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事例1-4

 モチタは野田が保護猫・地域猫の活動に関わるようになって初めて世話をした猫の一頭だった。出会いはもう五年ほど前となる。活動に関わる前までは大きな野良の三毛猫が居るなあ程度の認識だったが、団体に所属してその猫がモチタと呼ばれるこの辺りのボス猫であるということを知った。三毛猫というだけでも目をひくのに、モチタはその名が表す通り大きな筋肉質の体躯を持つ、それでいてオスの猫だ。毛色が三毛のオスは本当に珍しい。  野良猫は通常、他の猫と関わり合いを持たない。モチタも例外ではなく、野田の自宅周辺のみだけをテリトリーとし、しかしわりと人懐こいところのある猫で、地域猫の世話をしてる人間を認識すると積極的に餌をねだってくる、要領の良い猫だった。  モチタを語るときにすべて過去形となってしまうのは、モチタが一ヶ月ほど前に野田邸の庭の影でひっそり死んでいたのを確認していたからだ。  どんな因果か、招き猫はちょうどモチタと同じ三毛に色つけをされている。大きさもちょうどモチタくらいで――自身の喪失感と目の前の事象を勝手に結びつけてはいけない。そう考えて、野田は意識的にモチタの死と招き猫の異変を切り離していたのだが。 「……何か、思い当たるところがありそうですね」  そう言った日野はまだ困ったような優しい目で招き猫を見つめている。まるでそこに何かが居るかのように。 「……でも、そんなことって有り得るんでしょうか」  野田は自分の心だけでなく、声さえも震えてくるのを感じて、目頭が少し熱くなる。 「一ヶ月ほど前に、私の家の周りに縄張りを持っていた猫が死んだんです。年齢的にももう死んでもおかしくないくらいのオス猫でした……モチタは、とても……とても人懐こい、三毛猫で……」 「……野良猫はその性質上、自身の縄張りをしっかり持ち、互いにその境界を守るというのを団体代表の方からお聞きしてます。しかし、既に死んでしまったモチタの縄張りに新たな猫が自分の狩場としてやってくる可能性もあるはずですよね」 「……はい……」  野田の返事を聞いた日野はそのまま続ける。 「しかし、モチタの死後、野田さんのお宅周辺で新たな地域猫が縄張りを作った様子はありません。まるで未だモチタがそこにいて、自分の縄張りを守り続けている……そのように見えませんか」  野田の視界が大きく歪む。目の前の三毛猫は笑っていたはずなのに、心配そうな表情でこちらを見ていた。自然と自分の頬に温かい雫が溢れ落ちていく。 「……モチタだったんですね……」 「――おそらくは」  そう言いながら及川が資料をフォルダに片付けて、唐突に立ち上がる。何やら日野に目配せをすると仕切りの外へ出ていった。日野は及川の目配せに頷き、次は招き猫の方ではなく、野田を見て話し始める。  大きく歪んだ視界の中でも、日野の美しい相貌とまっすぐに野田を見つめてくる左目の輝きはわかった。 「私たちの見立てはおそらく間違っていないかと思います。モチタは特に野田さんに懐いていたと代表の方からもお伺いしていました」 「はい……私が地域猫の活動を始める前からの顔馴染みだったので……」 「猫又の伝説はご存知でしょうか」 「……長生きをした猫が戸を開けたり、人の言葉を話したり、というものですよね」 「流石に猫好きの方であればご存知ですよね。そう、それです」 「でもそんな……実際にモチタは、私の手で」 「そう、荼毘に付した。実際に火葬の記録もこちらで入手しています。確実に死んではいる――だが、おそらくモチタは野田さんの言葉を理解できて、未だ自分の縄張りを守るためにそこに留まっている……モチタは長生きをした賢い猫です。野田さん、あなたの悲しみを理解してしまったのでしょう。そして何の因果か、依代にするにはちょうど良い、自分と似た置物を見つけてしまった。これが今回の事件の始まりです」  野田はそんな都合の良い話があるものかと日野の話を信じきれずにいたが、目の前の招き猫はまるで生前のモチタがしていたように今にも愛らしく「にゃーお」と鳴き始めそうに見えた。 「……案外、偶然というのは重なるものです。心で感じるものを信じてみてはいかがでしょうか」  野田の当惑を察して日野が説得するような口調で語りかける。だがその口調は強制力ではない別の力を持つものだった。野田は、自身の心に精一杯寄り添おうとする目の前の男の気持ちが温かく、そしてモチタに気づいてあげられなかった――気づこうとしなかった自分の不甲斐なさにますます涙が溢れるのを感じた。  そんなふうに感傷に浸っていると、ガサガサというビニールの擦れる音とともに仕切りの中へ及川が戻ってきた。手には何かを入れたナイロン袋を提げている。そして元いた席に座り直した。 「野田さん、私たちの見解は日野がお話しした通りのものです」と及川が言う。 「はい……この招き猫がモチタだと言うのであれば、私は」 「いいえ、待ってください」  及川は野田が言いたいことを目の前に手のひらを差し出すことで制した。そして言い出しづらそうな表情の及川はそれでもといった様子で口を開いた。 「愛着のある死んでしまった猫が今もそばで見守ってくれているかもしれない――これは紛れもない美談ですが、同時に紛れもない怪異です。私たちは『現在』に存在する生き物ですが、死んだものは人であれ猫であれ『過去』のもの。生と死は常に隣り合わせで密接なものですが、共存はできない――だから怪異は厄介なんです。人は執着の生き物だ……執着とは過去に端を発する。だが過去に囚われては現在を生きることは難しい。そして過去に囚われるということとは……それは例えば神や怨霊の類と近しいものになってしまう。現にモチタは今も縄張りを守って野田さんの周辺に猫を近寄らせまいとしていますよね――これは今を生きるものたちへの多大な損害とも言える」 「……どうして?」  及川の話に理解を示すことはできたが、野田には男の語る「多大な損害」が想像できなかった。どういう部分に「損害」があるのだろうか。  涙を拭って及川を見る。すると銀髪の端整な顔立ちの男は真摯な眼差しで野田に視線を返してきた。 「新たな出会いや変化を得ること――これが現在を生きるということだからです」    モチタがいることで自宅周辺に猫が寄りつかなくなる。当面は活動や生活に支障が出るものではないかもしれない。しかし長い目で見たとき、私が死んだとき、この家がなくなったとき、そのとき過去に囚われているモチタはどうなるのか――そこまで先の未来を予測することは野田には難しかった。  及川の言いたいことを理解できた野田は悟った。  ――ああ、本当にお別れのときが来たのだ。

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