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 少し晴れた気分でトイレを出る。  あいつと――ユズルと話していた時間は、思っていたより長かったようだ。いつの間にか、学校は昼休みに入っていた。  教室に向かって廊下を歩いていると、職員室から礼儀正しくお辞儀をして一人の生徒が現れた。  ぎゅっと、心が縮まった気がする。体が緊張する、僕は俯いて、こちらに向かって歩くその生徒をやり過ごそうとする。  ずんずんと距離が縮まる――目の前から歩いてくる、野宮亮平。その綺麗に伸びた背筋、しなやかな筋肉をまとった体、まっすぐ前を見る歩き方、堂々とした振る舞い。  だけど、僕は見たのだ。あの日、野宮が本屋で文庫本を万引きするところを。僕は知ってるんだ、野宮が本当は万引きをしたってことを。  彼は、僕のことなど気にも留めていない態度で僕の横をすっと通り過ぎる。あまりに呆気なく、あっさりとしたその通過。意識しているのは僕だけだと、いやでも理解させられる。  僕は嫌でも思い出してしまう――入学式、正しく咲いた桜の下で、初めて野宮を見たときのことを。その精悍で男らしい顔立ち、丁寧な物腰、僕の持っていないものを全部持っている彼に、僕は強く惹かれた。  僕は彼から目を離せなくなってしまった。じっと見つめ続ける僕に、彼は一瞬こちらを振り向いて、そしてすぐに目を離した。その動作はあまりにも自然で、彼が僕のことをどうとも思っていないことがありありとわかった。マイナスの感情さえ持っていない。彼の視線は、街中の電柱に向けるそれと同じだった。 それでも、僕は気がついたらあいつを目で追っていた。あいつが僕の世界の中心になった。  それは僕にとって、初めての恋なのかも知れなかった。僕は同じ教室で、視線の端に彼をなんとか留めながら日々を過ごした。直接見るのを憚られるほど、彼は眩しかった。だから、同じ教室にいる、同じ空気を吸っている、それだけで僕は満足していた。 「あいつは、僕とは違う世界の住人だった」  数日後、僕は再びトイレでユズルに話す。そもそもどういうきっかけで、僕はこの話をユズルにすることになったのだっただろうか? どうでもいい。僕はほとんどヤケになって、すべてをユズルに話していた。  どうせ相手は幽霊なのだから。  たぶん、そんな感じ。 「僕はあいつに近づくこともできなかった。あいつの周りには常に人が集まっていて、あいつはクラスの中心だった。成績優秀で、顔も良くて、人柄も良い。彼の周りに人が集まるのは当然だった」  僕は俯いて、自分の指を絡ませながら喋る。 「でも、それでよかった。だって僕は、そんな彼だから好きになったんだ。彼が僕にどんなに興味がなくても関係ない」  上履きに汚れがついている。僕はそれをぼんやり観察しながら話し続ける。 「だから僕は――あいつが万引きしているのを見たとき、裏切られたと思った」  僕はそう口にして、自分のこころの動きを改めて理解する。そうだ、僕はあれを見たとき、確かに気がしたのだった。僕の初めての恋を、あいつが、あいつ自身が傷付けたと思った。それは僕の、大切なものなのに。 「あいつは、僕を裏切った――だから僕は、あいつの万引きを告発した」  後から振り返れば、僕はあのとき、まさに彼が万引きをした直後に彼の腕を掴んでそれを告発すれば良かったのだろう。だけど僕にはそれができなかった。なぜだろう? 「僕は、別に正義感に駆られたわけでも、嫉妬心を晴らそうとしたわけでもないんだ」  結局僕は、翌日学校の職員室で担任にそれを告げたのだ。僕はたぶん、本当はそんなことをしても意味がないことはわかっていた。だけど僕は、言わずにはいられなかった、なぜなら僕は、 「返してしまいたかったんだ、あいつに……僕の、初恋を」  目の前の担任の困惑顔は、今でも焼き付くように覚えている。 「誰も信じてくれなかった。あいつがなんて話したのか、どういうことをしたのかを僕は知らない。それ以来、僕は周りに面倒臭いやつだと思われるようになった。あいつの取り巻きが僕に絡んできた。だから僕はそれが真実だと訴えた。本当にあいつは万引きをしたんだって、何度も言った。でも、誰も信じてくれなかった」  僕は、一度唾液を飲み込んだ。 「みんなが言った、お前は嘘をついてるんだろ、って。あいつがそんなことするわけない、あいつを妬んでるんだろ、って。みんながみんなそう言うから、僕はだんだん、自分でも自信がなくなってきた。僕があの日見たのは幻だったのかもしれないと思うくらいに。だって、世界でそれを知っているのが僕だけで、それを信じてくれるのも僕しかいないんだとしたら、それはもう、世界からすれば無かったみたいなものだろう?」  それは、僕がたどり着いた一つの真実だった。あの万引きは、もうこの世界になかったことになっている。  野宮の手が一冊の文庫本に伸び、躊躇なく鞄に押し込んだあの景色を、僕自身さえ信じられなくなってしまったように。  それはまるで、あの時僕が感じた悲しみも、憤りも、全部が嘘だったみたいだ。  だったら、本当のことってなんだろう? 「そんなことない。それは絶対になかったことにならない」  強く、ユズルが言った。 「なんで……」  僕の問いかけに、ユズルが答える。 「もう一人、それが真実だって知っている人間がいるだろう? 君よりも、誰よりも、彼はそれが真実だって知っている。彼だけはそれを疑うことができない。だからそれは、絶対になかったことにならない」  僕は薄暗いトイレの中、幽霊と話しながら目の前に電撃が走ったような気持ちだった。  そうか、そうじゃないか。  僕はその当たり前の事実に気づいていなかった。  そうだ、あれは絶対になかったことにならない。もう一人、それが真実だって知っている人間がいる。誰もそれを信じなかったとしても、だけはそれを疑うことができない。  だってそれは、彼自身がしたことなのだから。

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