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二十九 立葵の咲く檻

 「終わった!」  壮史さまから出されていた課題をすべて終え、僕はペンを置いた。肩の力がふっと抜ける。  傍らには、やりきった課題の山。壮史さまは、僕がこの量を全部こなすとは思っていなかったはずだ。課題の面白さが半分、あの人の悔しそうな顔が見たい気持ちが半分で、僕は夢中で取り組んできた。  そして今、課題を終えた静けさの中で、ずっと胸の奥に燻っていた疑問がようやく輪郭を持ったことに気づいた。  僕は、それを確かめなければならない。  天気はよく、窓を少し開けると、あたたかな夏の匂いとともに、かすかな花の香が風に紛れて漂ってきた。  ふと庭を見下ろすと、濃桃色の立葵の群れが目に入った。陽を受けて透けるような花弁が、まるで光そのもののようにきらめいている。  「……綺麗」  思わず声にしていた。立ち上がり、机を離れて扉へ向かう。――今日は、壮史さまが帰ってくる日だ。  あの人の書斎に、花を一輪、飾って迎えたい。そんな衝動が胸を占めていた。  廊下を足音も静かに抜けて、台所の脇を通ると、菊さんがちょうど根菜の皮を剥いているところだった。 「菊さん。庭の花を少し切って、部屋に飾ってもいいですか」 「ええ、どうぞ。咲坊が飾るなら、花も喜ぶでしょう。――はい、鋏。こっちの花瓶も使ってくださいな」  僕は礼を言って鋏を受け取り、そのまま台所を抜けて勝手口の方へと向かった。  けれど、扉の手前でふと立ち止まる。  ――外履きが、ない。  いつものように用意されているはずの草履が、今日はどこにも見当たらなかった。  一瞬、菊さんに尋ねようかと振り返りかけたが、すぐに思い至る。  (きっと……壮史さまの指示だ)  僕が、勝手に外へ出ないように。  以前にも、似たようなことがあった。  それでも、迷いはしなかった。扉を押し開けて庭に出る。  足袋のまま踏み出した砂利道はひやりとしていたが、夏の風が頬を撫で、どこか自由の匂いがした。 「庭だって……屋敷の中でしょう」  小さく呟いて、立葵の咲き誇る一角へと歩を進める。  鋏を入れ、そっと一輪を切り取ったその瞬間だった―― 「……咲?――咲!」  外塀の向こうから、風に乗って僕の名を呼ぶ声がした。低くて、懐かしい声。  顔を上げ、生垣に寄っていくと、門の隙間から、見覚えのある人影が見えた。 「……先生!」 「やっぱり君だった! 咲――」  門扉の隙間から姿を現したのは、僕が書生をしながら通っていた学び舎――白楊館の教師、片岡先生だった。  僕がまだ幼かったころから面倒を見てくれた、近所の兄のような存在。白楊館に通うことになったのも、彼が教師としてそこにいたことが大きかった。   彼は眼鏡のレンズ越しに、昔と変わらない、少し頼りない優しい笑顔を僕に向けてくる。 「ずっと探していたんだよ。何度も有馬家に足を運んだが、君はもういないと。さっきも門前で帰された。  実家に戻ったと聞いて、久しぶりに君の家まで行ったが……そこも空き家で」 「……そう、ですか」 「白楊館にも辞めるとだけ連絡があったけど、あれは正式には受理されたわけじゃない。咲、一体、何があったんだ?」  先生はふと、僕の足元に目を落とした。  履物を履いていないことに気づき、何かを悟ったのか、ほんの一瞬だけその目が曇った気がした。 「……話しにくければ、無理にとは言わない。ただ、心配だったんだ」  先生は、持っていた包みを門の隙間から差し出した。中から出てきたのは、分厚いノートと、手作りの課題集。僕が学び舎に行かなくなった期間の講義内容が、まとめられていた。 「これ……全部、先生が?」 「ああ、君は勉学にあんなに励んでいたじゃないか。学び舎から離れて、不安じゃないかと心配で。それで、学術院はどうなったんだ?」 「それが、試験は欠席しました。その――僕の……体調不良です。応援してくださったのに、すみません」  僕は、初めて先生に嘘をついた。胸がちくりと痛む。   「そうか……残念だったね。気を落とさずに。君なら、どんな道でも拓けるはずだよ」  そういうと、小さな布包みも渡された。開けると、中には金平糖が、柔らかい紙にくるまれていた。 「懐かしいだろう?君は昔からこれが好きだった。咲…… 僕は、いつでも君の勉強を見てやれるから。困ったことがあれば、なんでも相談してくれ」  先生は懐から、名刺を取り出して差し出した。 「これに、僕の下宿の所在を書いておいた。何かあったら、手紙でもいい。必ず返事を書く。それに……また、こうやってここに来るから。何度でも」 「……ありがとうございます」  ずっと、この館の中に籠もっていたのだ。  風に吹かれ、花に囲まれ、そして懐かしい顔に会えた――ただそれだけのことが、たまらなく嬉しかった。  僕は手に持っていた立葵を、そっと先生に手渡す。 「これ、よかったら」 「ありがとう。……とても綺麗だ」  先生は目を細め、門の隙間から手を伸ばし、昔のように僕の頭をポンと撫でる。  そして、鈍く光る門を一瞥し、去って行った。  「まるで、檻のようだな」と、低く呟いて。  

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