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 僕は、ずっと暇だった。  いつから自分がこんなふうになったのか、もうよく思い出せない。時間の感覚というものが、なってから曖昧なのだ。あっという間に数ヶ月過ぎることもあれば、一日がどうしようもなく遅く過ぎることもある。  どうやら、僕は地縛霊ってやつらしい。僕の意識はこの狭苦しい男子トイレの奥から二番目の個室の上にふわふわ漂っていて、そこからほとんど動くこともできない。けん玉をどんなに振っても紐のついた赤い球が戻ってくるように、僕の意識はここに縛り付けられているみたいだ。  最初の頃は、どうにかしたくてここに来る生徒になんとかコンタクトを試みていた。  どうやらそれは、逆効果だったようだ。  ここはすっかり『出る場所』として評判になってしまっているようで、もはや滅多に人はここに近づかない。まあ、事実『出る』のだからしょうがない。  年に一度くらいのペースで、度胸試しにガラの悪い生徒がやってくることもあるけれど、彼らを驚かせたり喜ばせたりしたくないから、そういうときは黙っている。  人の噂もなんとやらというから、そのうち忘れ去ってまた誰かが来るだろうと思っていたけれど、見込みが甘かったのか、なかなか人は来なかった。  ――暇だ。  その感覚だけが、ぼんやり、ある。  代わり映えのしない景色の中毎日を何もせず、聞こえてくる授業の音、廊下を走って騒ぐ声、そんなものを聞きながら過ごしていた。  そんなある日、一人の生徒がやってきた。  その日は、校舎脇の桜が狂い咲く日。彼はトイレにやってきて、そして一枚その桜の写真を撮った。  その小さな機械は、どうやらスマートフォンというらしい。僕が生きているときにはなかった機械だ。最近の子どもたちはみんなそれを持っているという。僕が持っていたのは二つに折れ曲がる携帯電話だったから、ずいぶんテクノロジーは進歩したらしい。画面を直接触るって、本当に使いやすいんだろうか。  彼は、桜を見て少しすっきりした表情になると、すぐにトイレを出ていった。  話しかける間はなかった。  だけどそのとき、僕はなんとなく感じていた――きっと、彼はまたここにやってくる。  彼がトイレに入ってきたときの、思い詰めたような表情が、それを僕に確信させていた。  そして、どれだけの時間が経ったか、彼は本当にまたここにやってきた。  彼は、窓から外を見ていた。僕はそれを、見守っている。彼は呟いた。 「早くここから出ていきたい」  そして、 「こんなとこにこれ以上いたくない」  と。  そして彼は個室へ入った。僕の場所、僕の個室に。  個室に入った彼は、蓋の閉まった便座に座り、しばらくの間黙って、じっと床を睨みつけていた。そうすればそこに穴でも開けられるみたいに、強く、強く一点を睨んでいた。歯を食いしばって手を固く握って、じっと。そうしているうち、耐えきれないみたいに彼の目から一滴涙が溢れ出した。ダムが決壊したときみたいに、そのあとは連続で、ぼろぼろと涙が溢れ出す。彼はそれを拭うこともせず、それでもまだ穴を開けようしていた。 「泣いてるの?」  僕は思わず、話しかけていた。  彼は驚いた顔をし周囲を見回した。 「なんで泣いているの」  その言葉を聞いた彼は、余計に辛そうな顔をした。悪いことを言っただろうか。  漏れ出る声を殺そうと、彼は口元に制服の袖を持って行った。鈍痛に耐えるように彼は眉を寄せ、じっとしばらく黙っていた。耐えきれなくなったかのように彼が口を開く――。 「ぼく、は……」  彼はそのまま何かを話し出そうと、 「ぼくは」  そう言いかけた。  そして彼は突然、ハッと何かに気づいた顔をした。その顔は、先ほどまでの表情と打って変わって、何かに怯える顔だった。そして彼は立ち上がると、慌ただしくトイレを出て行ってしまった。  僕は一人トイレに取り残される。  彼は。  彼は思い出したのだろう。ここが『出る』トイレだということを。  彼は気付いたのだろう。今自分に幽霊が話しかけているということに。  逃げ出すのは当然だった。  慌ただしく遠ざかる彼の姿を見送って思う。  きっと彼は、もうここに来ることはないだろう。  ――しかし、予想に反して、一週間もしないうちに彼は再びやってきた。終業のチャイムが鳴った少しあとのことだ。彼はトイレの扉を開けると、一目散に奥から二番目の個室に入った。わざと周りを見ないようにしているようだった。ドアを閉めて、蓋の閉まった便座に座ると、彼は上を見上げて口をきゅっと閉じていた。じっと、今度は天井を見つめている。まるで何かを待つように――彼はずっと黙っていた。  違う、彼は本当に待っているんだ。  彼が何を待ち望んでいるのか僕にはわかった。だから僕は彼に話しかけた。 「また来たんだ」  僕が言うと、彼は一瞬、苦いものでも飲んだみたいに目を細めて――そして、ごくりと唾を飲み込んだ。しばらく逡巡するように口を動かし、そして言った。 「きみは」  声が少し震えている。 「きみは――誰?」  その声が、何か切実なものに思えて、僕は思わず返事に詰まる。 「僕は、ユズルっていうんだ」  僕はそう答えた。それが、彼の望んだ答えではないことは分かっていた――彼は別に、僕に名前を聞いたのではないことを。だけどそれが、もしかすると最も正しい答えだったのかも知れなかった。 「ゆず、る」 「そうだよ」  彼は少し黙って、言った。 「君は、いつもここにいるの? いつからここにいるの」  それは、ほとんど核心を突く問いかけだった。彼は僕が噂の幽霊か確かめようとしているのだ。彼の顔にも、瞳にも、怯えの色は宿っていなかった。だから、僕は答えた。 「そうだね、僕はいつもここにいるよ。ずっと、ここにいる」 「そう……なんだ」  彼は黙って俯いた。  僕も黙っていた。  しばらくそうやって時間が過ぎた。このまま彼は帰ってしまうかもしれない、そう思った矢先、彼は顔をあげて口を開いた。 「ねえ、万引きは悪いことだと思う?」  そう、急に問いかけてくる。その唐突な問いかけの真意が分からなかった。 「まあ、そりゃあ」  だから、濁すような返答しかできない。  彼は語り続けた。僕の返答なんてどうでも良かったのかもしれない。 「僕は見たんだ、あいつが万引きをするところを」  あいつとは誰だろう。そう思ったが、聞かなかった。彼は何かを話そうとしている。とにかく、今はたぶん、好きなだけ話をさせるのが良いのだろう。 「あいつは、――文庫本を万引きしたんだ。僕はちゃんと見ていた。新潮文庫の、芥川龍之介の本だった。薄かったから、あいつの鞄の脇ポケットにすっぽり収まった。あいつはそのまま、本屋を出て行ったんだ」  まるきり重大な秘密を打ち明けるときのような口調だった。 「僕はそれを、黙っていられなかった。黙っていても良いと思ったけど、僕はそれを打ち明けることにした――この学校のヒーローは、みんなの憧れのあいつは、万引きをしたんだって」  一息に話した彼は、いったんそこで話を区切った。そして小さな声で、付け足すようにぽつりと言った。 「……でも、誰も信じてくれなかった」  それきり、彼は黙った。  僕は彼が今理解した。  彼が学校でどういう目に遭っているのかも、少しかもしれないが想像できた。だから、どうしても聞かないわけにいかなかった。 「どうして告発なんてしたの」  責めるつもりはなかったが、どうしてもそういう感じになってしまった。僕は続けた。 「放っておけば良かったじゃないか、別に、自分のものが盗まれたわけでもないんだし」  それを聞いた彼は言った。 「僕は」  その眼には、訴えかけるような悲痛さが宿っていた。 「僕は、裏切られた気持ちだった」 「裏切り?」  僕には、彼の言うことがよく分からなかった。彼は一体何に裏切られたのだろう――そう思ったあと、何かのピースがカチリとハマる感触があった。  彼がなぜ、何に裏切られたと思ったのか。  僕は言う。 「憧れていたんだろ、彼に。学校のヒーローに、君は憧れを抱いていた。だから万引きする彼を見て、裏切られたと思った。そうだろう?」  僕の回答に、彼はゆるゆると首を振る。そして、小さな声で答えた。 「憧れてたんじゃないんだ」 「じゃあ、なんで……」  彼の顔が、初めてくしゃっと歪んだ。それはまるきり、耐えがたい痛みに耐えるような顔。痛みを感じる自分を恥じている顔。 「――好き、だったんだ」  予想外のその言葉に、僕は驚く。彼は念を押すようにいった。 「僕は、野宮亮平が好きだった」

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