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推しを怒らせてしまいました
婚姻契約書を交わしたのは、屋敷へと来てから三日が経った頃だった。
その間聖地巡礼と称して屋敷を見て回ったり、部屋でのんびりと過ごしていたノエル。久しぶりの推しの尊顔に、口角を下げるのが大変だ。
「ここにサインをしろ」
「これでいいですか?」
執務室の席に腰掛けながら、契約書に名前を書いて手渡す。ネイトはそれを数秒見つめたあと、同じように羽根ペンでサインを書いた。眉間にシワが寄っているのは、本人の心がペン先に乗っていないからだろう。
「俺、大好きな人がいるんです」
「……突然なんだ。契約書は交した。強力な契約の魔術が込められているから撤回はできない」
「わかってます。ただ、知ってほしいんです。俺は大好きな人に幸せになってほしい。我慢なんてしないでほしい。でもそれは難しいってわかってるから、俺と居るときだけでも本当の気持ちを聞かせてほしいんです」
ネイトはずっと誰にも気持ちを伝えずに生きてきた。エアリスにさえも本当の心を伝えないままだ。ゲームの設定、ユーザーを楽しませるための二番手キャラ。わかっていても、そんなの寂しい。
それに今この瞬間は、ノエルにとっての現実だ。現実はゲームとは違う。自分の気持ちに従っても許される。
「政略結婚でお互いに気持ちはないかもしれません。それでも、夫夫ふうふになったんだから、俺はネイト様となんでも気軽に話せる友達みたいな関係になりたいんです」
笑顔で気持ちを伝えてみる。
まずは気持ちを伝え合うことから始めたかった。ノエルはネイトに恋愛感情を求めてはいない。ただ気持ちに寄り添いたいだけだ。
「言ったはずだろう。私になにも求めるなと。私からもお前になにかを求めるつもりはない」
「でもっ……」
会話を続けようとするも、ネイトが椅子から立ち上がったことで言葉が途切れてしまう。仕事用の卓へと戻ったネイトは、それ以上話をする気がないのかノエルの方を見てくれることはなかった。
「晩御飯は一緒に食べませんか?」
「忙しい。勝手に取っておけ」
「でも、ほらっ!それなら俺がネイト様に合わせて……」
カンッとペンが置かれる音が、やけに大きく部屋に響いた。怒りを含んだオッドアイが、ノエルのことを睨みつけてくる。
怒らせたのだと気がついたノエルは、慌てて口を閉ざす。
「何度も言わせるな。私はお前に必要以上の干渉を許していない。わかったなら部屋に戻れ。不愉快だ」
ネイトの言葉に圧倒される。
思わず逃げるように執務室を出ると、部屋に戻りまだ揺れている思考を整えた。
(っ、恥ずかしい……勘違いしてた)
どこかゲームの感覚が抜けていなかったのだとようやく気がついた。ノエルはエアリスではない。わかっていたはずなのに、ネイトの心の柔らかい部分に土足で踏み込もうとしてしまった。
彼の気持ちをわかったつもりでいたけれど、本当はなにもわかってなどいなかった。
ネイトが怒るのも無理はない。エアリスは結婚式を上げたばかりだ。そこにしたくもない婚姻が重なった。平気なふりをしていても、ネイトの心は荒れているだろう。
今すぐにでも部屋を出て謝りたい。
けれど、そんなことをしたらまた怒らせてしまう。ネイトを傷つけたくはない。それなら、今は大人しくしておくしかないだろう。
「反省だな……」
呟くと、そのままの格好でベッドへと転がる。
前途は多難だ。それでもまだお互いの関係は始まったばかり。へこたれたりなどできない。
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