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150.蒼い空の下(最終話)

これまで、数え切れないほどの悲しみを、苦しみを、経験した。 あの事故の日から――俺の人生は変わってしまった。幸せになってはいけないと、ずっと…そう思っていた。自分に、その資格は無いのだと。 けれど、いつも抱えていたはずの、消えないと思っていたはずの胸の痛みが、いつの間にか癒えていくのを感じる。 ああ…こんな気持ちを抱く日が訪れるなんて、夢みたいなんだ。 空が綺麗だと、心の底からそう思える日がまた来るなんて、夢にも思わなかったんだ。 たくさんの人を傷付けた。 何度も過って、何度も泣いた。 俺がしたことは許されることではない。けれどもう、前を歩いて、生きていける気がする。 笑って、旧友の顔を思い浮かべることができる気がする。 長い苦難の道のりの先で、大好きな彼が、笑って俺を待ち構える。 「――星七さん」 …彼と出会って、止まっていた俺の時間は、再び動き始めた。 胸がときめくようなドキドキすることがたくさんあった。でも、それと同じくらい……辛いこともたくさんあった。 彼の言葉が、いつも俺を救ってくれた。今という瞬間を、歩くことができた。 だけどそれだけじゃなくて、これからは――俺も、彼を支える。 もう絶対、彼を手離さない。 …もう二度と、彼のサインを見逃したりしない。 もし、また彼が道に迷ったら、俺が彼に手を差し伸べる。 何度でも、俺が彼を…、救い出してみせる―― 「片桐君――」 恋焦がれた、誰より愛して止まない、大好きな彼の胸に、勢いよく飛び込む。 あたたかな彼の感触に、温もりに、力強い腕に、感極まって涙が溢れた。 大好きな気持ちが、全身から溢れ出した。 「もう……どこにもいかないで」 頬を濡らしながら、彼を見上げる。 「ずっと、俺の傍にいて」 片桐君が、かつての優しい眼差しで、涙する俺を見下ろし、見つめる。 彼の手が片頬に添えられて、彼の顔がゆっくりと近付く。 彼と――そっと、唇が重なり合う。 その瞬間、彼と共に歩んだ日々が、軌跡のすべてが、頭の中を一気に駆け抜けた。 言葉では言い表せない気持ちが、涙に変わって目元から流れていく。 片桐君が唇を離し、鼻と鼻が触れる近い距離で、瞳を濡らす俺を見つめる。 彼の射抜くような力強い目に見つめられて、心が震え上がる。 ………好き、好き。彼が好き。…すごく好き。 大好き、――ずっとずっと、愛してる。 「……愛してる」 「…!」 耳傍で囁かれた彼の不意打ちの台詞に、体中がふやけて、足の指先まで真っ赤に染まる感覚がした。 木々に囲まれた夏の道の真ん中。オフホワイトの襟付きの半袖シャツを着た片桐君が、隣を歩く。 袖の下からは、堂々と黒いタトゥーが覗いていた。 「なんかさっきの、“ずっと俺のそばにいて”って…プロポーズみたいだった」 黒い前髪をセンター分けした、片桐君の切れ長な瞳が、俺に向けられる。 「まさか、星七さんに逆プロポーズされる日が来るなんて」 「ち……ちょっとまって!ちがうよ、俺そういう意味で言ったわけじゃ…」 ぶんぶんと首を横に振る俺を、にこ、と笑って片桐君が見つめる。 彼から懸命に視線を逸らしながら、胸をどきどきとさせていると――ふいに左隣から、気配を感じる。 「昼間の公共の場でいちゃいちゃするな」 聞き覚えのある声に振り返ると、紺色の半袖シャツを着た藍沢が、何食わぬ顔で俺の隣を歩いている。 「……なんであなたがここに」 俺が訊ねる前に、右隣にいる片桐君が怪訝そうな表情を浮かべて言った。 「――勘違いするな。俺はまだ、こいつの幼馴染であり、友人であることに変わりはない。お前がまた変な動きをし出さないか、しばらくの間見張る必要がある」 「は、寝言は寝て言ってください。あなたって相変わらず暇なんですね。羨ましいですよ」 2人がいがみ合っているのを止められず見守っていると、向こう側から、おーいと言って手を振る佐野さんの姿が見えた。 その隣には、黒い半袖シャツ姿の黒崎さんが立ち、俺たちを見つめながら、穏やかに微笑んでいた。 「何だよお前ら」 「片桐さん、今日久しぶりの休日でしょう。それを聞きつけて、俺たちも来てみました」 「……来てみなくていい」 「それより暑くないっスか、外…!みんなでどっか涼しいところにでも行きません!?」 佐野さんはぱあっと表情を輝かせながら話している。 「うーんそうだね。じゃあ、ボウリングとか?」 黒崎さんが顎に手を添えながら言う。 「いいなっボウリング!そうと決まったら、ほらっ!早く行きましょう!」 走り出す佐野さんのあとを、黒崎さんが追って歩く。 それに続こうとしたとき、頬を撫でられるような風が吹いた気がした。 俺は足を止め、後ろへと振り返る。 視界いっぱいに広がる夏の“蒼い空”の先で、――彼が、笑ってこちらを見ている気がした。 ……もしかしたら、俺は彼を、長い間ここに縛っていたのかもしれない。 心の内に彼を抱え、いつまでも踏み止まらせていたのかもしれない。 彼はずっと、“この瞬間”を、待っていたのかもしれない―― (アキ……今、やっとお前に言える。 ………ごめん。………さようなら。 そして、……“ありがとう”――) 見上げていた空から、顔を伏せる。 少し離れた先で待つ、彼らの方へと顔を向ける。 視線の先で、藍沢が、いつもよりずっと和らいだ表情で俺を見ている。 その隣で、片桐君が優しく微笑みながら、片手を差し出して待っている。 目の前に広がる光景に、また涙が溢れ出そうになる。俺は唇を噛んでぐっと堪えると、彼らの元へ笑って駆け寄った。 泣き続けた暗いトンネルを抜けた先。 ようやく辿り着いた、雲ひとつない澄み切った蒼い空の下、俺たちは時折言葉を交わしながら、肩を並べて歩いた。―― 第2部、完。――(本編完結)

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