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第1話

 春の風が、通い慣れた通学路を撫でていく。  十年前と変わらない桜並木。けれど、そこを歩く自分だけが、どこか取り残されている気がした。  朝比奈 (はる)は、久しぶりに戻ってきた地元の景色を見上げ、苦笑を浮かべる。夢を追って飛び出したあの日から、もう十年。  ひとつも思い描いた通りにはいかなかった。 「……帰ってきちゃったな」  ぽつりとつぶやいた声が、風に流される。  そのときだった。  カラン、と自転車のスタンドが立てられる音がして、晴がふと顔を上げる。  そこには通っていた高校があって、教員用通用口から出てきた男と、ばっちり目が合った。 「……あれ」  男が眉をひそめ、驚いたように声を漏らす。  黒縁眼鏡、ジャケットにチノパン。  真面目そうな教師姿のその男にどこか覚えがあった。 「……陽一?」  思わず名前を呼んでいた。  その男──瀬戸 陽一は目を見開き、数秒の沈黙ののち、ふっと微笑んだ。 「……おかえり、晴」  変わらない、優しい笑み。  ふっと肩から力が抜けた。 ◇ 「久しぶりだな……何年ぶりだっけ」 「十年。卒業してから一度も会ってない」  ふたりは、学校近くの喫茶店に腰を下ろしていた。  懐かしさの残る、レトロな内装。テーブルの上には、ふたつのカップから立ち上る湯気。  晴はスプーンでそっとコーヒーをかき混ぜながら、陽一の横顔を見つめた。  成長しても変わらない穏やかな目元。  けれど、大人の落ち着きを纏った彼は、あの頃よりもずっと遠くにいるような気がしてならない。 「教師になったんだな、陽一が」 「うん。晴は東京にいたんだよね? そっちはどう?」 「ああ、まあまあ。……でも、うまくはいかなかった」  晴は苦笑して、カップを口に運ぶ。 「演劇やってたんだ。俳優を目指して。でも……オーディション落ちまくって、バイトばっか。結局、役も取れずに二十代後半って……なんかもう、情けなくて、限界だったんだよな」  陽一は黙って、晴の言葉に耳を傾けていた。その静けさが心地よくもあり、胸を締めつける。 「親にも顔合わせづらくてさ、実家じゃなくてビジホに泊まってる。少しの間、ここにいるつもりなんだけど……」  沈黙が落ちる。ふたりの間に流れる時間が、ゆっくりと過去を撫でるようだった。 「ねえ、晴」  陽一がぽつりとつぶやく。 「ずっと、君のことが気になってたんだ」  カップを持つ手が、ぴたりと止まる。 「……なにそれ」  笑おうとした。でも、喉の奥が詰まって、言葉がうまく出てこなかった。  しかし、陽一は何も言うこと無く、どこか寂しげに微笑むと俯いた。  どういうことなんだよ、それ。  ずっと、一緒にいた。  高校生の頃、となりを見ればそこに在ったのに、今更気になっていた、だなんて。  少しドキッとした胸。  何も気づかなかったかのように、コーヒーを一口飲んだ。 「よかったら、ちょっと寄ってく?」  会計を済ませたあと、陽一がふとそう言った。 「ん? どこに?」 「学校。……夜の校舎って、ちょっと特別だろ」  晴は一瞬驚いた顔をしたあと、ふっと笑う。 「相変わらず変わってないな。昔から、そういうの好きだった」 「変わってないのは、お互い様じゃない?」  そう言って歩き出した陽一の背を、晴は少しの間だけ見つめた。十年分の距離を、いま、ほんの少しずつ縮めている気がした。 ◇  夜の校舎は、静かだった。  教室の扉をそっと開け、ふたりで中に入る。昼間は生徒の声でにぎやかだったであろう場所が、いまは息を潜めるようにそこにあった。 「懐かしいな。こういう教室の匂い」 「だろ。毎日ここで、子どもたちと戦ってる」  陽一は笑いながら、教師用の机に腰を下ろす。晴は窓際の席に座り、カーテン越しに見える夜空をぼんやりと眺めた。 「……ここでさ、俺らも、いろいろ話したよな。放課後、残って」 「進路とか、恋とか、くだらないこととか」 「恋は……」 「ん?」  陽一は何か言いかけて、少しだけ視線を逸らした。  晴は静かにその顔を見つめる。 「あ、そういえば、お前、彼女は?」 「……いないよ」 「え、そうなの?」  静かで、落ち着いた、しかしどこか不安も感じる空気に、晴は我慢できず茶化すように適当な話を振ったのだが、陽一の表情に少し影が落ちる。  そして、陽一に彼女がいないことにホッとした。 「うん。作る気もない」 「え……なんで? なんで作んないの?」 「……うん」  忘れかけていた感情が、顔を出し始める。  彼女を作る気がないって、それは、恋人自体いらないということなのだろうか。   「うん、じゃ、わかんねえって」 「あー……好きな人が、いるからだよ」 「好きな人……?」  どうやら、違うらしい。  晴はツキンと痛む胸を無視して、へらっと笑う。 「俺の、知ってる人?」 「うん」 「え、じゃあ高校の同級生かな。なあ、もっとヒント──」 「晴」  痛む胸に蓋をして話していれば、名前を呼ばれて言葉を遮られる。  陽一に目を向けると、いつになく真剣な瞳をしていた。 「……俺、卒業式の時、晴に言いたいことがあったんだ」  沈黙。  教室の時計の秒針の音が、やけに大きく響いていた。  そして、晴は忘れようとしていたことを思い出す。  自分自身も、卒業式の時、陽一に伝えたいことがあったことを。 「好きだったんだ、晴」  陽一の声が、夜の空気を震わせた。  晴は、目を伏せた。  言葉がすぐには出てこなかった。けれど、胸の奥が、確かに熱くなって── 「俺も、伝えたかったことがある」 「うん」 「……っ、俺も、お前のことが──」  言い終わる前に、陽一が立ち上がって、晴のもとへと歩み寄る。  そっと頬に手が伸びて──。  ふたりの影が、ゆっくりと重なった。  頬に触れた陽一の手は、少しだけ冷たかった。  けれど、その指先には、迷いと、懐かしさと、確かな熱が宿っていた。  唇が触れ合うのは、ほんの一瞬。  けれどその一瞬で、十年の空白が埋まっていくような気がした。  晴は目を閉じた。  胸の奥にこぼれ落ちそうな言葉を飲み込みながら、陽一のぬくもりに身を預ける。 「……こんなふうに、触れられる日が来るなんて思ってなかった」  陽一の声はかすかに震えていた。 「ずっと、あのときのままだった。あの卒業式の日から、君だけが、ずっと」 「……俺も、だよ。ずっと、この想いに蓋をしてた。だって……伝わると思ってなかったから。けど、それでも、ダメだな。こうして会ってしまうと、やっぱり……好きみたいだ」 「……晴……」  再び唇が重なった。  淡く触れるだけのはずが、ひとたび味わってしまえば、もう止められなかった。  舌先が、呼吸の隙間を縫うように触れ合い、ぬるく濡れた吐息が絡み合う。  陽一の手が、晴の背を抱き寄せた瞬間、机の上に座る身体がわずかに跳ねる。  引き寄せられ、ふたりの胸が重なると、肌越しに心臓の鼓動が伝わってくる。  その音だけで、体が熱を持ちはじめた。  ボタンにかかった指が、ゆっくりと動く。  カチリと外れるたび、空気が肌に落ち、そしてすぐに、陽一の指先があとをなぞる。  指の腹が鎖骨をすべり、少しだけ服の隙間を押し広げると、晴の唇から小さな吐息がこぼれた。 「……ここ、学校なのに……」  かすれるような声。けれど、その声すら、どこか期待に濡れていた。 「……誰もいないよ」  耳元に落ちたその言葉に、晴の全身がふるえた。  吐息がかかる距離で囁かれたその低さが、背筋をぞくりとさせる。  こんな場所で、と思っても……陽一に触れられていると、それだけで、全てが許されてしまいそうだった。    言葉で何度伝えようとしても伝わらなかった想い。  それが今は、熱に変わって、皮膚の奥へと染みこんでいく。  唇、首筋、鎖骨……軽く触れるだけなのに、そこが自分の弱い場所だと知られているみたいで、背中がきゅっと反応する。  指先が肌をなぞるたびに、そこから熱が滲んで、じんじんと痺れるようだった。  静かな夜の校舎で、響くのはふたりの息遣いと、衣擦れの微かな音だけ。  そのどれもが、やけに甘く、湿度を帯びて感じられた。  触れられるたび、体が勝手に受け入れてしまう。  求めていたのはぬくもりなのか、慰めなのか、それすらもう分からない。  ──やっと、伝わった  陽一の目に浮かんだ涙が、晴の瞳から零れる涙が、月明かりにキラリと光った。 ◇  窓の外が、うっすらと明るくなり始めていた。  教室に射し込むほんのりとした朝の光が、ふたりの影をやさしくなぞっていく。  気がつけば、朝を迎えていた。  晴はシャツのボタンをかけながら、陽一の横顔を盗み見る。  髪が少し乱れていて、まぶたの端が赤く染まっている。けれどその姿は、どこか満ち足りていて、懐かしさすら感じた。 「……昔も、こうやって隣に座ってたよな」  晴がぽつりと呟くと、陽一も微笑みを浮かべた。 「ああ。机をふたつくっつけて、教科書そっちのけで喋ってた」 「先生に怒られて、笑いながら逃げたっけ」 「……戻れたらいいのにな、あの頃に」  陽一の言葉に、晴は首を横に振る。 「戻らなくていいよ。……俺たち、やっと今、ちゃんと伝えられたんだから」  陽一がふと目を伏せた。  その横顔を見つめながら、晴は意を決したように言葉をつなぐ。 「俺、一度、東京に戻るよ」 「……え?」 「もう一度だけ、挑戦してみる」  小さな沈黙が落ちる。  けれどそれは、不安ではなく、あたたかな余白だった。 「……じゃあ、さ」  陽一は、まっすぐに晴を見つめる。 「次帰ってくる時は、ちゃんと連絡してよ。──迎えに行くから」 「……うん」  ふたりは並んで立ち、窓の外を見つめた。  少しずつ目覚めていく街。始まりの予感を告げる空。  朝日が、ふたりの顔を照らした。

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