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第1話
第一章
朝は、いつも土の匂いがする。
冷たい空気が鼻を刺し、古い木の壁が軋む音で、目が覚めた。
エルは、小さな寝台から体を起こした。
家とは呼べない、今にも崩れそうな木と石、そして布で囲われた小屋。雨が降れば天井から水が落ち、風が吹けば壁の隙間から土が吹き込む。
けれどそれでも、外に放り出されるよりはマシだった。
静かだった。
鳥の声も、人の声もない。
村の端、誰も近寄らない場所。エルは一人でここに住んでいる。
小さな桶に張った水で顔を洗い、干からびたパンの欠片を口に含む。
食事を届けてくるのは、近くの老婆だ。名前も知らない。顔も、ほとんど見たことがない。
いつも扉の前にそっと置かれているだけで、誰も声をかけてこない。
それが、当たり前だった。
──今日も、変わらない一日が始まる
そう思ったのに、その日は違った。
村の中心にある鐘が、三度、重く鳴る。
それは「何かが来る」合図だった。
レグナ王国。
それは、東西に広がる広大な大地を治める大国である。
元々東と西とで国は別れており、東は獣人が、西は人間が収めていた。
だがある時、領土拡大を目論んだ人間が獣人の国を攻めたことで争いが起こったのだ。
しかし、人間は獣人を侮っていた。
たかが獣だと思っていた彼らは、体は大きく一人一人が強い力を持っていた。
それ加え、体力も人間の倍以上あって、人間側は苦戦した挙句、これ以上争っていては国民が全て亡くなってしまうと恐れたのだ。
人間は争いを始めたことを恥じ、負けを認めた。
そうすることで命は助かったのだが、しかし、国は獣人によって統一されることとなった。
そのおかげか、首都は豊かで、文化も軍事も発展している。しかし、辺境では今もなお信仰や封建制度が色濃く残っていた。
現国王は、獅子の獣人であるオーレリア一族の長、エドマンド。
彼の即位により、獣人と人間が共存する体制は一応の形を成している──とはいえ、それは表向きの話だが。
エルの村──グイラヴィ村は、王国の最北端、国境近くの辺境地にあった。
山と森に囲まれ、一年を通して寒く、温かな日はめったに訪れない。
教育や医療も乏しく、もはや国から見放されているのではないかと思えるほど、時代に取り残された村である。
そこまでくると、戦火は届くことはなく、今も昔も比較的穏やかな日々を過ごしていた。
そんな村で、エルは生まれ落ち──そして、迫害された。
生まれてすぐ、彼の背に現れた文様が、そのすべての始まりだった。
グイラヴィ村は、過去に魔物の襲撃を受けた歴史があり、以来「厄除け信仰」が根強く残っている。
祠や祭儀が生活の一部となった村において、見たこともない異形の文様は“神の罰”とみなされた。
最初こそ、両親は赤子のエルを育てようとした。
だが、村人から浴びせられる罵声と暴力に、彼らはやがて折れた。
エルは村の外れ、古びた橋のそばに捨てられた。
それでも、完全に見捨てられたわけではなかった。
殺すことまではできず、必要最低限の世話だけは続けられた──顔を合わせることもなく、誰も彼の名を呼ぶこともないまま。
鐘が鳴ろうと、エルには関係がない。
きっと村人に会えば石を投げられるだろう。
無視をされるなんて、まだ良い方である。
汚れた古い服を脱いで、近くの川に行ってはそこで服を洗う。
穴の空いた服を直そうにも、針と糸もない生活では難しい。
しかし、エルは文句ひとつ言わない。
と、いうよりも、文句を知らない。
人と話すことがないせいで、言葉すら、口からうまく出てこない。
昔両親に教わった簡単な挨拶だけが、エルの知る単語の全てである。
孤独ということすら、わからない。
ただ、毎日寒いので、あたたかいところに行きたいとは思う。
服を脱いだ肌が、余計に冷たくなった。
大きな植物の葉にくるまって、じっと寒さをやり過ごす。
村が、何やら騒がしい。
バタバタと無数の音が、振動として伝わってくる。
「……?」
村があるであろう方向を見つめる。
何かが、あったのだろうか。
少しだけ気にはなったが、しかし、そこに行こうとは思わなかった。
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