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第19話
「早かったじゃん。タヒチつまんなかったのかよ」
そう三上が訊くと、車の鍵を受け取りながら光井は、不服そうに肩をすくめた。
「乗ってたタクシーが事故ってさ。たいしたことなかったのに母親がもう嫌だ帰りたいとか言い出してよ。一緒に行ってた姉ちゃんとか従兄は残って遊んでくっつったけど、俺はもうめんどくせえからいいかと思って、帰ってきた」
「そりゃ大変だったな」
光井の帰国は、予定ではあと三日ほど先だった。
昨日じゃなくて良かった、と思う。昨日なら、帰れなかった。
今朝、目を覚ましたとき、三上は体中の痛みで動けなかった。とりわけ、下半身が。
普段はとらないような体勢をとったせいで関節は痛いし、普段は入れないようなところに入れたせいで後ろがじんじんと痛む。結局、ほとんどナオに任せた。荷物を運ばせ、チェックアウトもやらせた。三上と違ってナオはやたら元気で晴れ晴れとした顔をしている。そりゃそうだろうと思う。あんなにやりたい放題やったのだから。
だから三上は遠慮なくナオを使い、文句を言った。
「あー、マジ痛え」
さすがに運転はさせられないから三上がハンドルを握り、そう言ってやるとナオは申し訳なさそうにうなだれた。
「……すみません」
でも謝りながら、車内ではずっとご機嫌だった。
光井からの帰国を報せるメッセージは、ナオを家に送った後で気づいた。
「それで、どうだったよ。昨日行ったんだろ、例の男子中学生と、海へさ」
車体にもたれて光井は言った。厳密に言うともう、ナオは中学生ではない。でもそんなことはどうでもいいことだ。
光井は実家だったが、駐車場は足りないので別に借りてあった。駅の近くの高架下で、人通りは少ない。
「ああ、まあな。行ったよ。浜辺をぶらぶらして、メシ食って」
「思い出づくりはできたか」
「たぶんな」
「まあ何にもなくて良かったよ。キスなんて要求してきたわりに、純情な少年だったというわけだな。一緒に砂浜歩いて満足なんてさ」
「そうだな」
土砂崩れは午前中のうちに撤去されていた。だからさほど大きなニュースにもなっておらず、三上が帰れなかったことを隠しておいても光井に知られることはきっとないだろう。一緒に泊まってきたなんて言ったら、何を追求されるかわからない。
「まあ助かったよ。車。ありがとな。今度また何か奢るわ」
「おう。俺も土産持ってくんの忘れたからさ、大学で渡すな」
じゃあな、と足を踏み出したとたん三上は、腰に痛みが走ってがくん、とよろけた。
「おいっ」
つんのめりそうになるのを光井に支えられる。
「あ、悪い」
どこに力を入れれば局部が痛むのか、まだうまくつかめていない。駅がすぐそこだとはいえ、果たして無事家まで帰れるだろうかと不安になる。こんな症状がおまけについてくるなんて想定外だった。
「……おまえ」
「ん?」
まだ三上の肩をつかんだままだった光井が、不審そうな目を向けてきた。
「まさか、ヤられた?」
「は?」
動揺を、三上は押し隠した。
「なわけねえだろ。なんでそんなことになるんだよ」
「じゃなんで腰押さえてんだよ」
「これは、すっ転んだんだよ。海の、駐車場でさ。急に雨降ってきたから」
ふうん、と光井はまだ、訝しげな顔をしている。なんでこいつはそんなに勘がいいんだか。三上は半ば呆れる。
「怪しんでんじゃねえよ。俺があんなガキにヤられるわけねえだろうが」
「まあ、だろうけど。だよな。ヤられるわけねえよな。男子中学生に」
「もう高校生だけどな」
「え、高校生になったからヤられたのか?」
「いい加減にしろって」
これ以上突っこまれる前に、三上は光井を振り切って駅へ向かった。ときおり痛みが走っても気力でこらえる。
あちこちが痛むたび、あれが現実だったんだと思わずにいられない。童貞を捨てたときだってこんな感情にはならなかった。こんなもんか、と思っただけだ。
こんなもん、どころではない。全身がバラバラになりそうだったし、変なところへ行ってしまいそうだった。
まいったな。
宵闇が迫ってくる道を歩きながら、三上は車内での会話を思い出す。
「ね、先生」
「んー?」
「あのさ」
「んだよ」
「また会ってくれる?」
「あ?」
「今度、先生んち行ってもいい?」
横目に見たナオの顔は、期待に満ちていた。こういうの、ちょっと裏切ってやりたくなる。
でも、それだとちょっと、優しくない。
しかたねえなあ。そう思って、
「……ま、いいけど」
ちょっと優しくしてやった。
でも、と三上はひるむ。
家に来るってことは、そういうことだよな。
絶対、ヤるよな。
また、あんな感じになるのか。あんな、わけわかんない感じに。
ちょっと、怖ェな。
でも、ヤるんだろうな。
痛いのはもうごめんだから、なんかローション的なものがいる。ゴムは、家にまだあったはずだ。
それから。
あいつはビールが苦手みたいだから、なんか甘いやつを買っておいてやろうか。
春に浮かれたナオはすぐにでも家に来たいと言うだろう。でもさすがにすぐは無理だ。体がきつい。それに準備もいるし。覚悟もいるし。
夕刻の涼しい風が向かいから吹いてきて、顔を上げた三上の耳元をさらりと抜けていった。
ー 了 ー
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