通り金になる活動ではないのだ。トウイは変わらず貧民街に暮らしていたが、街の仲間たちの声を聞ける環境こそ、今の自分にとって必要なものだと感じていた。
イコールフットの活動に抗議しに行った仲間たちからは、当初随分とひんしゅくを買った。彼らは同じオメガや、オメガの親を持つベータたちだ。アルファに対し、恨みと同時に、自分たちをここから引き上げてくれる存在であるという憧憬もある。トウイが保身のためにあっさり寝返ったのだと思われるのも仕方がなかった。
しかしアイリス自身が何度も足を運び、対話を重ねてくれたことで、彼らの態度もいまは軟化している。二人に協力をしたいと申し出てくれる者までいた。これも大きな変化の一つだ。
こうした現状を理解しているから、アイリスも一緒に暮らすことを提案しなかった。
だから休日も、こうして待ち合わせをして出掛けている。今日誘ったのはアイリスの方からだった。「仲間に加わってくれたことを正式に祝いたいから」と提案してくれたのだ。初めて一緒に図書館に出掛けた日に借りたジャケット。あの代わりとなる、サイズの合ったものを贈りたいのだという。街のレストランで紅茶とサンドイッチのランチを楽しんだあと、少し高級な専門店をいくつか周った。だけど今、試着をしているのはアイリスの方だ。
「お前は姿はいいし、ファッションセンスもないわけじゃない。ただバリエーションに乏しいからな。いつも同じスーツで印象付けるか、内容によって雰囲気を変えるか。どちらかにした方がいい」
その言葉に従って、アイリスは明るいグレージュのセットアップに身を包んでいた。柔らかく光沢のある生地がフィットして、体のラインを美しく見せている。手足の長さが際立つ良い品だ。
「でもトウイ、これはどういう場面で着れば」
「温かみがある色だから、柔らかく見せたい時にいいんじゃないか。たとえば――帰省して、母親に会う時とか」
実家のことを持ち出され、アイリスは一瞬息を詰めた。先日の父親に頼った件を清算して貸し借りは無しにしたいからと、アイリスは近々帰省する予定でいる。大学に入学した年から数えると、およそ六年ぶりのことだった。
「いいものは、心を支えてくれるだろ、アイリス。これを着て、胸を張って行ったらいいと、俺は思う」
「でも、私は君に」
「俺はあの時借りたジャケットを貰いたい。アイリスの使っていたものだと思うと安心するんだ。駄目か?」
健気にそう言われて、断れるアイリスではなかった。それに、帰省が憂鬱で心細いのは確かだ。トウイが太鼓判を押してくれたこれなら、支えになってくれるかもしれない。
「――わかった。ありがとう、トウイ」
スーツが出来上がるのは三週間後だという。必然的に帰省の日程も目途がついた。心の準備をするのにも十分だろうと思う。
帰り道、トウイはぽろりと「悪かった」と零した。
「ん? なんで謝るんだ?」
「――立ち入ったことを言ったなと思って」
「そんなことない。背中を押してもらったと思っているよ」
「知らなくて、ショックだったんだ」
石畳の道を二人は並んで歩く。日も伸びて、今日は風も温かい。幼い子供を抱いた夫婦が、楽し気に二人の隣を通り過ぎた。
「アイリスが家族と何かあったんだと知った時、ショックだった。お前が話さなかったことじゃなくて、お前が俺の話を聞いてくれたのに、俺からは聞こうとしなかったことが」
「トウイ……」
「なんでも知ってる関係がいい関係だとは限らないけど、何も知らないと、何かあったときに支えられない。だから俺は、お前に許される範囲なら、お前に踏み込みたいと思っている」
雑踏のなかで、真摯な告白だけがアイリスの耳に鮮明に聞こえた。今までずっと、リーダーとして言葉や考えを発信してきた。その話が聞きたいと興味を持ってくれる者もいる。だけどこうして、一人の個人として自分の話を聞いてもらうことなど、あっただろうか。
「――嫌か?」
「嫌じゃない。ただ、私は――いや、俺は、多分あまり自分のことを話すことが得意じゃない。だから、トウイの方から来てくれると、助かる」
「はは、わかった。任せとけ」
傾いた日が照らす街は美しく、その中にある人々の悲しみも怒りも光で眩ませる。だけどそれが虚構だとは思わない。世界が醜悪なことも美しいことも、同時に共存するのだと今ならわかるから。
「いつか、俺の家族に会ってほしい、トウイ。話した通りの嫌な家庭で、いい思い出はほとんどない。君にも嫌な思いはさせてしまうと思う。だけど――母の作ったフリットは美味い」
「そっか、楽しみだな」
「それから、君の父親の墓参りもさせてほしい」
「うん」
光の中でトウイは目を細める。心に抱えていた不安が溶けていく。
「それでいつか、俺たちに合う形を見つけたら――俺と、家族になってほしい」
一緒に暮らしても、暮らさなくても。番という契りを結ばなくても、書面の契約を交わしても、どんな形でもいい。第二の性に縛られた世界で見つける二人だけの形は、きっと苦しくて、楽しいものになるはずだ。
「苦労しそうだな。でも、アイリスとなら面白そうだ」
どうやらトウイも同意見らしい。並んだ二つの影が伸びていく。「今夜はうちに来ないか」と尋ねたら、「最初からそのつもりだ」とトウイは笑った。
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