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第16話

    *  彼との昼食の待ち合わせは、オフィスビルの外でということになった。部外者である彼がオフィスにはいるのは目立つし、なぜか染谷は彼を敵視している。極力目立たないようにと考えた結果である。無事彼と合流した真木は、彼が「こっちに来たら行ってみたかったカフェ」とやらに連れて行かれた。真木が一人なら入らないような、少し年齢層の低いお洒落なカフェだった。 「ここは俺が出すよ。誘ったの俺だしね、好きなの食べて」 「ふふ、啓くんも立派になったね。じゃあ甘えさせてもらおうかなぁ」  どうせ二度と来ることのない店だからと、真木は食べたいものを素直に注文しておいた。彼は本当に食べられるのかと疑ってしまうほどの量を頼んでいたが、そういえば当時からよく食べていた記憶がある。そんなことを思い出した真木は、懐かしいなと注文する彼の姿を黙って見守っていた。 「ん? なに?」 「ううん、変わってないなと」  注文を取ってくれたスタッフを見送り、メニューを退ける。彼は照れくさそうに「これでも減ったほうだよ」と笑っていた。 「それで、どうしたの? 十年経って会いたかったって……何かあった?」  何を言われても受け入れる覚悟で問いかけたそれには、すぐには言葉は返らなかった。  明るい彼にしては珍しく、悩ましい表情を浮かべている。 「啓くん?」 「うん……純粋に元気にしてるのかなって思ったのは本当だよ」 「……うん、もちろん元気だよ」 「だけど職場は大変だっただろ?」  本社から出されるまでの一年、心無い噂話や好奇の目に晒された。彼は意識不明のときもあったし、あの頃は確かに、心身ともに疲れていた。 「どうだったかな。もうあんまり思い出せないや」 「そう、か……うん、思い出さなくていい。ごめんね、こんな話題出して」 「ううん。……僕もね、啓くんのこと気になってたから、会えて良かった」  真木が淡く微笑むと、彼も安堵したのか肩から力が抜けたようだった。 「実は……俺もずっと、頭の片隅に千歳さんが居て」  ゆっくり、伝え方を考えるような間を置きながら、彼は続ける。 「ほら、別れ方があんな感じだっただろ? 最後に見た千歳さん、すっごい泣いてたし、俺の手を払って怯えてさ、気がつけば俺のそばから居なくなってて……だからかな、ずっと千歳さんのことが頭から離れなかった」  やってきたスタッフが、いくつか料理を並べてすぐに立ち去る。爽やかに礼を告げた彼は、さっそく箸を手に取った。 「でもさ、会いたくても会いに来られなかった。今更俺が顔見せても泣かせるだけだよなとか、迷惑かなとか、そんなことばっか考えてさ。ずーっと頭ん中に千歳さんが住んでて、年々大きくなって」  彼の話を聞きながら、真木も食事を始める。 「最初は、好きだから忘れられないんだって思ってたんだ。だから千歳さんのために忘れないとって、何度も考えて……」 「ふふ、うん。僕と同じだ」 「え、うそ、シンクロしてた?」 「もっと早く会ってれば良かったね」  今だからこその会話に、彼も真木もくすくすと笑い合う。 「好きな人が出来たんだ。恋人にもなれた。だけどその子は俺が千歳さんのことを気にしてるのを気付いていて、自分のことを好きじゃないと思ってるみたい」 「そっか。ごめんね」 「千歳さんは悪くないよ。……俺がね、スッキリしたくて来た。もう千歳さんのことを考えなくていいように、笑った顔が見たかった」  事件当時、二人が再会したのは、彼が退院したときだった。彼はずっと病院で寝ていたから、当然真木の様子は分からなかった。だからこそ、久しぶりに会った真木がひどくやつれ、顔色も悪く泣き跡の残る顔をしていたのにはひどく驚愕した。  当時の真木には、彼の言葉は届かなかった。真木は自分を責めていたし、彼から離れようとしていた。真木を愛していた彼は、離れようとする真木をもちろん引き留めた。しかし真木は彼の手を振り払った。  そしてそのまま泣きながら別れてくれと懇願され、気がつけば真木は彼の前から消えていた。 「……僕も。啓くんのことずっと頭に残ってたよ。最後に見たのが傷ついた顔だったから……笑っていてほしいって思ってた」 「なんだ、ほんとにシンクロしてたんだ」 「そうみたい。……ごめんね、あんな一方的な別れ方して、気にさせてたよね」 「あの状況ならそうなるよ。たぶん、おれでもそうする。だって俺は、千歳さんの目の前で刺されたんだから」  ――十年前。  その日、真木はいつものように、仕事終わりに彼と合流して、二人で真木の家に帰っていた。年を越したら一緒に広いところに引っ越そうという約束もしていたし、二人でゆっくりと二人暮らしに最適な家を探している最中で、特に大きな喧嘩や倦怠期もなく、二人は仲良く過ごしていた。互いにこのまま生涯を過ごすことになるのだろうと思っていたからこそ、一緒に住む計画や、老後の話もしていたほどである。  だからその日も変わらず、一緒にご飯を食べて同じベッドで抱きしめ合って眠るのだろうと、いつもの日常を思い描いていた。  しかし、その日は真木の住むマンションに踏み入れる直前で、大きな声で呼び止められた。  呼び止めたのは、真木の部下の男だった。  真木の問いかけにも反応をしなかった男は、意味の分からないことを叫んだかと思えば、突然彼を二度刺した。  そこからは、あまり覚えていない。  真木は負傷して動けない彼を必死に守っていたし、部下も真木を傷つけることはできなかったのか、彼を守るように抱きしめる真木を罵倒するだけで刺すことはなかった。  真木は、無意識のうちにぎゅっと手を握り締める。 『おまえが悪いんだろ! おまえのせいで俺の人生が台無しだ! おまえが俺を誑かしたから!』  罵倒される中聞こえた部下のその言葉が、まるで呪いのように今も真木の中にある。 「……啓くんが、元気で良かった。また誰かを好きになっていて、本当に良かったよ」  一度箸を止め、噛み締めるようにつぶやく。 「ありがとう、千歳さん。……千歳さんは、好きな人はできた?」  一番に浮かんだのは、染谷の顔だった。  けれどこんなにも馬鹿な話はない。相手は有名な代表選手で、真木は一般人どころか男で染谷よりも一回り以上年上である。  真木はまた、誰かの人生を壊してしまうのか。 「いないよ。僕はもう恋愛はいいかなぁ。年齢も年齢だし、僕なんかには恋愛なんて贅沢だから」 「そんなことないと思うけど」 「優しいね、啓くん。……啓くんは、これで好きな人と進展できそう?」 「うん。なんかスッキリした。ありがとう。やっと向き合える気がする」  そう言って爽やかに笑った彼は、確かにどこかすっきりとしていて晴れやかだった。  彼は一週間ほど出張の期間を持っていたらしく、それからも頻繁に営業部を訪れた。基本的には彼からの案件を引き継いだ佐々間が対応しているため真木との関わりはあまりないが、それでもオフィスに来るたびににこやかに手を振る。その後佐々間と第一課に向かうのがいつもの流れである。  一度だけ、八代に「仲が良いんですね」と言われたため、「友人なんですよ」とだけ伝えておいた。それを染谷が聞いていたかは真木には分からないし、染谷が聞いていたかを気にしてしまう自分にも嫌気がさしてしまいそうだった。  ただ、染谷はあれ以来いつも通りだった。だからきっと真木の言葉に納得をしたのだろうと、真木はそう思っていた。   「顔がこえーぞ染谷くん」  がこん、という音で、染谷ははたと我に返る。  自動販売機の前。そこで買った緑茶を持ったまま動きを止めていたのだと、佐々間が缶コーヒーを買った音で気がついた。 「……お疲れ様です」 「お疲れ。おまえただでさえでけぇんだから、んなとこで突っ立っとくなよな」  佐々間はいつもの缶コーヒーを持ち、近くの長椅子に腰掛けた。ちらりと見えたラベルは微糖だったから、今度は文句も言わないのだろう。 「おまえさ、課長のこと好きだろ」  佐々間の言葉に、染谷は距離を置いて佐々間の隣に腰掛ける。 「佐々間さんからはそう見えますか」 「見える見える、めっちゃ見える。だっておまえ、宮下さんに敵意出し過ぎだろ。今も顔こえーし」 「……そうですか。やっぱりそうですよね」 「なんだよ自信ねえの?」 「いえ……俺もあの人のことが好きな認識なんですが、どうやらあの人は違うようで」 「…………は? なにおまえ、告ったの?」 「はい」  当たり前じゃないですか、とでも言いたげな表情に、佐々間は開いた口が塞がらない。 「いや、いやいやいや、オレ言ったよな? 部下で歳下なんか課長の地雷だって」 「言いましたね。だからなんですか? 俺はそんなことであの人を諦めないといけないんですか?」  そんな言い分に、佐々間の驚いた顔は今度、きゅっと訝しげに変わる。 「おまえって王様だな」 「意味が分かりませんが……でも、勘違いだと言われたので、そうなのかもしれないと思えてもきています。あの人があの男と関わっていて面白くないのはそうですが、それだけで恋と呼べるんですかね」 「面倒くせぇなぁ……別にいいんだよなんでも。相手を独り占めしたいとか、相手に触りたいとか思ったら恋なんじゃねぇの」  少しばかり考える素振りを見せた染谷が、ちらりと佐々間を一瞥する。 「なんだよ」 「いえ……応援したいのか諦めさせたいのか分からなくて面白いなと」 「ウゼェー、オレは課長が良けりゃどっちでもいいんだよ」 「……この間は諦めろと言っていたような気がしますが、今反対の反応をしているのは、状況が変わったからですかね」  しまった、と思ったときにはもう遅い。佐々間が返事をするよりも早く、染谷が「だっておかしいですよね」と続ける。 「俺が佐々間さんなら俺を諦めさせますよ。一貫して意見を曲げません。けどそれを曲げるとしたら、不意にあの人の気持ちを知ってしまったから、それを応援するためとか……」 「あーやめろやめろ。俺は人の恋愛には関わりたくねぇの。勝手に深読みすんな。オレは気まぐれなだけだ」 「でもさっきあの人が良かったらいいとか言っていましたし、俺の仮説は整合性も取れてます」 「気まぐれなだけだ!」  じっと佐々間を探るように見る染谷の目から、佐々間は必死に目をそらす。  しばらくそうしていたが、やがて諦めたのか、染谷は一つ深い息を吐いた。 「…………俺、明日から一週間も出張なんですよ」 「そりゃご苦労だな。練習に励めよ」 「宮下さんは明後日まで居ますよね。俺が見えない一日の間、佐々間さんに任せますから」 「おいやめろ、オレを共犯にすんな」 「……勘違いってなんでしょうね。こうやって心配するのも勘違いなんですかね。分からなくなってきました」  はぁ、とまたしてもため息を吐き出し、染谷は煩しげな顔をして立ち上がった。  佐々間はなんとなくぼんやりとその背中を見送る。染谷が恋に右往左往しているその姿に、ああ本当に童貞なんだなと、そんなことにやけに納得した。

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