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第18話

   *  それじゃあまた会おうねと、にこやかに笑う宮下を見送ったのは、少し前のことだった。  今日で宮下の出張が終わる。だから最後にと終業後に食事をしていたのだが、結局終電ギリギリとなってしまった。  宮下を駅まで見送った真木は、足早に社宅へと足を向けた。  今日から染谷が一週間の出張と称して本社に戻っている。今頃楽しく練習をしている頃かなと、そんなことを思えば、自然と笑みが漏れていた。  実は昼間、栄田から連絡が来ていた。まだ出張扱いではあるが、染谷が練習に戻るということを知って、真木に礼を伝えたかったようだ。 『真木のおかげだ。本当に、そこに異動をさせて正解だった。……ありがとう。辛いこともあったと思うが、助かった』  少し声を震わせながらそう告げた栄田は、最後には「真木も本社に戻ってくることをぜひ検討してくれ」といつものように伝え、通話を終えた。  染谷も栄田も、営業部第二課の社員も、バレーのチームメイトたちもみんなハッピーエンドを迎えた。真木はそれを目指していたし、それで満足するはずだった。  それなのに、真木の胸の奥に、ぽっかりと空いた穴がある。  染谷ともう会えなくなる未来が寂しいという、誰にとっても邪魔な感情だった。 (ダメだなぁ……僕は、染谷くんにバレーをしてほしいのに……)  いつからというならきっと、染谷が真木と本社でぶつかったあの日からすでに、真木は間違え始めていたのだろう。  家に帰った真木は、何よりも先に風呂に入った。もう眠ってしまいたかった。眠ればすっきりすると思えたからだ。  眠ればすぐに明日になる。そうすればまた真木は上司の顔をして出社するだろう。いつも通りの日常だ。染谷が異動する前の日々に戻るだけである。そうしなければと考えながら、風呂を出た真木はすぐに寝室に向かおうとしたのだが。  ピンポーン、と、玄関のベルが鳴った。  オートロックの音ではない。玄関のベルの音である。真木はオートロックを解除した記憶がないから、誰かがすり抜けて入ってきたということだ。  しかし来客の予定はないはず……そんなことを考えていると、もう一度間延びした音が響く。 「はい」  おそるおそる声をかければ、外の空気が揺れた気配がした。 「真木さん、俺です」 「え! 染谷くん!?」  ここに居るはずのない人物の声がして、真木は慌てて玄関を開けた。  すると、真木を見てホッとする染谷が一瞬見えたのも束の間、部屋の中に押し戻されるようにして押し寄せた染谷に抱きしめられ、真木はピタリと動きを止める。  バタン、と玄関が閉じた。今何が起きているのかと、真木は状況を考えながらも、ひとまず施錠をしっかりとしておいた。 「はー、会えてよかった。泣いてないですか?」  一度強く抱きしめたかと思えばすぐに少しだけ距離を置いて、染谷はそっと真木の頬を両手で包み込む。  至近距離で覗き込まれて、真木はとっさに染谷の体を押し返した。 「ちょ! っと、なんですかいきなり! 染谷くん、出張に行ったはずでは……」 「……行きましたよ、けどあんたに伝えないといけないことがあって、戻ってきました」 「……え? いえ、だけどバレーが最優先ですから、別に電話でも……」 「よくないです」  ぐっと、染谷が一歩距離を詰める。真木は同じほど足を引いたが、すぐに廊下の壁に背がぶつかり、それ以上は下がれない。 「俺、真木さんが好きです」  まさかそんなことを言われるとは思ってもいなかった真木は、言葉を返すことも出来ずに目をまん丸にしていた。 「絶対に勘違いじゃありませんよ。真木さんと元カレが一緒に居るのは面白くなかったし、イライラしました。それに、試合観に来たことないって言いながら、昔俺たちの試合観て泣いてましたよね。そんでそのあと再会してます。あのときのことを思い出して、めちゃくちゃ胸が痛いんですけど、これって恋ですよね」 「……え、ま、ちが……どうしてそれ……」 「俺が最初にサーブ打ったときに泣いたのも、試合を観て泣いた理由と同じですか。ほとんど願望ですけど、もしそうなら嬉しいです」 「まっ……待って、ついていけなくて……あの、どうしてそれ覚えて……」 「チームメイトが覚えてました。……俺も別に忘れていたわけじゃありませんよ。ただ、昔の真木さんと今の真木さんが違いすぎていて分からなかっただけです」  真木のすぐ目の前に、染谷の肩がある。さらに染谷は身を屈めて真木に顔を近づけているし、こんなにも近い距離まで追い詰められては落ち着かなくて、真木はうつむくことしかできなかった。 「ま、まぁ、あれから結構経って僕も歳をとったから……というか染谷くん、近い。あの、少し離れて話しませんか」 「年齢じゃない。あのときの真木さんはもっと壁が薄くて無防備だった。今は自分を守りすぎて、本当の顔が分からないだけです」  真木の頬に染谷の手が触れ、真木は思わず上目に染谷を見上げる。 「これからは俺がずっとそばに居るから、本当の真木さんの気持ちを教えてくれませんか。もし真木さんが俺のことを迷惑だって思うなら、二度と告白なんかしません」  重たい間が落ちる。  真木はふと目を伏せたが、すぐにするりと染谷の腕の中から抜けた。 「玄関先では冷えるので、中にどうぞ」  それは、完璧に繕われた上司の顔だった。  染谷はぐっと拳を握り締め、リビングへと向かう。染谷がソファに座ると、二人分のコーヒーをのんびりと淹れた真木は、少し離れて隣に腰掛けた。染谷と佐々間ほどではないが、その距離感らあまりにもどかしい。しかし染谷は何も言わず、真木の言葉を沈黙でうながす。 「何年前でしたかね、本社で染谷くんと初めて会ったの」  話し始めた真木の穏やかな横顔を見て安堵した染谷は、ひとまず染谷の前に置かれたマグカップに口をつけた。 「……あの頃の僕は本当にどうしようもなくて、何もかもが嫌になっていた時期だったんです。生涯を過ごすつもりだった啓くんとは事件以来お別れして、周囲からは好奇の視線に晒されて、心無い噂話ばかりが一人歩きして……染谷くんとぶつかったあの日も、実は泣きそうになっていました」  当時のことを思い出そうとするが、染谷の記憶に細かな情報は残されていない。正直なところ「試合で泣いていた人と再会した」という大雑把な記憶しかなく、だからこそ真木の言葉に「そうだったんですね」としか返せなかった。 「だけど染谷くんはね、バレーが楽しいと言って笑っていました。最後にはもう泣いていないかと気にもかけてくれて。……僕、そんな染谷くんを前にして、ああこの人は本当に僕の光なんだと確信したんです」  ことん、とマグカップをテーブルに戻し、染谷はぎゅっと眉を寄せた。 「だからなんですか。俺とは付き合えないって?」 「……結論から言えばそうですね。僕は染谷くんの邪魔をしたくないんです」 「……なんですかそれ」  染谷は勢いよく立ち上がると、玄関へと行ってしまった。帰るのならそれも良いだろうと真木は追わなかったのだが、染谷はすぐに紙の束を持ってリビングに戻ってくる。  どさりと、やけに重たい音を立てて、ローテーブルにそれが置かれた。 「邪魔したくないとか、邪魔になるからとか、そんなことばっかここにも書いてましたね。俺が告白してからは謝ってばかりで」 「これ……どうして染谷くんが……」 「俺はあんたのことを邪魔だなんて思ってませんし、これからも思いません。ていうか真木さん、俺にバレー楽しんでほしいとか、また笑ってほしいとかそんなことばっか書いてましたけど、絶対俺のこと好きですよね? じゃあ今ってチャンスなんじゃないんですか?」 「ちが……待って、これは違う、あのね、これはただの報告書で、だから私情とかは全然なくて……」 「俺があんたを不安にさせてるなら、俺はあとどうしたらあんたを安心させられる? 俺はどうすれば、あんたの恋人になれるんだよ」  染谷は真木のすぐ隣まで距離を詰めると、感情のままに肩を抱き寄せた。  想像よりも細い肩だ。けれど女性ほど柔らかいわけではない。染谷はぐっと険しい表情を浮かべ、真木を抱き込むように腕の中に閉じ込める。 「ちょ、あの、染谷く……」 「俺、あんたに男の体は女と違うって言われて、めちゃくちゃ考えました。あのあとずっと、あんたのこと抱けるのかって真剣に考えて、抜いたんですよ」 「…………は? え?」 「だから、あんたをオカズに抜いた。普通に勃ちましたし、余裕でしたよ。今も……確かに女よりは固いし明らかに男の体ですけど、全然気にならないというか、むしろ普段の想像もあってやばいというか……」  ぎゅうと強く抱き込まれて、真木はさらに染谷の体温を強く覚える。心臓の音が早い。それは真木だけでなく、触れ合っている染谷の肌からも感じられた。 「……言わないほうが後悔するってくらい好きです。これが恋だって確信したんで、もう一度告白しに来ました」  前の告白とは違う。明確に好意を感じるその言葉に、真木はとっさには何も言えなかった。  指先が震える。応えてしまいそうだ。この背中を抱きしめ返せばきっと、染谷も喜ぶのだろう。  だけどそれで良いのだろうか。  染谷は、真木に狂わされたのではないか? 「…………僕、僕は、きみの邪魔になりたくないよ」 「っ、だから!」  抱きしめていた距離を勢いよく開ければ、うつむいた真木の目から涙が流れているのが見えた。  そんな光景に、染谷はぎくりと動きを止める。 「僕、もう好きな人の邪魔をしたくないんだ。啓くんは、自分だけのデザイン会社を持つことが夢だった。だけどあんな事件があったから、もうちょっとで掴めた夢を一度諦めた。僕が部下をおかしくしちゃったから、啓くんにも、部下にも、会社にもみんなに迷惑をかけて、僕が、邪魔をしたからっ……」  正直、ああいう人の扱いって難しいんだよな。一応被害者になるんだろ? 外野からしてみれば、ただの加害者じゃん。あいつ、男を好きになるような奴じゃなかったのに、人生狂わされて可哀想にな。  そんなふうに言っているのを、何度となく社内で耳にした。  事件を起こした部下には女の恋人がいた。けれど真木を好きになったからと言って別れ、その後から行動がおかしくなっていった。部下は男を好きになる男ではなかった。部外者から見れば、男を好きになる真木が部下を弄ばなければ、こんなことにはならなかったということなのだろう。 「もういいよ、みんな幸せなんだ。染谷くんがバレーを始めて、染谷くんも、うちの社員も、栄田専務だって喜んでた。きっと本社の社員も、顔も知らないファンだってすごく喜ぶよ。それでいいんだよ、みんな幸せなんだから。……もう、いいんだよ」 「……俺の幸せを勝手に決めるなよ。それに、あんたの幸せは? あんたは俺が好きなんだろ? じゃあ俺の恋人になって、あんたも幸せになればいいだろ!」 「男の僕が恋人に? ……なれるわけがないだろ! きみにこんな男の、それもうんと歳上の恋人がいるなんてとんだ醜聞だ。きみの邪魔になる、またきみがバレーを楽しめなくなるから……!」  言い終えるよりも早く、染谷は真木の頬に手を置くと、強く引き寄せた。  ぶつかるような勢いのあったそれは、唇が触れ合う直前で失速し、存外優しいキスに変わる。 「今度はぶつけなかった」 「……へ?」 「てか、俺があんたにフラれたほうがバレー楽しめなくなるとかは考えないんですか」  そんなことを考えたこともなかった真木は、真っ青な顔で目を見開いた。その反応を見て、染谷はあからさまに残念そうな表情を浮かべる。 「あー、やる気なくなってきた。真木さんが臆病なせいで両思いなのにフラれて、俺はこれから真木さんが知らない男と幸せになるのを見せつけられるのかぁ……練習に復帰しようと思ったけど、こんな状態じゃ試合にも勝てそうにない」 「まっ! ちが、え! だ、だけど僕……あの……僕なんかにそんな価値はないから、きっと染谷くんにはすぐにいい人が……」 「俺が好きなのはあんたなんだけど?」 「うっ……でも僕、きみよりひと回り以上歳上の男で……きみにはもっと若くて綺麗な女性が……」 「俺はあんたが欲しいって言ってる」  さらりと頬を撫でられて、真木は思わず目を伏せた。 「好きだよ、真木さん。俺と恋人になってほしい」 「……だけど……」 「今聞きたいのは、真木さんがどうしたいかだけ」  自分はまた、恋愛をしても良いのだろうか。  真木はただ、混乱する頭の片隅でそんなことを考える。  相手は世間でも有名なバレー選手だ。真木の存在が邪魔になることは間違いないだろう。けれども真木がここで断ったせいで試合に負けるなど、それこそあってはならないことである。  真木は彼を受け入れてもいいのか。  彼が飽きるまでなら、それまでなら夢を見ても良いだろうか。 「……僕も、染谷くんが好き」  ポツリとつぶやいた言葉は、しっかりと染谷の耳にも届いた。

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