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事例1-5

「さて」  野田の心の内を理解しているだろう日野はなぜだか大きくパンッと手を打ち鳴らした。その瞬間に、その場の空気が一瞬にして別物に変化した――野田は怪異に関してはからっきしわからない素人だったが、空気の変化だけははっきりとわかった。  眼帯の男は左目に優しさを湛えたまま、野田にゆっくりと語りかける。 「野田さん。先程、モチタは人の言葉を理解できていた、という旨をお話ししたのを……覚えていらっしゃいますか」 「え、ええ……」  優しいが、その空気の変化に気圧されて野田はわずかにどもる。野田の動揺を見ても左目だけの男は動じず、美しい表情でゆっくりゆっくり、語る。 「では、野田さん……私たち、いえ……野田さんが何をすればいいか、お教えいたします。ご協力、いただけますか?」 「……はい」  その返事に満足をしたのか、男の左目が今まで以上に華やかな麗しい笑顔に変化した。そして同時に隣の男に呼びかける。 「及川課長、準備してきたやつを出してくれ」 「はいはい」  仕切りの中に戻ってきた男は何を持ってきていたのだろうと不思議だったが、ナイロン袋の中から出てきたのは野田にも馴染みのある物だった。 「んん? ちゅ〜……」 「そうです、猫用液状餌です。モチタも他の猫と同じくこれが好物だったと聞いていましたので、今日買ってきました」  棒状に個包装された餌を及川がひとつ、野田に差し出す。そして差し出されたまま餌を受け取ると日野が話を続けた。 「相手が言葉を解するのであれば、説得……いや、違うな……安心させてあげてください。これからは野田さんご自身が元気に過ごすという約束をしてあげること、そして、野田さんのお宅は既にモチタの居場所ではなくなったということを。この餌は餞別としてモチタにあげてください――賢いモチタであれば、野田さんの言葉を理解してくれるはずです」  日野の言葉に、野田が頷く。そして日野も野田に頷き返す。  男の美しい笑顔は野田の背中を押してくれるような、勇気づけられるものだった。だから、モチタに対する別れの言葉を紡ぐことは何のためらいもなくなっていた。自分の口が自然と動くのを感じた。 「モチタ――」  何度もお辞儀を繰り返しながら去っていく女性の背を冷気がこれでもかと立ち込める廊下で見送ったあと、及川と日野は身震いを隠すことなく両腕で体をさすりながら『怪異対策課』の部屋の中に急いで戻った。  長身の男がふたり揃ってぶるぶる震えている様子を見た同僚たちは苦笑いを浮かべているが、そんな視線すらも気にならないくらい寒かった。窓の外を見ると雪がちらちらと降り出しているのがわかった。 「寒すぎる! やばい! あったかいもん飲みてえ!」  いつもは背筋を伸ばしてモデルのような出立ちの男が暖房の前に陣取る。身長が百八十五センチもあるとは到底思えないくらいぎゅっと体を圧縮させ震わせていた。 「皐月さん、俺、お昼まだだから、報告書頼む……寒すぎ……腹減った……」  及川が暖房と日野の間を横切りながら自分のデスクの上に置いていた弁当に手を伸ばす。そしてそのまま部屋に備え付けの電子レンジの方向へ足を向けようとしたところで肩を掴まれた。  眼帯の男が左目だけで及川をじっと睨んでいる。 「待った。あれはお前の担当事例だろ。俺は『縁断ち』を手伝うだけだって言ってたじゃねえか。結局あの招き猫を保管するのか処分するのか決めてもないだろ、お前」 「ええー、めんどくさ……」 「やっぱり面倒臭いが本音かよ」 「いや、お腹は本当に空いてるんだけど……だってあれ『縁断ちしただけ』でしょ? しっかり除霊して物品処分書類を用意するのめんどくせえよ」 「やっぱりそれが本音じゃねえか」  ふたりは間仕切りの向こうにある招き猫をちらりと見た。  招き猫の周りに置いた液状餌の上で楽しげにころころ転がる、野良猫にしては大きめの三毛猫を見て、ふたりの間に沈黙が流れる。 「ねえ、皐月さん――あれ、除霊するのもったいなくない?」  自分よりも少しだけ背の低い男が銀髪を揺らしてこちらを見上げてくる。精悍な顔立ちの瞳に映される己の姿――これは自分をじいっと見つめてくる視線に他ならないわけで。その視線の甘やかな部分は大学時代からずっと変わらない。 「お前……お前なあ……」  及川の肩を掴んでいた手で今度は自身の眉間を押さえる。日野は及川のこういうところが――可愛いと思っていた。そして、そういう愛おしいと思う気持ちが今にも『右目から溢れそう』で、日野は内心慌てていた。だから、男は話を進展させて己の気持ちを紛らわせるしかなかったのだ。 「ああ、もう……わかったよ……除霊の必要なしで、物品は『オカタイ』預かりにしておく――そういう方向性だな?」 「うん、ありがとう、皐月さん。それでお願い」  及川がにっこりと笑って再び電子レンジラックの方へ向かいだす。  ――なあに満面の笑みを浮かべてんだ、こいつは!   「『お願い』じゃねえよ、本来はお前の仕事だぞ、このブラック課長が!」  そうは言いながらも、結局は可愛い後輩の、否、可愛い恋人の笑顔に、空洞の右目の奥が愛おしさで疼くのを感じて仕方なかった。 〈終〉

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