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第1話

「……ぇ?」  佐藤秋生(さとうあきお)は、開いたメールに声を漏らした。  早朝の静まりかえった社内で戸惑いが大きく響く。動揺から生まれた椅子の軋む音が続く。  しばし眺めるが内容は変わらず、では眼鏡の不調かとレンズを拭いてかけ直し、だが変化のない文字の羅列に、幻覚ではなかったと佐藤は頭を抱える。  そこには時期はずれの人事が記載されていた。それはいい。事前に上司から、補佐である佐藤にも知らされていた。問題はその人物だ。 「……横山かぁ」  横山蒼(よこやまあお)。  久しぶりに口にした名前に苦みが走る。彼が出国して二年、いや三年か。長いようで、思いのほか早く訪れた再会だった。  顔を覆って詰めていた息を、ゆっくりと吐く。  彼が出国する直前までは、どちらかといえば仲良くしていた。十離れている年齢を感じさせず、なつかれたし可愛がった記憶もある。  あれは、どこだったか。  口元に手を当てて目を細め、当時に意識をとばす。  確か互いにほろ酔いの、どこにでもある大衆居酒屋の一角。 『――佐藤さん』 『ん?』  徳利からお猪口に最後の一滴を垂らしつつ、見上げた先の顔に佐藤は息をのんだ。その、思いのほか真摯な表情に。輪郭を確かめるよう、頬を撫でられる長い指。 『佐藤さんが、好きです』  にぎやかなはずの店内の音が消え去り、やけに大きく横山の声が耳に届いた。 『……そっ、か』 『男でも、年上でも、あなたが好きです』 『……そ、う』  アルコールが入って瞼は落ちてくるし、どうせくたびれたオヤジには勃たないだろうと、安易についていったホテルでまんまといただかれてしまった。それからすぐにニューヨーク州へ転勤になったことを考えると、彼も博打的なところがあったのだろう。  現にあの触れ合いのあと、横山から一度も連絡を寄越さなかったのだ。  たった一晩だけの相手。  彼がそのようなつき合いを持つ男ではないと頭では否定しつつも、結局たどり着く事実に臆病になる。そして、知らしめられるのは、失ってから己も少なからず好いていたのだというのと、置いて行かれた孤独感。  近況確認にかこつけて、こちらから連絡すればよかったのだろうが、変な意地が出てずるずると時間ばかりが過ぎてしまった。 「どうするかな……」  背もたれに体重を預けて思案する。同じ部署になるためどうしようもこうしようもないのだが、先送りにしたい気持ちばかり生まれる。 「どんな顔して会えば――」 「今日も早いねぇ、補佐さん」  手のひらで顔を覆いひとり唸っていれば、ややしゃがれた声に現実に戻る。 「おはようございます。伊藤さんには負けますよ」  目尻のシワを深くする顔とは、いつからか軽口を叩く間柄になってしまった。どうやら佐藤が就職した頃を知っているらしいので、彼の勤続年数も相当なものなのだろう。 「そりゃ、人が居ない方が掃除は捗るからなぁ」  自分との会話の間にも、手にしたモップは忙しそうに動く。フロアを見回しながら、自分たち以外の不在を確認する。普段より広く感じる室内では、自動掃除機がいつの間にか稼働していた。 「始業までだいぶあるけれど、補佐さんはもう仕事かい?」  自分がいたのでは、彼の仕事の邪魔になるだろう。言葉や態度で表しはしないが。 「一段落したので、そろそろ食事にします」  朝のうちに片付ける業務はあげた。その後に軽い気持ちで目を通した横山の件のメールに衝撃を受けて時間を食ってしまった。背を伸ばして席を立ちつつ、上着を手にする。 「ゆっくりしといで補佐さん」  手を振る伊藤に、軽く会釈して佐藤は一時職場を後にした。

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