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皐月さんについて

 俺の「くだらない哲学観」を語ることになった経緯は覚えていない。  どうしてだか、この人になら俺の考えを話しても変だと思われないと直感していた。多分それはその人が普段纏っている空気とか浮かべている表情とか、使用している言葉とか――そう、言葉は特に大切な要因だったかもしれない。    俺は何かドラマチックな人生を送ってきた人間ではない。わりとどこにでもいる平凡な、周りよりも少し勉強ができるくらいの人間で、だからこそ何者にもなれない自分というものの平凡さが面白くなかった。人は可能性を無限と言う。ある側面ではそうなのだろうと思うが、その可能性を直視し続けることも苦しい。そしてその可能性を諦めることも苦しい。人生のすべての選択は絶対に何かしらの痛みを伴うものだ。その可能性の枠組みを形作るのが言葉だ。だから人の使う言葉は、自分のものであれ他人のものであれ、俺は重要だと思っている。  そんな大切な言葉を嫌味なく心地よく使ってくれる男がその人だった。  こんなにも意思疎通のスムーズな人間が存在するものかと驚いた。  俺は決してコミュニケーション下手ではない。少なくとも友人関係は良好だったし、恋人も難なくできたり、関係を長続きさせることもできていた。  だが、自分の心の底の思いを吐き出そうとすればするほど、実態から言葉がかけ離れていくような感覚がずっとしていた。気持ちを表すために俺が大切にしている言葉たちを丁寧に使えば使うほど、己の本心から遠ざかっていく。  しかし、その人だけは俺の本心を掬い上げて、ぴたりと当てはまる言葉で答えてくれる。 「――『一切皆苦』という言葉を(ひじり)は知っているか?」 「え……?」 「仏教の教えのひとつだ。人生、というより、世界は苦しみで満ちているという事実を指す言葉だよ」 「ああ……あれ? 皐月(さつき)さんは仏教科でしたっけ?」 「いや、哲学科。でも俺らの大学は仏教系だろ。だから哲学科では他の学科よりももう少しだけ詳しく仏教系の学問も取り扱うんだよ」 「なるほど」 「昔の人間ってすげえよなあ。俺らの頭で考えてることなんか、昔の頭の良い人間は既に思い至っていることばかりだ」  日野皐月(ひの・さつき)はひとつ上の文学部の先輩だった。俺よりも背の高い人間は少ないというのに、その人は女みたいな綺麗な顔で俺より身長が五センチも高い。いつも薄らと朗らかな笑顔で佇んでいる。だが驚いたのは――背の高さは棚上げしておくとして――そんなふうに穏やかな人間なのに、大学非公認の音楽サークルに所属していて、そこがかなりの過激組織ということだ。新入生勧誘期間の際にこの人を一目見たときにはまったくそんな雰囲気を感じなかったため、いざ新入生歓迎会に参加してみたら居酒屋では地獄の様相が繰り広げられていたのを今でもショックな出来事として覚えている。そんなショッキングな現場を目の当たりにした新入生はひとり、またひとりとひっそり消えていったのだが、俺だけはこの人の使う言葉や空気感に興味が湧いて、その人の隣にずっと陣取っていた。この人がどんな人なのかもっと知りたかったのだ。  地獄の中にひっそりと坐禅を組む仏のように穏やかに、その人はアルコール濃度が薄くて不味いカクテルの入ったグラスに口をつける。 「『一切皆苦』はただ悲観的に世界を捉えているわけじゃない。世界は常に変化していく……無常ってやつだ。無常を理解し、執着を手放す。つまり、苦しみを理解し、受け入れるところから人間は始めなくてはならない――ということらしい」  氷だけになったグラスをテーブルに置くと地獄の喧騒を他所に、その人は店員を呼びとめる。 「あ、これの――ハイボールのおかわりと……聖、飲み物の追加は?」 「じゃあ俺も皐月さんと同じやつで」  俺はその時点ではまだ飲酒のできる年齢ではなかったが、こんな地獄では誰もそんなことは気にしない。そもそも炭酸水でカサ増しされすぎたハイボールで酔おうとする方がおかしな話だった。そしてそれ故に、諸先輩方はアルコール純度の高いテキーラのショットを煽りまくることで地獄を形成していた。  注文を受けた店員の背を見送りながら、俺は思った。  おそらく俺は、この世界の苦しみから逃れることはできないだろうと。  その日の怪異対策課、通称・オカタイはほとんどの人間が怪異退治に駆り出されていた。部屋には皐月さんの流す音楽とタイピング音が響くのみだった。課長の俺といえば、染めた銀髪の前髪をいじりながら、左目だけになってしまった皐月さんの顔をじっと見つめている。  右目は黒い布製の眼帯をつけている。これは職務中の事故で皐月さんが右目に呪いを受けてしまった結果だった。本来、眼球の埋まっているはずの穴は空洞になっている。しかし義眼を嵌めることもできない。  通常、眼球のなくなってしまった眼窩には義眼を嵌めることが多い。上下瞼の癒着が発生することがあるためだ。  ではなぜ皐月さんの右目に義眼を嵌めることが叶わないのか。 「……『及川(おいかわ)課長』、仕事は進んでいるのか」  皐月さんはモニターを睨んでいた視線を今度はこのままこちらに向けてくる。  左目だけになっても、皐月さんは変わらず穏やかな笑顔を浮かべている人だったが、かといって人の分まで仕事をしようなどという殊勝な心がけを持つ人間でもない。故に、皐月さんが俺を睨んでくる理由といえばひとつだった。 「嫌だなあ。ちゃんとやってますって」 「今は俺のことばかり見てただろう。その癖、いい加減やめろ。支障が出るぞ」 「ちゃんと皐月さんに負担がいかないようにしてるから、怒らないでよ」 「この前もハンコの押し忘れがあったのに何言ってるんだ、お前は。提出直前に気づいて慌てて戻ってきたのは俺だぞ」 「いや、あれはさあ、出張関係書類が上がってくるのが遅かったから気づかなかったんだって……」 「それでもお前がチェックすべき事項だっただろう、しっかりしろ」  そう言われてしまってはぐうの音も出ない。確かに、俺が俺の仕事をしっかりしていなかったから発生した「手間」だった。皐月さんはそういった無駄な手間を嫌がる。そもそも、未だ中間管理職のみならず全職員が自身の苗字の印鑑を用いて書類に押すという工程が挟まること自体が手間だと思うのだが――などと言い訳をしても現状まだ俺の仕事の範疇であることを為し得ていなかったことが悪いのだ。皐月さんには切って捨てられる言い訳だろう。 「……昨日の」 「なんだ?」  言い訳をしようとしてできなかった結果黙っていた俺が口を開くと、皐月さんは先程までの怖い顔は引っ込めて今度はいつもの穏やかな笑みを浮かべてこちらを見てくれた。皐月さんは別に仕事に厳しいわけではない。俺が何か言いたいことがあれば察して、優しくそこに「居てくれる」。 「昨日の夜の皐月さんも、仕事してる皐月さんも好きだなって、思っただけ……」  これは紛れもない事実だ。  白状しよう。俺はただ、恋人の美しい横顔に見惚れていた。そして昨夜の情熱的な恋人の表情を思い出して少々欲情を覚えただけなのだ。  言い訳が出来ないのであれば本心を答えるしかないと思った俺は、素直な気持ちを口にするが、これは今この部屋に俺たち以外誰もいないからできることだった。それでも少しだけ恥ずかしくなって、言葉の勢いが弱くなっていき、自然と視線も自分のデスクに落ちてしまった。  俺がデスクを穴が空くほど見つめている間、皐月さんのタイピング音も止んでいた。部屋にはただ、皐月さんの好きなバンドの曲が流れている。    ――誤魔化しが効かないからといって、少し、本心を言いすぎた。  だが、本来はそれでも足りないのだ。俺がどのくらい日野皐月という男に惹かれて、恋して、愛して、尊敬して、そして独占したいという醜い心を持っているのかを表すには、「好き」だなんて言葉で足りるわけもない。  ――皐月さんはずっと「俺のもの」なんだって、思いたい。  これは『一切皆苦』からもっとも遠い。永遠なんてないという現実も知っているのに皐月さんを「ずっと」「俺のもの」にしておきたいのだ。  カラカラとキャスター付きの椅子が動くのが聞こえて視線を上げる。すると右目を押さえた皐月さんが慌ててゴミ箱の方へ駆け出そうとしているのが見えた。 「あっ!」  マズイ! 俺はただそう思って、皐月さんの元へ急いで駆け寄り、右目を押さえていた手を掴んだ。すると皐月さんはまだ抵抗しようとするがどちらにせよ目を押さえていた手は離さなくてはならないのだ。 「だめ、皐月さん、やめて」 「いや、お前の方こそ止めるな、あっ、溢れる……!」  眼帯は既に皐月さんのデスクに置き去りにされ、ぽっかりと闇が広がっているはずの眼窩から次々に薔薇が咲いては溢れ出てくる。  その薔薇は乙女の恥じらいを表すような薄桃色とオフホワイトが混じった美しい花弁を持っていた。  これが、日野皐月の右目に義眼を嵌められない理由だった。義眼を嵌めても、感情の昂りで生成されてしまう薔薇の花によって押し出されてしまう。『目は口ほどに物を言う』という呪いを受けた末路だ。  皐月さんは真っ白な頬をうっすら赤く染めて困った表情で俺を見ていた。 「花が床に落ちるから退いてくれ」 「嫌だ。全部貰う」 「その癖もやめろ! 趣味の悪い!」 「うるさい、人の趣味にケチつけんな」  そして俺は、美しい恋人の右目からこぼれ落ちそうになった薔薇を口の中へ受け止めた。 「……聖、なあ、頼むから……」  なおも溢れてくる薔薇は際限なく俺の口内へ流れ込んでくる。皐月さんは懇願するように言葉を漏らすが、薔薇の色はどんどん赤色に変わっていく。  飲み込みきれなかった薔薇は俺の口からこぼれ落ち、しかし逃さないように手で受け止める。  ――赤は、情熱の色だ。 「……皐月さんだって、興奮してるくせに」 「……お前が昨日のことを思い出させるから」 「俺が薔薇を食べた瞬間に花びらが赤くなった。嫌いじゃないくせに……皐月さんの『目』は嘘をつけないの、自分でもわかってるでしょ」 「……セックスするたびにお前が薔薇食ってんの見てんだよ、こっちは……興奮のひとつやふたつ、してもおかしくないだろ」  薔薇にも負けないくらいに真っ赤な頬をした美しい顔。右目からは赤い薔薇が次々溢れ出て、左目は昨夜の熱にのぼせた視線を思い出させるようにとろっと融けている。  その視線を受けると背筋がゾクゾクと震えた。この人はこんなにも綺麗なのにその愛欲を俺にだけ向けてくれるのだ。その事実が、今が、ずっとここにあればいいと思っている。 「変な開き直り方……でも、可愛い」 「聖、お前……くそっ……可愛がってやってんのは俺だろ」 「……ねえ、皐月さん」  キスして、と言う前にそれを察してくれる。  皐月さんは俺の本心を掬い上げてくれる。  ――あんただけなんだ、こんなふうに言葉に拘らなくても、心が通じるのは。  ゴミ箱は部屋の扉付近に設置されている。皐月さんは片手間にその鍵をかけて、俺の後頭部に手を添えて優しく、力強く引き寄せてくれた。 〈終〉

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