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プロローグ② “好き”な言葉ができた日

控え室に戻ったとき、全身の力が抜けるような安堵が押し寄せた。肩で息をして、ようやく椅子に腰を下ろす。 大丈夫だったかどうかは分からない。でも、出しきれた。嘘をつかずに、自分の言葉で話せた。それだけで十分だった。 鞄の中からノートを取り出す。使い込まれて、表紙は角がちょっと丸くなっていた。 開いたページには、びっしりと手書きの文字が並んでいる。 課題曲の歌詞をコピーして貼りつけ、その横に『なぜ“君”と呼ぶのか?』『“涙”は、誰のための?』といった問いが続く。 赤いペンで引かれた線、青のメモ、付箋、折り目。どのページも、まるで感情を解剖するように丁寧に綴られていた。 「それ、すごいっすね」 不意に声がして、陽は驚いて顔を上げた。さっき同じグループで面接を受けた、真面目そうな男の子が立っていた。 ――篠原悠人(しのはらゆうと)。端正な顔立ちで、落ち着きのある雰囲気。一見年上にも思えたが、俺より一つ下の23歳だった。 「あ……すみません。見えちゃって」 「ううん。…むしろ、自分じゃ答えが出ないから、誰かに見てほしいノートかもしれない」 陽は、少しだけ微笑んだ。 「俺、何か感情がわからなくなると、こうやって書き出すんだ。数年前に、カウンセリングに通ってたことがあって……その時に教わったんだ。『言葉にすることで、自分に気づく』って」 「へえ」 篠原は感心したようにページを覗き込む。彼の視線は、俺が何者かを確かめるようでいて、責めることがなかった。 「変だよね、俺」 「変じゃないっすよ。気持ちが“わかる”人より、“知ろうとしてる”人の言葉の方が、ずっと届くって思う」 ――“届く” その言葉に、心が少し揺れた。 そんなふうに、誰かに言ってもらえたことが、これまでの人生であっただろうか。 会話が途切れたあと、篠原は小さく笑って「じゃあ、また」と少し名残惜しげに告げて席に戻っていった。 陽は、開いたままのノートを見つめる。ノートのページの一番下に、そっと書き足す。 『気持ちが“わかる”人より、“知ろうとしてる”人の言葉の方が、ずっと届く。』 忘れたくない言葉だった。素直にそう思った。 これは、たぶん、“好き”な言葉。 ―――――― 帰りの電車の窓に映る自分の姿は、思ったよりも穏やかな顔をしていた。 揺れる車内で、人の少ない車両の端っこ。陽はイヤフォンを片耳にだけ差し込んで、もう片方では人の気配を感じながら、静かに窓の外を眺めていた。 今日の面接がどんな結果になるかなんて、まだ分からない。でも、少なくとも「自分のことを嘘なく見せられた」という満足感があった。 それは、これまでのオーディションのどれとも違った感覚だった。 (……あの子、篠原くん) 言葉を丁寧に選ぶ感じがして、でも押しつけがましくなくて。 誰かに言葉をかける時って、たいてい少し構えてしまうものなのに、彼の声はまるで、ふっと差し出されたお茶みたいだった。 あたたかくて、無理がなくて、それでいて心に沁みてくる。 『気持ちが“わかる”人より、“知ろうとしてる”人の言葉の方が、ずっと届く。』 彼がくれたその言葉が、頭の中で何度も繰り返される。 (……うん。やっぱりそういう言葉、俺、好きかもしれない) ―――――― 最寄り駅の改札を抜けて、歩き慣れた住宅街を抜ける。風が少し冷たくて、秋の深まりを感じさせた。 家の鍵を差し込みながら、片手でカバンの中のノートの感触を確かめる。 部屋に戻ると、鞄からそれを取り出して、ベッドの上に置いた。布団の上にぺたりと座り込んで、ゆっくりとノートを開く。 今日のページに、今の気持ちを書き足したくなる。 さっき書いた篠原くんの言葉の後ろに『→これは、たぶん好きな言葉。』と綴った。 ノートに書いた瞬間、なぜか胸の奥が静かに震えた。 そのまま、少しだけページを前にめくる。 そこには、今まで自分が理解できなかった感情たちの記録が、整然と、それでもどこかぎこちなく並んでいた。 『“会いたい”って、どういう時に思うもの?』 『“誰かを想う”って、どこから始まるんだろう?』 『“好き”って言うとき、目をそらすのはなぜ?』 一問一問、まるで自分に問いかけるように綴った言葉たち。そのすべてが、陽が感情と向き合ってきた証のようだった。 今日、ふいに篠原くんに見られた。けれど、不思議と後悔はなかった。 (もしかしたら、あの人なら、読まれてもいいかもしれないって……思ったのかも) 理由なんてうまく言葉にできないけれど、その感覚だけは、確かに胸の奥にあった。 きっとそれは、少しだけ“信じたい”という気持ち。 人を信じること。感情を分け合うこと。陽にとって、それは一番遠くにあったものだった。 でも、今日ほんの少しだけ、それが近づいたような気がした。 (“好き”って、定義より感触で知るものかも) 感触。手の温度。言葉の間。声の震え。 そういう小さな“何か”を拾い集めて、ゆっくり育てていくものなのかもしれない。焦らなくていい。分からないなら、分かろうとすればいい。 篠原くんが言ってくれたように、"分かる"ことよりも、"知ろうとする"ことが大事なら、たぶん、自分にもできる。 陽は、ノートを手に取り、ページの余白に今日最後の一文を書き加えた。 『“好き”という感情はまだわからないけど、それでも、誰かの言葉にふれた時に、ふっと心が揺れる瞬間がある。  言葉の余白に、あたたかいものが差し込んできた。名前のないそのぬくもりが、いちばん心を揺らした。』 そして、ページを閉じる音が、部屋の静けさの中に、やけにやさしく響いた。

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