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第15話

     *  染谷の異動が決まったからしっかりと引き継ぎをしてもらうようにと、真木から営業部第二課に伝えられたのは、それから翌々週の月曜のことだった。  佐々間には前週から伝えてあったので驚きはなさそうだったが、第二課は驚きに揺れていた。 「専務との話、結構すんなり進んだんですね」  佐々間の言葉に、真木はにっこりとうなずく。 「もちろんです。先週の時点で内部調整も出来たみたいなので」  染谷の正式な移動は二ヶ月後にはなるが、それまでに引き継ぎと、長期出張での練習への参加も始まる。染谷はこれから忙しくなるだろうけれど、それでもまたあのチームでバレーができるようになるのだからきっと許容できるだろう。 「染谷~! いっちゃうのか、そうか……でもそうだよな、絶対試合観に行くからな!」 「あたしも行くから! 新幹線飛ばしていくからね!」 「染谷くん居なくなったら大変だけど頑張るよ~!」 「はー、もう行っちゃうのか……いろいろあったけど、寂しいなぁ」  染谷のデスクに集まった社員たちが、こぞって染谷をもみくちゃにしながら言葉を残す。  しかし、 「それよりもみなさん、ファイルの把握とか整理整頓とか補充とか、これからは俺が居なくても怠らないでくださいね」  染谷がしらっと伝えると、全員が目をそらした。 「染谷! 引き継ぎは天瀬に頼んだよ」 「ちょっと八代さん! 僕一人はきついっす!」 「さーて、今日もお仕事がんばろーっと」 「いやー、染谷くんともうバレー出来ないのかぁ~」 「染谷が居ないと俺たちどうなるんだろうなぁ」  あはははは、と笑いながら、それぞれがデスクに戻っていく。  ますます不安だ。大丈夫だろうかと、そんなことを考えている染谷がふと真木を見れば、真木はにっこりと「大丈夫ですよ」と笑ってみせた。 「まあいいです……じゃあ八代さんから引き継ぎますね」 「どうか天瀬に」 「八代さんに引き継ぎます」 「……わ、分かったよ……染谷の最後の引き継ぎ、立派に受けるよ……」  みんながいつものように業務についたことを確認して、真木はさっそく資料室に鍵の確認に行くかとデスクを立った。  すると、そこを離れるより早く、オフィスの戸が開き、受付の女性が顔を出す。 「真木課長、お客様ですが……」 「あ、いたいた、千歳さん」  オフィス中の目が集まる。それは、真木が名前で呼ばれるなど滅多にないことだと分かっているからだ。 「……啓くん」  真木が小さくつぶやいた名前を聞いたのは、近くのデスクに居た佐々間と染谷だけだった。  染谷は聞き覚えのあるその名前に、もう一度入口に立つ男に目を向ける。  染谷よりも身長は低いが真木よりは高く、そして程よく筋肉のついた良い体つきをしている。年齢は染谷と真木の間くらいだろうか。やけに爽やかな見た目が鼻につく、異性に人気の高そうな男である。受付の女性ににこやかに礼を言って立ち去る姿に手を振っているが、あまりにも女慣れしている。 「あ、すみませんみなさん。来客なので少し外します。佐々間くん、何かあったら対応をお願いしますね」 「……了解でーす」  佐々間は意味深な目で真木を見ていたが、気付かない真木はそのまま男の元に向かった。  真木がやってくると、男は嬉しげに笑みをこぼす。先ほど受付嬢に向けていた笑顔とは明らかに違い、やけに甘やかなものである。 「久しぶり、千歳さん。少し話せない?」 「それなら会議室が空いてるから」 「えー、それでもいいけど、出来れば外でゆっくりしたいな」 「僕は仕事中なんだからわがまま言わないで。ほら、外に出て」 「はいはい」  目を細めて二人の様子を見ていた佐々間は、ダン! とデスクにファイルを置かれてようやく、隣に染谷が立っていることに気がついた。 「びびった、乱暴に置くなよ」 「あの人ですか?」  だいぶ言葉は端折っているが、佐々間には染谷が何を聞きたいのかがなんとなく分かった。  しかしそこまでの情報は佐々間にはない。おそらく、とか、たぶん、とかそのレベルの認識である。 「んー……知らねえ。そうなんじゃねえ?」 「なるほど……ところでこのファイル、三年保管用ファイルにしてもいいですか」 「あ、うん、いいよ。……ちなみに中身はすでに三年分の伝票?」 「いえ? これから仕分けます。俺が居なくなるまでに綺麗にしておかないと落ち着かないので」 「頼れる男だなぁ染谷ー……」  そんな、あの男と出て行った真木が気になって仕方ないみたいな顔をしていながら……なんだか涙が出てきそうな佐々間だったが、すぐにデスクに戻った染谷があまりにも普通だったから、やはり真木に惚れていると思ってたのは思い過ごしなのかもしれないなと、そんなことを考えていた。  オフィスがそんなふうにかすかに揺れていた頃、男を連れた真木は、空いている会議室にやってきていた。  コーヒーをいれて男の前に置くと、真木は正面に腰掛ける。 「ありがとう千歳さん」 「うん。……僕がここに居るって、よく分かったね」 「まあね。栄田さんだっけ、あの人に何回もアタックして教えてもらった」  前の電話では栄田は「教えない」と言っていたのに……人情深い栄田のことだ、何度も真木の居場所を聞きに来る彼に心打たれたのかもしれない。あるいは、真木の背を押したかったのか。 「千歳さんが元気そうで良かったよ」 「……啓くんは? 傷はもう痛くない?」 「もちろん! もう十年も前の傷だよ、痛くないって」  彼は穏やかに笑うと、コーヒーに口をつけた。  十年ぶりに会った宮下啓介は、当然ながら十年分しっかりと大人になっていた。  出会ったのは真木が二十三の頃、彼はまだ十九とうら若く、今からは考えられないほどつんけんしていたものである。それこそ異動してきたばかりの染谷のようだったなと、二人の態度が重なって思わず真木も笑みが漏れる。 「千歳さんはなんか、ちょっと大人になりすぎてるね」 「もう四十だからね。啓くんから見ればうんと大人だよ」 「そうじゃなく」  真木が不思議そうに首をかしげる。 「でっかい壁を作ることが自然になっちゃったね。昔はもっと無邪気に笑ってくれたけど」  そんなことを言うくせに、彼の表情は穏やかなものである。それでも真木はうまく笑えず、彼からパッと目をそらした。 「ごめんね、十年前。僕のせいで怖い思いをさせて」 「あー、そっか。ごめん、気にしたことなかった、その事件。別に千歳さんのせいじゃないし」  むしろそれしか話のネタはないのでは? と思いながらも上目に彼を見たのだが、彼は本当に「考えたことも無かった」というような顔をして目を丸くしていた。何やらぶつぶつと「そうか、それを話すのが普通だよな」「十年ぶりって難しいな」とつぶやいている。  しかし真木からすれば、今更彼が真木に話したいことがあるなど、あの事件の恨み言しかないのではと思って当然である。だからこそ会いたくなかったのもあるし、会わないほうが良いとも思っていた。 「そうだ、俺さ、仕事の話も持ってきたんだよ。システム開発なんだけど、ここの開発部に聞いたら営業で金額交渉とかしてほしいって回されてさ」 「そうなんだ。どんな内容?」 「この資料ベースに説明するね」  彼から資料を受け取りそれをぺらりとめくる。するとそんな真木を前に「あ、そうだ」と何かを思い出した彼は、カバンから名刺入れを取り出した。 「俺ね、今社長やってるんだよ、デザイン会社で」  差し出された名刺を受け取った真木は、そこにある「代表取締役社長」という文字を確かに見つけた。 「え! 啓くん、夢、叶えたの……」 「そう。十年前はペーペーのフリーランスだったけど、今は会社立ち上げて、社員もちょっとだけ雇えるようになった」 「すごい! おめでとう!」 「うん、ありがとう」  千歳さんなら喜んでくれると思ってたと、彼は心底嬉しそうに笑う。 「このシステムも、会社を大きくするために導入しようと思ってるんだよね。システム系の営業って千歳さんのところだった?」 「本来は隣の課だけど大丈夫。でも啓くん、本社に仕事頼んだほうがいいんじゃない? そっちのほうが何かあったときの対応早いよ」 「だって口実があったほうが会いやすいだろ?」  名刺を見ていた真木の目が、上目に彼に向けられる。 「会いたかったんだ、千歳さん。今は仕事の話でいいけど……良かったら、お昼ご飯とか一緒に食べに行かない?」 「……うん。分かった」  真木が会議室に連れて来たからだろう。彼は小一時間ほど仕事の話だけをして、またお昼に来るねと元気に帰っていった。  今更彼が、恨み言以外で真木に何の用事があるのだろうか。真木はそればかりが気になって仕方がない。  かつてとまったく雰囲気が変わらなかったからこそ、彼の行動がまったく読めなかった。 「佐々間くん」 「はーい」  オフィスに戻ると、真木はさっそく佐々間に声を掛けた。佐々間はくるりと椅子を回して振り向き、意味深な目を真木に向ける。 「システム導入の案件です。予算感は記載してあったので、第一課の柚木主任に連携してもらえますか?」 「……これ、さっきのあの人から?」 「はい」  何が気になるのか、佐々間は「ふーん」と資料を受け取る。  ふと染谷のデスクを見ると、そこには誰もいなかった。お手洗いで席を外したタイミングだったのかもしれない。 「じゃあよろしくお願いします」 「あれ、またどっか行くんですか」 「今朝の鍵チェックがまだだったので、資料室に。何か気になることがありましたか?」  何かを考えるようにちらりと目を上に向けた佐々間は、けれども「なんでもなかったです」とすぐにデスクに向いた。  言い淀むなど、佐々間にしては珍しい。そんなことを思いながらも、真木は資料室へと足を向ける。 (佐々間くんが自分のことを話すのなんか珍しいことでしたし……僕と話すのが気まずいんですかね……)  佐々間は存外繊細な男だから、あり得ないことではない。セックスフレンドを恋人だと偽っていたことを知られて気まずさを覚えていても不思議なことはないだろう。  悶々としながら資料室に入り、一番奥の壁にある鍵を確認する。体育館の鍵も揃っており、名簿にも不備はなかった。 「お疲れ様です」 「わあ! え、お疲れ様です!」  突如聞こえた声に思わず大きな声を出して振り向けば、資料室の棚の奥から、染谷が顔を出していた。 「驚かせてすみません、気付いていないのは分かっていたんですが」 「いえ、僕こそ気付かずすみません……資料の整理をしてくれていたんですね……」 「まあ、はい。資料室にあるうちの課の資料にも、何十年も前の廃棄分が残されていたので」 「ありがとうございます。染谷くんは監査とかも向いているかもしれませんね」 「ここの人たちがだらしないだけですよ」  奥に引っ込んだ染谷は手を動かし始めたのか、ファイルを開閉する音や紙の擦れる音が届く。 「あの人はもういいんですか?」  資料室を出ようと踏み出した真木は、突然の話題転換に一瞬足を止めた。 「あの人……ああ、先ほどの宮下くんのことですか?」 「啓くんって呼んでもいいですよ別に。元カレなんですよねあの人」  なぜそんなことを知っているのかと、真木の沈黙からそんな疑問を感じたのか、染谷は淡々と「前に酔っ払って言ったことありましたよ」と伝える。 「すみません、とんだ醜態を……」 「あの人が刺された人ですか?」 「……まあ、はい」 「へぇ……今更、あんたを追いかけてここまで?」  次から次に質問を投げられて、真木はなんだか居た堪れなくなってきた。  なにせ元恋人のことで、十年前に警察沙汰にもなった、わりと大きな事件で別れた相手だ。あまり真木がしゃべらないほうが良いこともあるのだろうし、なかなか難しい話題である。 「お仕事の話をしに来てくれたみたいですよ。さっき佐々間くんに引き継ぎました」 「本社に頼ればいいのにわざわざこんなところまで?」 「……やけに突っかかりますね。何か嫌なことでもありましたか? 体調が悪いとか」  棚からひょこりと染谷を覗くが、染谷は至って普通に手を動かしているだけである。真木を見てもいない。体調が悪いということもなさそうだった。 「……あんたの元カレが現れてモヤモヤするのって、恋とは違うんですか」  まだその話題は続いていたのかと、真木はひゅっと息をのんだ。 「モヤモヤってか……ムカムカ? 分からないんですけど……」 「染谷くん、一回そのことを考えないようにしたほうがいいですよ。ほら、お伝えしたように、感情が引っ張られているだけなので、ただの勘違いです」 「……それって、何を根拠に言ってます?」  ピタリと、染谷の手が止まった。  やがて振り向いた染谷の目には、ほんの少し剣が募っている。 「勘違いとかって、何の根拠があって判断してんですか。否定するってことは何かあるんですよね」 「……それは……ほら、染谷くんは周りに綺麗な女の子がたくさん居ますし、その中で僕みたいな歳上の男を好きになるわけがないじゃないですか。絶対に勘違いですよ」 「じゃあなんで俺、こんなにあの男にムカついてんですかね」 「……おそらく染谷くんは、彼みたいなタイプがあまり好きではない可能性があります」 「まあそれもありますけど」  まだ納得していない様子の染谷は、じっと真っ直ぐに真木を見ていた。 「そんなに俺があんたを好きだと迷惑ですか」 「え、いえ、迷惑とかでは……ただ、染谷くんが後悔する前に、今のうちにきちんと正しておくべきかなと……」 「なんだそれ、俺があんたを好きになることを、俺が後悔するってことですか? そもそも、なんで俺があんたを好きになることがありえないんですか」 「ですから僕は男で歳上ですし……」 「あの男もあんたより歳は下でしょう。それなのになんであいつは否定されずに恋人になれて、俺は否定されるんですか」  どうして今日に限ってこんなにぶつかってくるのかは分からないが、きっと恋をしたことがないから不安なのだろう。  女性を好きになったならともかく、初恋だと思ったら相手は男でおじさんである。混乱するのも当然だと、真木はぐっと拳に力を込めた。 「染谷くんにきちんとした好きな相手ができたら分かります。僕に対するものは間違いだったと……ですから今は……」 「あいつとより戻すんですか」  被せ気味に問いかけられ、真木は思わぬ内容に目を瞬く。  関係を戻すことなど考えてもいなかった。なにせもう十年も前の恋心である。彼からも「会いたかった」とは言われたが、恋愛的な意味は感じ取れなかった。  そもそも関係を戻すために会いに来るのなら、十年も放置はしないだろう。 「いえ、それはないですが……」 「どうですかね。あんたはそう思っていても、相手は分かりませんから」  はぁ、と深いため息を吐いて、染谷はむしゃくしゃをぶつけるように資料の整理を始めた。  なんだか出会った頃の染谷のようだ。あのときも染谷は、眉間にシワを作り、何度もため息を吐いていた。 「染谷くん、おっぱい好きでしょう?」 「…………はあ? なんですかいきなり」 「アダルトビデオも観るでしょう? 男女モノの。好きなジャンルとかあると思うんですけど……」 「猥談ですか? 意外ですね」 「そうではなく。……あのね、男にはおっぱいはないんですよ。男の体は柔らかくもありません。繋がる場所も女性とは違います。声も高くありませんし、手を握っても無骨です」  染谷は一旦話を聞いているのか、何も言わずに手を動かしている。 「恋をするって、綺麗なことばかりではありませんよ。たとえばお付き合いをしてね、好きだったら相手に触れたいと思います。染谷くんはそもそも、僕に触れたいと思いますか?」  絶対に思っていないだろうと確信をして聞いてみれば、染谷がようやく振り向いた。その目から感情は読めない。ただじっと真木を見ているだけである。 「思わないでしょう。たとえ今思ったとして、実際に裸を見たり、触ってみるとその違和感に目が覚めます。そこで後悔するのは染谷くん自身ですよ。僕は染谷くんにはそんな気持ちになってほしくないんです。だから事前に勘違いだと教えています」  納得したのか、染谷は何も言わなかった。ようやく分かってくれたかと軽く息を吐き、真木は「分かってくれたなら良かった」と資料室の扉に手をかける。  オフィスに戻るかと開けようとしたところで、染谷が真木に問いかけた。 「あんたはあの男に抱かれてたってことですか?」  まさかそんなことを聞かれるとは思ってもいなかった真木は、扉を開けながら眉を下げる。 「それこそ猥談ですね。恋人関係で五年も一緒にいたんですから、察してください」

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