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4. もう一人※
こんなに短い感覚で仕事が来るのは極めて稀なことだった。
今朝、藍春がいつも通り起床し、身支度を終えた頃に冬馬が部屋に訪れ、急遽仕事が入った旨を伝えにきたのだ。
「随分と浮かない顔をしているね」
冬馬が退室したのを見て、天使が藍春に声をかける。
仕事が入ったことを伝えられた藍春の顔はどこか沈鬱な面持ちであった。
天使と出会って数日。藍春は彼に対して仕事の話をすることはなかった。
正確には、“出来なかった”。
天使は藍春の人生を知っていると言う。それは、今現在藍春が担っている仕事のことも例に漏れないのではないか。
どうやら規則が厳しく、藍春へ伝えられることはほぼゼロのようだが、内にある疑問の解決への手がかりくらいは掴めそうな気もするが。
しかし──知るのが怖い、というのもまた本心だった。
少しの沈黙が続いたあと、藍春が重々しく口を開いた。
「あの、さ。頼みがあるんだけど」
だが、これくらいは許されるであろう。
決意を固めた藍春は、天使の両肩をがっちりと掴んだ。
「僕が仕事中、どうなっているのか見てほしい」
その瞳は真剣そのものだった。
不思議そうに首を傾げる天使に藍春は続ける。
「僕、仕事中の記憶がないんだ」
————
藍春達が普段暮らしている場所は都市部からそう離れていない場所だ。
藍春、冬馬、そして天使を乗せた車がそこから都市部を背に北へ登っていくことおよそ二時間余り。道はやがて険しくなり、ドライブの七割は山道を走っていた。車中に会話らしい会話もなく、藍春はほとんどの時間を眠って過ごしていた。
──仕事中の記憶がない。
先程、天使にそう告げた藍春は、ひどく陰鬱な顔をしていた。
「全くないというわけじゃないんだけど……でも、本当に朧げにしか覚えてなくて」
「それは……病気か何かじゃないのか?」
健忘症を患っている人間は特段珍しくもない。比較的名の知れた症状だ。
しかし、藍春はその言葉に勢いよく首を振る。
「仕事中のストレスを脳に蓄積させないために、毎回仕事が終わると記憶が消えるようになってるんだって」
「……は?」
天使は思わず目を丸くさせる。
「つまり、それは君の主人が──君の脳に、そういう細工をしたと」
念の為に確認すると、藍春はゆっくりと頷いた。
──健忘症の種類も多岐に渡るが、その大半はストレスが引き金となる。
藍春にとって、仕事が耐え難いほどの心理的負荷がかかるものだとしたら、記憶が飛ぶことも理屈としては通る。
だが、その症状を第三者が意図的に引き起こすことは、果たして可能なのだろうか。
しかし、ひとまず藍春が求めているのは記憶喪失の原因究明ではない。
記憶がごっそりと抜けてしまう部分……仕事中の彼が、一体どういった動きをしているのか──それを知りたがっていた。
天使は、見たものをそのまま伝えればいい。
(……それにしても、)
さっきまであんなに緊張していたのによく眠れるものだ。
助手席から聞こえる藍春の寝息を聞いた胸の内で天使はそう独り言ちた。
「着いたぞ」
冬馬に肩を揺さぶられた藍春は目を開くと間の抜けた大きい欠伸をしていた。
「んで、今日は?」
どことなくフランクな雰囲気の藍春を天使は訝しんだ。
さっきのため息混じりの声からは想像つかないほど、やけに明るい。
しかし、冬馬は特に気にすることなく本日の仕事の流れを淡々と説明する。
そしてインカムとナイフホルダーを受け取ると、了解、という言葉と同時に藍春が車のドアを開けたので、天使も慌ててすり抜けて外に出た。
そこは真っ暗な森の中だった。
明かりらしい明かりはひとつもなく、車を見失ったら一瞬で迷ってしまいそうな場所だ。
藍春は懐中電灯などの光源を手にすることなく、悠然と車から離れていく。
天使は慌ててその背を追った。
背後から、車が走り去る音がする。唯一の光源が去ってしまい、いよいよ深い闇が二人を包み込んだ。
藍春の歩く後ろ姿は、どこか楽しげで浮き足立っているように見える。
車が見えなくなって程なくして、薄笑いを湛えたまま天使のほうへと振り返った。
そして──彼の口から発されたのは、聞きなれない声音だった。
「お前は何者だ?」
その声を聞いた天使は思わず目を丸くする。
声そのものは同じだ。
だが、声の出し方も、息遣いもまるで違う。演技などではとても説明がつかない。
歩き方、仕草、視線の動き──そのすべてが、先程までの藍春とは別物だった。
別人のような──どころではない。本当に別人に変わっていた。
「君こそ誰だ。藍春じゃないのか」
「質問に質問で答えるなよ。バカが」
その変貌ぶりに、さすがの天使も動揺を隠しきれない。
「なんてな。記憶を探ってやったからなんとなくわかった。存在の意味はわからねぇけど」
「すぐ認めるんだな」
「“俺”が“俺”だからな」
藍春は不敵に笑った。まるで、世界の理が全て見えているかのような自信に満ちた一言であった。
返された言葉の意味は理解できなかったが、起こっていることは察することができた。
これは、いわゆる二重人格──解離性同一性障害の一種だろう。
天使はこれまでにその症状を持つ人間を見たことはある。
だが、彼──いや、“今の藍春”は、それらとはどこか一線を画していた。
三日月のような笑みを浮かべて白い歯を見せる藍春。
今までの彼とは違っているのは内面だけではない。
いつもは不安げに揺れている黄金色の瞳が、今ははっきりと真紅に染まり、暗闇の中でもわかるほど煌々と輝いていた。
さらに、まるで別の生き物が成り代わっているかのように、その虹彩は奇妙な脈動を繰り返している。
それは、数多くの人間を見てきた天使にとってはじめて見る瞳だ。そのあまりの異様さに思わず息を飲む。
藍春は天使に背を向け、目的に向かって歩き始めた。
「多重人格ってやつなのか?」
天使は背後から疑問をぶつける。
「合ってるっちゃ合ってる。けど、そこらの病気持ちと一緒にされても困るな。俺は“人工的に造られた人格”だからよ」
「人工的……」
彼に対して、なんらかの実験が為されていたのは情報として把握していた。
だが──これのことだったのか。
「俺の仕事って、一般人からしたらストレス半端ないわけ。恐怖心もあるし、仕事中にキャパオーバーして狂っちゃったりしたら何もかもおじゃんなわけ。だから、こいつの身体には俺という“ソレ専門の人格“を作り出して、そのストレスを感じさせないようにしたってわけ」
理に適っているといえば理に適っている。だが、それは“ソレ”を必要としている場所においてのみ、成立する話だ。
人体実験は、国際規範や国内法に抵触しなければ違法とはされない。
だが、彼が担っている仕事と、そのために施された処置を照らし合わせれば、法の枠から逸脱しているのは明らかである。
「専門っていっても、俺の目的はソレじゃない。ソレは単なる手段でしかないわけよ。仕事をこなすことで、俺は“餌”を得る。だから俺はやれるってだけ。俺が狩る。奴らが調理する。俺は飯にありつける。そのプロセスで生き続けることを前提とした生物。それが俺」
天使は、何と返せばいいかわからず沈黙する。
すると、赤い瞳の藍春は、喉の奥からケラケラと不快な笑い声を漏らした。
「なんだ、てっきり全部わかって来てるのかと思ったら、ぜーんぜん知らないでやんの。どういう教育されてんの? 高次元の存在というわりにはちょっと手持ちの情報が杜撰じゃないっすかね?」
「僕の任務には必要最低限の情報しか提供されない」
仕事はいかに無駄を省くかが重要になってくる。
限られている脳のメモリを不要な情報で割くのは非効率的だとされており、生年月日や親の情報、それと“ターゲットの選定理由”“仕事の手順”程度しか共有されない。
本来なら、必要があれば即座に上層のデータベースから情報を引き出すこともできる。
だが、今はこの人間とコミュニケーションを図ることが任務となっているためデータへのアクセス権が剥奪されてしまったのだ。
この時ばかりは、上司の余計な采配を心の底から恨んだ。
突然視界が開けたかと思えば、現れたのは巨大なコンクリートの塊であった。館名板には「知花大学院遺伝子工学研究所」と掲げてある。
深夜にもかかわらず、いくつかの窓からは明かりが複数漏れていた。
この時間にも研究に没頭している者がここに存在しているのだろう。
「職場に夜通し缶詰だなんて、カワイソーな人生だね」
藍春がそう嘲笑し、正門を迂回すると、4メートルはあろうかという鉄柵を悠々と飛び超えてみせた。
体操選手さながらの動きだった。
天使はなんのことなしにすり抜けるが、藍春はそれを指差しながらダッセェと笑った。飛ぶより効率的な方法を選んだだけだ。
藍春はインカムに指を当てながら、指示された場所へ小走りで向かう。
そこは、うまく警備員の巡回を避けるよう設計された経路のようで、あたりには人の気配すらなかった。
やがて辿り着いたのは、裏手にある非常口のような鉄扉だった。
藍春は当然のように懐から取り出した鍵で開錠し、扉を開く。
天使はもうこの程度では驚かなくなっていた。
「目標人数……十八人。ちょっと多いな。ご苦労様です」
その言葉とは裏腹に、彼の顔は歪むほどの狂気の笑みを湛えていた。身体が疼いているのか指を忙しなく蠢いている。
藍春は堂々と廊下を進んでいく。突き当たり、左手の角から白衣を着た男が現れた。
あまりにも予想だにしなかった出来事にギョッとした男は声をあげようとするが、瞬く間に音を鳴らそうとしたその喉は鋭利な包丁によって引き裂かれ、情けない空気音しか発することはなかった。
藍春が放った包丁は、男の喉元を正確に貫いた。その距離およそ10m。返り血すら浴びることはない、完璧な一撃だった。
「最初の獲物仕留めたりい」
血の絨毯を悠々と踏み締めながら死体に近づき、上機嫌に包丁を引き抜いては、軽く手首を捻って血を振り落とす。
そしてインカムから聴こえているであろう指示に従い、血の足跡を残して廊下を進んでいく。
藍春が勢いをつけて飛び上がったのと、次に廊下の奥からやってきた研究員の存在を認識したのはほぼ同時であった。
その人物も目に入ったわずか二秒後には頸椎から大量の血を吹き出し、ただの肉塊と成り果ててしまっていた。
「遅い。遅すぎる」
インカムから新たな指示が流れ込んできたのだろう。藍春は迷うことなく廊下の先にある階段へ向かい、軽やかに駆け上がっていく。
二階に登りきると、すぐ目の前にある研究室の扉の前で立ち止まった。二、三度、深く息を吸い、静かに吐き出す。その仕草には、まるで舞台に上がる前の役者のような余裕すらある。
次の瞬間、再び唇に狂気を貼り付けたような笑みを浮かべ、華奢な足で思い切り扉を蹴り飛ばす。乾いた破砕音と共に扉が脆くも吹き飛び、金属音が室内にこだました。
無機質な蛍光灯に照らされた広々とした研究室は、散乱した書類と機材で修羅場のような有様だった。
呆然とその光景を見つめていたのは、白衣を着た研究員と思しき男たち。三名。幸か不幸か、扉の下敷きになった者はいなかった。
「お、おい……! 緊急事態だ!」
ようやく現状を把握した研究員の一人が叫び声を上げた刹那、一瞬で距離を詰めた藍春によってその喉元に包丁が突き立てられる。声は悲鳴にさえなれず、空気に溶けた。
「なんだよみんな丸腰か」
藍春が皮肉げに呟くのとほぼ同時に、もう一人の研究員が室内のスイッチを押した。けたたましいサイレンが館内に鳴り響き始める。
PHSを手に研究室名を叫ぶその声も、数秒後には肉に沈む金属音がそれを封じた。
「一体何本包丁を持っているんだ」
そばにいる天使が真顔でそう訊ねると、藍春はふっと肩をすくめて笑う。
「内緒」
そんな呑気なやりとりを交わしているなか、最後の一人が雄叫びをあげ、手にした大きなフラスコを振り翳して背後から襲いかかってくる。
藍春は避けるよりも先に、いつの間にか握っていたビーカーを振り翳し、中に入った液体を男の顔面目掛けて一気にぶちまけた。
雄叫びは悲鳴へと変わり、視界を焼かれた男は手にしていたフラスコを取り落としよろける。
「なんの液体だか知らないけど……ラッキー」
目を抑え続ける男の腹部に向かって、藍春は容赦なく蹴りを叩き込む。崩れ落ちた体に懐からさらに一本取り出した包丁を突き立てた。
「全員包丁じゃあ芸がないなぁ」
死体をぐるりと見回しながら藍春はつまらなそうにそう呟いた。
藍春は躊躇なく研究室を後にし、インカムの指示通り次の目的地へと向かう。鳴り響くサイレンにせかされるように自然と小走りとなる。
だが、その顔には一片の焦りも浮かんでいなかった。
むしろ、喧しく耳を打つ警報音が、彼の神経を心地よく刺激しているようだった。昂る心拍と共に、口元にはまたあの狂気じみた笑みが浮かぶ。
その時──
「いたぞ、気をつけろ!」
廊下の先から男が三人飛び出してきた。白衣ではなく、防護ベストに拳銃を構えた、それなりに訓練を受けたらしい警備員たちだ。
「また三人? ……なんかのチーム編成でもしてんのかよ」
藍春は独りごち、愉快そうに肩をすくめる。
男たちは焦りに滲んだ動作で藍春に向かって一斉に引き金を引いた。銃声が狭い廊下に反響し、サイレンの音と混じり合って耳を裂くような轟音となる。火薬の煙が立ち込め、視界が一気に曇った。
だが、煙の中から浮かび上がったのは──滑るように飛び交う銃弾をかいくぐり、獣のように軽やかな身のこなしで間合いを詰める藍春の姿。
まるで銃弾の軌道が見えているかのようだった。
手にした包丁を駐り放り投げる。その鋭い一閃は、飛来した弾を弾き、直後に一人の男の胸を正確に貫いた。
血が吹き上がる。隣の男は思わずそちらに弾かれた視線を戻した時──そこには、もう藍春の顔が至近距離にあった。
男の目は見開かれ、死の恐怖を刻むように固まる。だが、同時に、その整いすぎた美貌に一瞬、心を奪われる。
終わりの間際でさえ、そのかんばせを美しいと思ってしまったのだ。
「……下手くそどもが」
呟かれた悪態が耳に届く前に包丁の切先が眉間に深々と突き刺さる。ぬるりと返り血が藍春の頬を赤く染めた。
残された最後の一人が、震える指で必死に引き金に手をかけようとするが、恐怖で身体が固まっていた。
目の前にいるのは人間ではない──怪物だった。
と、その時、廊下の奥から新たな足音と怒声が近づいてくる。援軍だと察した男は藁にも縋るように「ここだ! ここにいる!」と叫んだ。
しかし、その叫び声が廊下に響き渡るよりも早く、藍春の腕が動いた。刃が一閃、喉元を切り裂く。声は掠れ、血とともに喉の奥へと引き戻された。
倒れた死体から拳銃を二丁抜き取り、藍春は迷いなく振り返る。血の飛沫で濡れた頬を拭いもせず、すっと両腕を上げた。
その瞳に、廊下の奥から走ってくる五人の研究員が映る。命知らずの増援──それが自分達と気づいていても、彼らは止まらなかった。
あるいは、止まれなかったのかもしれない。
藍春はわずかに息を吸う。
そして、舞うように身を捻り、二丁の銃を構えた。
──時間が、止まったように感じられた。
世界は無音。サイレンすら遠くなる。ただ藍春の鼓動と、引き金を引く感触だけが、異様な程鮮明に感じられた。
五度の銃声が、まるで音の軌跡を描くように廊下に響く。
次の瞬間、研究員たちは一人ずつ、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。額、こめかみ、眉間──すべて即死の急所。無駄な動きは一切なかった。
誰も、声を上げることさえ許されなかった。
廊下には、圧倒的な静寂が戻る。
濃厚な血の匂い。立ち込める硝煙。まだ消えぬ銃口の熱と、壁に反響するサイレン。
その中心で、藍春は一人、真紅に染まった顔で静かに立っていた。
もはや人間業とは思えない。移動速度、致命傷を負わせる的確さ。そして──華麗さ。
血の中を舞うその姿は、どこか神聖ですらあった。美しさと狂気を併せ持つ、死の化身。誰も、その手に触れることなどできない。
「あと五人……」
藍春は、血に塗れた姿で歌を奏で続けながら、次のターゲットの元へと歩を進めた。
「まさかここが狙われるなんて……」
最上階、最奥の研究室にも無慈悲なサイレンが鳴り響いていた。
分厚い壁や重厚な扉さえも、侵入者の気配を遮ることはできない。
室内では、この研究所の所長とその部下が、ジュラルミンケースに書類や研究資料、そして“成果物”を手当たり次第に詰め込んでいた。
「あいつを逃がしておいてよかった」
所長が汗を拭いながら呟く。
「ええ……しかし、これが奪われたり破壊されたら、それこそ終わりです」
部下の手には、片手で持てるほどの大きさの培養槽。内部は緑色の粘性液体で満たされ、何かが浮かんでいる――が、それが何なのかは、研究員以外には知る由もない。
その培養槽をジュラルミンケースに丁重に収め、ロックする音が室内に重く響く。
部下がケースを所長に差し出そうとした瞬間、
「君だけでも逃げてくれないか」
「所長……! しかし──!」
所長はそれを受け取ることなく、代わりに懐から拳銃を取り出し、背を向けて扉に銃口を向けた。
「君はまだ若い。生き延びて、後を継げ。私の知識も、データも、すべてその中に詰めた。老いぼれの私にできるのは、時間を稼ぐことくらいだ」
階下から悲鳴が上がる。引き裂かれるような断末魔。それは、また一人、尊き研究者の命が失われたという証。
時間がない。
「あれを、止めてやってくれ」
その言葉に、部下の男は決意を固め大きく頷く。
窓の外には緊急用の梯子が取り付けられているが、それを使って降りている時間は残されていない。
逃げるには──飛ぶしかない。高さ、約15メートル。打ち所を誤れば、簡単に命を落とす高さだ。
だが、自分が死ねば元も子もない。この成果物だけは……たとえこの身がどうなろうとも、守り抜いてみせる。
覚悟を決め、男が窓へと向き直った、その瞬間だった。
肉が断たれる嫌な音が鼓膜に届き、反射的に振り向く。
扉が開いたことにも気づけなかった。ほんの数秒、外に気を取られただけのはずなのに――部屋は、赤に染まっていた。
所長の首には、根元まで深々と包丁が突き立っている。
静かな足音と共に“それ”は部屋に侵入してきた。
全身血に塗れた姿は、悪魔以外の何者でもない。
「そいつをよこしな」
その見た目からは想像出来ないほど、威圧感のある低い声であった。
血まみれの右手を男に向ける。
「お前が……」
部下の瞳が、怒りに燃える。恐怖よりも遥かに強い、憎悪の色。
「くれないんだ。強情だね。無駄なことを」
藍春は口の端を吊り上げ、不敵な笑みを浮かべたかと思うと、その瞬間に地を蹴って一気に間合いを詰める。
しかし、男の方が僅かに速く、手にしていたジュラルミンケースを力任せに振り回した。
金属が空気を裂く鋭い音。
それは藍春の頭を掠めそうになったが、ひらりと身体を捻って回避する。
「いいねぇ!」
子供のような声で笑いながら、手にした包丁を繰り出す。一本の刃が、まるで何本にも分裂したかのように錯覚させる速度と軌道で、男の急所を次々と狙いすました。
男はジュラルミンケースを盾代わりに奮いながらも、その重さが反応に僅かに遅れる。
瞬き一つで致命傷を負う──そんな緊張が張り詰める。背筋が氷のように冷え、脳内で何かのリミッターが外れていくのを男は自覚した。
「ッ……!」
男はジュラルミンケースを思い切り振りかぶり、その勢いのまま鋭い後ろ蹴りを叩き込む。
その衝撃で、藍春の手から包丁がこぼれ落ちた。
「窮鼠猫を、引っ掻くってやつ?」
包丁を失った手を、藍春は空中でひらひらと振ってみせる。余裕そのものも態度だった。
「お前は猫じゃないだろ。虫ケラが」
男の吐き捨てるような言葉に、藍春は大きな目を丸くして一瞬ぽかんとした後、盛大に吹き出して笑い出した。
「おっしゃる通りだ」
その言葉と同時に、藍春の身体がふわりと動いた。
重心を低く保ちながら、滑るように床を蹴って間合いを詰める。武器は持っていない。しかし、それがむしろ彼の動きを自由にしていた。
最初の攻撃は、低い位置からの回し蹴りだった。男の膝を狙った一撃は寸前で止まり、フェイントとして体重の乗った蹴りが腹部へと跳ね上がる。
不意を突かれた男が身を引くと、すぐさま反転した藍春の脚が、上段へと鋭く振り抜かれる。首を狙った踵が風を切り、寸前でジュラルミンケースに弾かれるも、衝撃は男の肩を大きく揺らした。
「避けられるかと思ったけど、意外とやるね」
藍春は距離を詰めながら、連続して側面への蹴り、足払い、軸足へのストンプと、絶え間なく脚技を繰り出していく。軽い身体を活かしたその攻撃は、まるで踊っているかのように流麗で、しかし一撃一撃に殺意が宿っていた。
男はケースを盾にしつつも、脚の速さと柔軟な角度に徐々に押され、わずかにバランスを崩す。
その一瞬──藍春は低く身を沈め、床に転がっていた包丁へと飛び込んだ。
愛おしそうに凶器を手に取り、楽しそうに刃を傾ける藍春。その頬に僅かに返り血がついていた。
ようやく距離を取れた男は、ジュラルミンケースを片手で持ち直し、懐から銃を取り出す。迷いなど一切ない。藍春目掛けて容赦なく銃弾を打ち込む。
今までの研究員たちとは違う、ブレのない弾道。
「惜しいね。僕じゃなければ当たってた」
声は背後から聞こえた。慌てて肘を入れるが、空を切る感触しか得られない。
藍春はしゃがんだ瞬間に男の膝に蹴りを入れる。膝から崩れ落ちる男に覆い被さり、馬乗りになった。
包丁を突き立てようとした──その瞬間だった。
藍春の動きに、微かな揺らぎが走る。ぐらりと頭が傾き、その紅い瞳に、かすかな動揺が滲んだ。
ほんの一瞬。だが、戦いの中での一瞬は、永遠にも等しい。
「……今だ!」
男は咄嗟に叫び、全身の力を爆発させる。拳でも刃でもなく、己の全体重を乗せた渾身の蹴りが藍春の腹を捉えた。
鈍い衝撃音と共に、藍春の身体が吹き飛ぶ。床を転がり、包丁が手からこぼれ落ちる。金属音が硬い床に響いた。
男は構わず、手近にあったジュラルミンケースを抱き抱え、そのまま一直線に窓へと突進した。ガラスが迫る。目を閉じることもなく、顔を背けることもなく──ただ、走った。
「うおおおおおおッ!」
全身を貫く衝撃。鈍く響く破砕音。飛び散るガラス片が夜空にきらめき、光の雨となって背中を裂いた。
冷たい風が身体を包む。落下しているのだと、視界の中の世界が反転してようやく気づく。地面が近づく。だが男の腕の中には、守るべき“それ”が確かにある。
──何があっても守り抜く。それが自分の役目だ。
その一念だけで、ここまで来た。命なんて、とうに捨てていた。なのに──
「……嘘、だろ」
視線を上げた先に、藍春がいた。
窓辺に立ち、既に立ち直ったその姿。傷一つ見せぬ、紅い瞳。片手には、いつの間にか拾い直した黒い拳銃。冷たく、静かに、こちらを見下ろしている。
藍春はひと言も発さない。ただ、照準を合わせ、指を引き絞る。
乾いた破裂音。夜風の中で、あまりにも静かに響くその音が、すべてを終わらせた。
銃弾は、迷いも容赦もなく、男の頭部を貫いた。ほんの一滴の血さえも、風に消えるほどあっけない。それでも、落下する身体からはすべての力が抜け落ち、糸の切れた人形のように地面へと吸い込まれていった。
残されたのは、沈黙。
藍春は銃を下ろし、変わらぬ無表情のまま、ゆっくりと呟いた。
「──十八人。殲滅完了」
男が躊躇した高さを藍春はためらいもなく悠々と飛び降りる。
地面に軽やかに着地すると、男の身体から随分と離れた場所に転がったジュラルミンケースを面倒くさそうに拾い上げた。
そして、思い出したかのように振り返る。そこには一部始終を静観していた天使の姿があった。
「お前は、俺の仕事を最初から最後まで見た初めての観客だ。どうだった?」
誇らしげに問う藍春だったが、天使からの返答はない。
──理解が、追いつかなかったのだ。
目紛しく繰り広げられる殺人の数々。いとも容易く奪われていく人の命。
この国では、到底ありえないことだった。
何よりも、彼の身体能力。あれほどまでに軽快で正確無比に、そして機敏に人を殺せる人間を未だかつて天使はみたことがなかった。
彼は一体、何者なのだろうか。
「最後に言っておく。俺はお前のよく知る“藍春”じゃない。──“ヌエ”だ。覚えておけ」
月明かりの下、血に染まった顔で妖怪の名を名乗った殺人鬼は、不敵な笑みを浮かべた。
────
頭を割るような頭痛とともに意識が戻る。
耳を劈くようなサイレンの音が、頭の奥で鈍く響く痛みをさらに助長させた。
目の前にあるのは、ひしゃげた男の死体と血に塗れた自分の身体。片手にはずしりと重たいジュラルミンケースを握っていた。
状況を理解する間も無く、インカムから無機質な指示が入る。
藍春は、恐る恐る男の死体に近づくと、その顔を見て息を呑んだ。そして、震える指先でぎこちなく死亡確認を行う。
死因は高所からの転落ではないだろう。頭部に明らかに銃弾が撃ち込まれた痕が残っている。
確認するまでもなく、死んでいる。確実に。
その後もコンクリートで出来た建物──研究所のようだ──に入り、次々と現れる亡骸の死亡確認を義務的に行なった。
ずしりと重たいジュラルミンケースを片手に持ちながら、床に落ちている血の跡を辿っていく。
規模は違えど、この“後処理”を行うのは、もう何度目になるだろう。しかし、決して慣れることはない。
喉の奥が何度も波打つ。吐き気をこらえながら、それでも手は止められなかった。
「ハヤテは……全部見ていたの?」
何が起こったのか想像がつかないほど荒れ果てた研究室の中。そこに倒れていた三人の死体を確認したところで、藍春は震える声を絞り出し、天使に問いかける。
天使は何も言わず、静かに頷いた。その顔は苦虫を噛み潰したかのように顰められていた。
本当に、自分がやったのだろうか。
この惨状の犯人は、全て自分なのか。
その答えを、天使は知っている。
ずっと知りたかった。記憶を失っている自分がどうなっているのか──
そのはずなのに、今は知ることへの恐怖の方が勝っていて、口を開くことができなかった。
────
「君は、二重人格だ」
その声は、この世の物質に一切の影響を受けない。湿った石壁に囲まれた地下水路の中でも、天使の言葉は反響すらしなかった。
冬馬は地下水路の入り口──街の外れにある古い家屋の庭──まで藍春を送り、別の場所へと走り去っていった。
藍春は濡れた石段を下り、水音の響く地下へと足を踏み入れる。一度、息を深く吸い込み、胸の奥を震わせながら決意を飲み込んだ。
そして──出会った時以来、再び羽を広げて静かに宙を舞う天使に、問いかける。
返ってきたのは、思いがけぬ答えだった。
「……二重人格?」
藍春は驚きに目を見開き、その言葉を思わず鸚鵡返しにした。
二重人格──解離性同一性障害。
ひとつの肉体に、複数の魂が宿る病。部屋の医学書で見かけた記述のひとつにすぎない。藍春の持つ知識は、あまりにも断片的で、あまりにも薄い。
「ああ。君とは……まったく異なる、もうひとつの人格だ。本人も、そう言っていた」
天使の顔には、これまで見せたことのない陰が差していた。
感情のない仮面のようだった表情に、初めて人間的な歪みが現れる。苛立ちの色が濃く、眉間には皺が深く刻まれていた。
「“殺戮を行うための人格”だそうだ。常人には到底耐えられない、命を奪う行為の重圧。それに耐えるために作られた、ひとつの人格だと──」
「殺人専門の人格……」
藍春はぽつりと呟いた。
確かに、目の前の誰かを殺せと命じられて、即座に手を伸ばせる人間など、そう多くはない。
──それを痛感したのは、天使と出会ったあの夜。ここ、地下水路で剣呑に向き合った時だった。天使は無表情のまま、自分を殺してみろと唆してきた。
どこか夢のような、現実感のない光景だった。包丁を握った掌が震え、呼吸がうまくできなかった。
何度も訓練では繰り返してきた行動のはずだった。それなのに、実際に刃を向けるまでに、どれほどの時間がかかったことか。
──あの時、相手が自分に恨みを持った人間で、本気で殺しにかかってきていたら……。自分は、とっくに死んでいたかもしれない。
そんな自分が、どうしてあれだけの命を、これまで奪ってこられたのか。
疑問には思っていた。けれど、先生は一言、「記憶が消えているだけだ」と断じただけだった。それ以上、深く考えることさえ、許されなかった。
別の人格が、自分の中に巣食っていた。それが答えだった。
「それで……その、もう一人の僕って、どんな奴だったの?」
藍春の問いに、天使は再び沈黙する。
やがて、眉間の皺がさらに深まり、唇に触れた指先が、わずかに震える。
「……それは、知らない方がいい」
「は?」
「すまない。今それを話せば、僕は……冷静でいられなくなる」
その声の温度に、藍春は自分の頬から血の気が引いていくのを、はっきりと感じた。
天使から答えを引き出せないまま、いつもの部屋に辿り着いた。
壁も、空気も、照明も、すべてが変わらないはずだった。だが──
今日は、違って見えた。
冷たく乾いたはずの空間に、微かに温度がある気がした。
なぜだろう。胸が軽い。指先に触れる空気さえ、ほんの少し柔らかく思えた。
藍春は、まるで導かれるようにソファへ向かう。いつもなら一目散に風呂場へ向かうところを、今はただふらふらと、放心のまま歩いていた。
血と煤にまみれた衣服のまま、仰向けに身体を沈める。古びたレザーが、小さく軋んで軋んで、藍春を受け止めた。
「……別の、人格……」
言葉にしてみると、それは現実とは思えない響きだった。
天井を見つめながら、何度も何度も、その言葉を口の中で転がす。
これまで何度も、知らない誰かの血に塗れた手を見つめながら、胸が潰れるような罪悪感に苛まれていた。
それが──自分では、なかったのだ。
「……ふ、ふふ……」
喉の奥から、ひび割れたような笑い声が漏れた。引きつった笑み。感情の出口を見失った魂の、震えだった。
自分じゃなかった。
目を閉じれば浮かんでくる、血塗れの部屋。切り裂かれた肉。止まった呼吸。
あの光景のすべてが、自分の手によるものではなかったと──
それだけで、世界が救われるような気がした。
「う……う、うぅ……っ」
涙が、堰を切ったように溢れ出す。
ぽたぽたと頬を伝い、ソファの表面を濡らしていく。
嗚咽が混じりはじめる。それでも藍春は泣くことをやめなかった。
胸の奥底で、ずっと重く圧し掛かっていたもの。名前のない罪悪感、正体のない恐怖。それらが涙と共に流れ落ちていく。
天使が戸惑いの面持ちで立ち尽くしていた。
だが藍春は、涙を拭うことなく、ふらりと立ち上がると、そのまま彼へ歩み寄った。
「僕じゃなかったんだ……!」
叫ぶように、訴えるように、言葉が迸る。
そして──次の瞬間、藍春は天使の胸に飛び込んだ。
血の匂いをまとったまま、泣きじゃくる藍春の小さな身体を、天使は驚いたように受け止めた。
戸惑いに目を泳がせ、硬直したままの腕。
だが、やがて──
そっと、その腕が動いた。
まるで扱い方を知らないぬいぐるみを抱くように、不器用で、ぎこちない動きで、天使は藍春を抱きしめ返す。
言葉はない。ただ、静かにその細い背に手を添えた。
藍春は涙で濡れた顔を、天使の胸元に押しつけたまま、何度も繰り返した。
「僕じゃなかった……僕じゃなかったんだ……!」
その声は次第に震え、やがて、かすれた囁きに変わっていった。
天使は、何も言わなかった。
けれどその腕は、ほんのわずかに強く藍春を抱き寄せた。
その沈黙だけが、どんな言葉よりも深く、藍春の心に届いていた。
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