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第1話

「ねぇ聞いた? あの染谷拓海が異動してくるんだって!」 「え、なんで地方に? あんなに活躍してたのに?」 「営業部だって〜!」  芦屋コーポレーションを本社に構えるこの地方支社は、かつて芦屋コーポレーションが大きくなる前の本社だったこともあり、オフィスビルのエントランスは広く設計されている。朝の時間には行き交う社員も多く、今日はなにやら女性社員が落ち着かないようだった。  そんな騒がしいエントランスを突っ切り、真木千歳は素知らぬ顔でエレベーターに向かっていた。 「真木課長、おはようございまーす」  真木の背後からやってきたのは、真木と同じ部署の佐々間であった。佐々間は主任であり、真木の直属の部下である。口は悪いがご愛嬌で、別の部署からも慕われている兄貴分だ。そんな佐々間を真木も信頼しているし、最近ではオフィスを任せることも多くなってきた。女性社員からは水面下で人気があるようだが、いかんせん口が悪くデリカシーもないため、残念ながら大々的に人気が出るようなことはないのだろう。 「おはようございます、佐々間くん。今日も眠たそうですね」 「昨日レク部でフットサルやって、まだ疲労が残ってるんですよね」  佐々間は上司の前というのに、我慢ができなかったのか、大きなあくびを漏らしていた。真木はまったく気にしていない様子で、むしろ微笑ましく佐々間を見守っている。 「はぁ……なんか今日うるさくないですか。ざわざわしてますね」 「佐々間主任、知らないんですか!」  やってきたエレベーターに乗った瞬間、乗り合わせた女性社員がぐるりと振り向く。  エレベーター内には真木と佐々間以外にも数名居るが、ほとんどが女性社員で、全員が二人にギラギラとした目を向けていた。いつもは穏やかな真木もそれには驚いたのか、珍しく目を丸くして戸惑っている。 「……な、なにをだよ」 「あの染谷拓海が異動してくるんです! ね、そうですよね真木課長!」 「染谷拓海ぃ? なーんでそんな有名人が?」  エレベーター内のすべての目を向けられて、真木が戸惑っていたのは少しの間だけだった。  すぐに「異動してきますねぇ」と苦笑を漏らせば、小さな箱の中はさらに騒がしい音で埋め尽くされた。  染谷拓海と言えば、大学卒業から芦屋コーポレーションのバレー実業団に所属し、日本代表にも選ばれている有名選手である。大学時代からすでに公式戦やオリンピックにも出場経験があり、スポーツ番組からたまにバラエティ番組、雑誌に掲載されるなど、バレー選手ということを知らない層からはタレントだと思われるほどの露出もあった。  身長は一九五センチ。スポーツ選手なだけあって体つきも良い。さらには芦屋コーポレーションの看板になるほど顔立ちも男前なものだから、二十五歳でノンスキャンダル、未婚ということもあり特に女性ファンが多い。  スマートフォンで染谷拓海を検索しながらオフィスにやってきた佐々間は、渋い顔のままスマートフォンをデスクに伏せた。 「はー、なんでそんな本社の有力選手がうちみたいな地方に? 絶対出社必要ない社員ですよね」  真木のデスクが一番近い佐々間は、うんざりとした様子で椅子に腰掛ける。真木はただにこにこと、まるで拗ねる子どもを見るような優しい顔を佐々間に向けてデスクに座った。 「まあまあ、いいことですよ。人手はいくらあっても足りませんから」 「そうかもしれませんけど……あれか、レク部の体育館があるからか?」 「ちょっと佐々間主任、嫉妬しないでくださいよ! 私たちは大歓迎です!」 「そうですよ! できるだけ出社してくれるようになりませんかね課長!」 「みんな染谷くんが好きなんですね」  佐々間の周りに集まってきた女性社員を、佐々間がしっしと手を揺らして追い払う。 「変な期待するだけ無駄だぞ。おまえたちには高嶺の花だ」 「分かってますよそんなこと!」 「ちょっと毎日拝みたいだけじゃないですか!」 「はー、染谷選手と同じ空気吸えるとかもうすでに毎日楽しいです!」 「やめろやめろ、何にも楽しくない。普段仕事してない奴が出社したりしてみろ、邪魔なだけだろ」  あ、と。その場に居た女性社員が動きを止める。全員が佐々間の背後を見ていた。しかし佐々間の視界に入る真木だけはにこやかである。とはいえ真木千歳という男が普段まったく動揺したり慌てたりしないと知っている佐々間は、この女性社員の反応でとてつもなく嫌な予感がした。 「おはようございます、染谷くん。ようこそ、営業部門第二課へ。迷子にならなくて良かったです」  おそるおそる佐々間が振り返ると、とんでもなくでかい男が、佐々間を冷たく見下ろしていた。  スーツを着ていても分かる体格に加え、男前の無表情はあまりにも迫力がある。 「きゃ、本物の染谷拓海だ〜!」  女性社員は小声ではしゃぎ、染谷から距離をとる。どうやら騒ぎはするが、積極的に声をかけるタイプではないらしい。  そんな女性社員を尻目に、真木は挨拶のため二人の元にやってきた。 「はじめまして、僕は課長の真木千歳です。彼が主任の佐々間肇くん」 「へえ、主任ですか。陰口がお好きなので平社員かと」  彼が発した一言目は、挨拶ではなくそれだった。佐々間の眉がピクリと揺れる。佐々間は普段ふざけたような態度ではあるが、実は一番礼儀にうるさい男である。しかし今回は佐々間から先に突っ掛かったのだが、そんな事情はとっくに棚に上げてしまったようだ。 「はあ? どっこが陰口だったんだよ。本当のことだろうが。人間、図星突かれると怒るよなぁ」  佐々間が立ち上がっても、身長差は十センチほどはあった。オフィスの面々が固唾を飲んで二人を見守る。 「どうとでも言ってください。同性からのやっかみには慣れてますから」 「あ? モテ男発言ですかコラ」 「そうやってすぐにモテるモテないに直結する脳味噌、どうにかなりませんか。俺からすれば迷惑です」 「二人はすっかり仲良しですね。染谷くんのデスクは佐々間くんの前になります。教育係は八代くんにお任せしますね」 「え! 自分ですか!?」 「はい。八代くん、もう一人前にお仕事できるじゃないですか」 「それはそうかもしれませんけど……」  教育係に指名された八代がちらりと染谷を見上げると、染谷は不快そうに刻んでいた眉間のシワをさらにぎゅっと深くした。しかし興味はないようで、すぐにつんと顔を背けて、先ほど教わったデスクに向かう。佐々間の前なため、真木からもよく見える位置である。  デスクにはパソコンとファイルが置かれていた。  染谷がデスクに来ると、染谷の隣の席である八代がおずおずと手を挙げる。 「課長、染谷は出社するんですか? 有名選手だから本社では出社なく練習してたって聞きましたけど……レク部の体育館使ったりするんですかね?」 「染谷くんには出社してもらいますよ。だから八代くんにお願いしたんです。知っていますか? 染谷くんは資料作成がとても得意なんです」 「そうは見えないけどなぁ」  突っかかる佐々間に、染谷はじろりと睨む目を向ける。 「ここは随分陰湿なんですね。本社とは大違いです。本社の社員は全員前向きで明るく、互いに切磋琢磨していましたけど」  染谷は次に、八代を横目に見た。 「俺が邪魔ならハッキリ言ってもらっていいですよ。初対面から感じ悪い人と、俺もうまくやれると思いませんし」  オフィスがしんと静まり返った。  先ほどまできゃあきゃあと密やかに騒いでいた女性社員でさえ、この場の空気に口を閉じている。男性社員は嫌そうにそっぽを向き、見えない火花が散っているようだ。  そんな中、やり取りを静観していた真木は、沈黙を裂くように手を一つ叩いた。 「大丈夫ですよ、染谷くん。みんないい人ばかりですから。きっと染谷くんもそのうち分かります。もちろん、みんなにも染谷くんの良さを知ってもらえますよ」  真木の言葉には誰も乗っからない。嫌な空気だけが漂っていた。 「ではお仕事しましょうか。染谷くんには社内の案内をしますから、着いてきてください」  オフィスから出ると、始業時間となっているからか、廊下はひどく静かだった。先ほどまで女性社員が騒いでいたから余計にそう思えるのだろう。二人の革靴の音が小さく響いている。 「ここがオフィスから一番近いトイレです。多目的トイレは少し離れたところにあって、このフロアの端っこにあります」  染谷は聞いているのかいないのか、返事をすることもなくぼんやりと真木について回る。 「タバコは吸いますか?」 「……普通に吸うわけないですね。バレーやってるんで」 「そうですか。じゃあ喫煙所は飛ばしますね」  真木はいつものように微笑み、マイペースに染谷の前を歩く。真木と目が合わないため感情までは読み取れないが、染谷の嫌味など通じていない様子なのは間違いない。そんな真木に聞こえるように、染谷は盛大なため息を吐いた。 「食堂は一階ですね。そうだ、エレベーターは東側のほうがいいですよ。西側より少しだけ速いんです」  そう言いながら、真木はエレベーターのボタンを押す。ここは東側のエレベーターだ。 「今は仕事の時間なので乗りやすいですが、出勤時間やお昼休憩にはこっちのエレベーターは人がいっぱいになるので気をつけてくださいね。一度で乗れないこともありますよ」 「あの」  エレベーターに乗り込むと、染谷はとうとうイラついたように口を開いた。 「俺、馴染むつもりとかないんで、放っといてもらえますか。邪魔だって思われてんのももう分かったんで。……正直、仲良くなるつもりもないですし、そもそも会社も辞めるつもりなんですよ」 「え、そうなんですか!?」  真木が驚愕のまま振り向けば、染谷はさらに不快さを滲ませて顔を歪める。 「鬱陶しいんですよ、あんたみたいな人が一番。人畜無害気取って周りと馴染ませようとして、俺がそんなに可哀想ですか。本当落ちぶれたもんですよね、こんな僻地に飛ばされて、田舎でまで馬鹿にされて」  ポーン、と音を立ててエレベーターが開く。  染谷が降りようと踏み出したとき、真木の手が振り上げられた。 「こら、そんなことを言わない」  一瞬、殴られると思った染谷だったが、その手は指を揃えたまま、緩やかな速度でポンと染谷の頭にチョップを落とした。  身長差はおそらく二十センチほど。そんな下から頭に触れられることなどなくて、染谷も思わず足を止める。 「染谷くんがどんな事情でここに来たか、どんな気持ちでここに居るのか、そんなことは知りません。染谷くんの事情で八つ当たりをされても困ります。僕たちはきみの敵ではありませんよ」 「……先に突っかかってきたのはそっちですけど?」 「そうですね、染谷くんの顔が怖かったから、みんなもつい威嚇をしてしまったのかもしれません」 「はあ?」  意味が分からない、とでも言いたげに顔を歪めた染谷を前に、真木は何事もなかったかのように「こっちが食堂です」とエレベーターを降りた。染谷も渋々それに続く。 「そうだ、実はうちには体育館があるので、レクリエーション活動というのをやっているんです。みんな自由に使える体育館で、火曜と木曜は佐々間くんがフットサルをやっているのでハーフコートを使うようになりますが、そのほかはみんな好きに使っています」  真木はちらりと染谷を見上げたが、染谷は興味もなさそうに顔を背けていた。しかし聞いていないわけでもなさそうで、真木はすぐに言葉を続ける。 「鍵は資料室で管理しています。鍵を借りるときには、近くに吊ってある名簿に名前と借りた時間、返した時間を記載してくださいね」  にこやかに告げられた真木の言葉には、染谷はあからさまなため息で返した。  染谷はそれからもビルを案内する真木を見ることなく、時折ため息を吐く。会社を辞めるとも言っていたからもう気も遣っていないのかもしれないが、真木は少々心配だった。 「そうだ、今日の終業後、染谷くんの歓迎会をしようと思っているんです」 「結構です。歓迎されてもいませんし、俺はそもそも酒飲まないので」  オフィスに入る直前で吐き捨てるように言うと、染谷は振り返ることなく、真木を置いてオフィスに戻った。  少しばかり固まっていた真木は、デスクに座って先輩からつんけんと指示を受ける染谷を見て、困ったように眉を下げた。

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