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3. アカシックレコード
天使がぺたぺたと足音を立てているのは藍春の部屋では無い。どこまでも白い空間が上下左右に無限に広がっている、人間にとってはとんでもなく異質な空間だった。
彼が今いるのは天上界だ。仕事の最中にこちらに来る理由はひとつしかない。
天使は目印も何もない空間の一点で立ち止まり、ふっと現れた空間ディスプレイに現れたキーを押す。
すると、どこを見ても白かった景色が突然別の世界に塗り替えられた。
そこは、どれだけ視力のいい天使であっても一番奥の壁が見えないほど、延々と本棚が続く巨大な図書館であった。
——アカシックレコードとは、この宇宙のすべての情報が記録されているデータベースである。そこにはもちろん、ターゲットである藍春の情報も手に入るだろう。
藍春は今、大きな誤解をしている。天使が「君の人生がわかる」と言ったことで、すでに情報を所持していると思い込んでいるのだが、実際にはそうではない。
ここ《アカシックレコード》にアクセスし、必要時に自身で情報を取得するシステムとなっている。
誤解を否定するタイミングを逃してしまったため、何か聞かれたときに備えて、基本的な情報をもう少し集めておこうと足を運んだ次第である。
手元に浮かぶ空間ディスプレイに再び指を伸ばしかけたそのとき、背後から名前を呼ぶ声がした。
振り返るとそこにもう一人、同じような格好をした桃色の髪の天使がひどく高揚した様子でこちらに向かってくる。
「聞いたぞペネム。厄介なことに巻き込まれたんだってな」
似たような顔、似たような髪型だが、その表情は天使──ペネムとは大きく違っていた。
天使は数え切れないほど存在するが、そこに特に差異はなく、ぺネムのように無感情で無機質な者がほとんどだ。
通常、天使同士で業務連絡以外の関わりを持つことはほとんどない。
だが、彼だけは自分から他の天使に絡み、饒舌に語るのが好きなようだ。
桃色の彼のまるで人間のようないきいきとした顔付きは、天使の中では一際珍しかった。
他の天使どころか神様まで彼を異質な存在と認識し、厄介者としてみている。
ペネムも例に漏れず彼を敬遠していたので、その顔を見て思わず憂鬱になる。天使という存在に強い感情を植え付けることができるのは、彼だけなのではないかと尊敬の念まで抱いてしまう程だ。
「……誰から聞いたんだ」
「んなもん御父様に決まってるだろ。まぁ、独り言を勝手に聞いただけだけどな」
天使独自にコミュニティを形成することはないが、同じ神様に使役している天使同士は所謂兄弟として扱われる。
彼は、ペネムの兄弟のうちの一人であった。
「盗聴だなんていい趣味してるな」
軽蔑の眼差しをくれてやるが、相変わらず彼はヘラヘラしていた。
「怒んなって。今回の仕事、まだ始まったばっかりだろ? 慣れてきたら話聞かせてよ」
彼も隣で空間ディスプレイを映し出し、何やら検索をし始める。──お前に会ったことが厄介ごとの一つだ、と言いたくなったのをぐっと堪える。
しかし今欲しいのは情報だ。しばらく悩んだ末、生まれて初めてペネムは彼に自ら疑問を投げかけた。
「……お前は、人間と話したことあるのか?」
「んー。内緒」
それはつまり肯定を示すのではないか。目を細め顔でそう伝えると、観念したかのように肩をすくめて改めて答える。
「僕はないよ。知り合いが当たっただけ。だから詳しくはいえないけど……知りたい?」
ペネムはしたり顔の彼に若干イライラしたが、そのやり取りに既視感を覚えて僅かな自己嫌悪感を抱いた。桃色の彼はペネムのそんな内情など露知らず、頷きを待たずして勝手に語りだした。
「そいつ、天使じゃなくなったよ」
「……は?」
「感情が生まれちゃったの。人間に対する憐れみってやつがね。そんで、仕事できなくなっちゃった。存在意義を見失って魂の養分になったって」
考えて行動する脳がある以上、天使だって感情が全くないわけではない。しかしそれが増幅すると、何やらややこしいことになるらしい。
「でも御父様はそんな深く関わった天使はいないって」
「記録上はね。これ、もみ消された機密事項だから誰にも言わないでね」
そう言って人差し指を口の前に立てる。
頼まれなくともペネムにはそんな話をする相手などいないのは桃色の彼もよく知っていた。
「馬鹿だよねぇ。天使が人間に恋をするってさ。人間にお前は蟻と交尾出来んのかって聞いてやりたいよね」
突然出てきた低俗な言葉にペネムは顔を顰めるが、注意する義理も気力もないので会話を続ける。
「人間が誑かしたのか」
「じゃなきゃ天使に感情は湧かないでしょ。とんでもない女豹だったって慄いてたよ」
「女豹って」
そもそも性質的に性欲が沸かない天使をどうやって誘惑したのだろうか。ペネムは、藍春が彼の主人に対するような態度で自分に甘い言葉を吐く姿を想像した。
だが、何の感情も動かない。精々沸くのは嫌悪感ぐらいだ。
「でもそいつさ、最初こそお前らみたいな能面天使だったのにその人間の仕事してる間めっちゃ楽しそうでさ。どんどん感情豊かになっていくの。羨ましくなかったと言ったら嘘になるな」
「お前だって感情豊かだろ」
「ぼくのこれは特別。それとこれとは違うの」
とある天使の結末を語った彼の目はどこか遠くを見ていて、それこそまさに"憐れみの感情"なのではないかとペネムは心の中で鼻で笑う。
「……そんな感情豊かなお前は人間に対する憐れみとかないのか」
「ないよ。僕は別に人間と話さないもん。話せてもあんなゴミみたいな連中と話したくない。あいつの悪いところは思考が人間レベルまで堕ちたところだから。高貴な心を持つ天使には関係ない、ねっ」
そう言いながら指を強く弾く。どうやら目当てのデータが見つかったらしい。
ペネムも返答をそこそこに会話を終わらせ、データの参照を再開する。
……が、空間ディスプレイが真っ赤に染まり、故障したかのような妙な異音を奏でだした。
「え!? なになに!?」
驚いた桃色の天使と同時にディスプレイを覗き込むと、そこには“アクセス権限がありません”の文字が踊っていた。
「なにこれ? エラー? 初めて見た」
「僕だって」
アカシックレコードにアクセスできなかったことなんて今まで見たことも聞いたこともない。そもそもアクセス権というものが付与されていることさえ今知った。
「これってさぁ。あれじゃね?」
「なんだ」
桃色の天使がわざとらしく咳払いをし、胸を張って答える。
「人間の情報は人間とのコミュニケーションで得なさい」
「……」
そんな馬鹿な話があるものかとも思ったが、現実は無慈悲なものだった。
その後、上司である神様に訊ねたところ、そっくりそのままの返答が返ってきて唖然としたのだった。
そして、何故か桃色の天使との接触も禁止になったが、こちらに関しては何も感じなかった。
────
「藍春様。冬馬様よりお言付けを賜りましたので参りました」
藍春の起き抜けにベッドの横に現れたのは、メイドの少女であった。
「冬馬様に急遽お勤めの予定が入りましたので本日のトレーニングは休止とのことです。ご査収のほどよろしくお願い致します」
メイドはベッドで半分寝惚けている藍春に目を配ることもなく、必要最低限の業務連絡のみ終えて返事も待たずに退室してしまった。
「あの子、今なんて……」
藍春は眠い目をこすりながら、ベッドの縁に腰掛けている天使に訊ねる。
「冬馬に仕事が入ったおかげで今日のトレーニングは中止だそうだ」
何故自分が伝言の伝言をせねばならないのかと天使が呆れて肩を竦めながら答えた。
それを聞いた藍春は大きく伸びをして満面の笑みになった。
「冬馬さんのトレーニングがなくなったのはラッキーだな。本当に厳しいんだもんあの人」
予定が沙汰止みとなった人間が往々にして行う行為、それが二度寝である。
彼も例に漏れず伸びをしたまま再びベッドに倒れ込むが、寝息を立てる寸前に思い出したかのように勢いよく起き上がった。
「こうしちゃいられない」
藍春は慌ててベッドから飛び降り、身支度を終えると急いで本棚前のデスクにノートを広げ始めた。
そして、その様子をぼーっと眺めていた天使をくいくいと手招きする。
「外の世界のことをもっと教えてもらいたいんだ」
ぽつりと落ちたその言葉に、天使は目を細めた。まるで夜の底から浮かび上がるように、不意打ちのような無垢な願い。藍春の視線はまっすぐで、その奥にある小さな希望を天使は見逃さなかった。
念のため、一度天界と通信を行う。
「許可が降りた。機密事項に触れない程度のことで、僕が答えられる範囲であれば」
「やった!」
藍春は思わず拳を握りしめ、小さく跳ねるように喜んだ。その動きがあまりにも子どもらしくて、天使はわずかに表情を緩める。
そのまま勢いに任せるように、藍春は身を乗り出して最初の質問を放った。
「普通の人って、どんな生活をしてるの?」
素朴すぎる問いに、天使は少しだけ言葉に詰まった。「普通」という言葉がどれだけ曖昧か──数えきれないほどの人間を見てきた彼には痛いほど分かっていた。
「普通の定義は難しいが……国が定めている義務や、世間的に良しとされているロールモデルというのはある。そうだな、君と同い年の男の生活を説明しよう」
天使はかつてのターゲットであった十四歳の男子児童のことを思い出しながら口を開いた。
「まず、朝は6時に起きる。正確には叩き起こされる、だな」
「叩き起こされるの!?」
藍春の目がさらに丸くなる。想像の中の“普通”との乖離があったのかもしれない。天使は少しだけ困ったように頷き、続けた。
「朝練とやらが7時から始まる」
「朝練ってなに?」
目を輝かせる藍春に、天使は肩をすくめるように言う。
「部活というものがあって……」
「部活ってなに!?」
畳みかけるような質問に、天使は露骨に眉を寄せた。
「……話が全く進まないじゃないか」
「だって、何にもわからないんだもん! わかりやすく説明してよ!」
すっかり楽しげな様子の藍春に、天使は小さくため息をついた。だが、その表情はどこか諦めではなく、ほんの少しだけ柔らかい。
「……まぁ、君の年代の一般人は、学校へ行き、勉学に励み、友達と青春を謳歌する。それくらいだ」
「学校ってどんなところ!? 青春を謳歌ってなに!?」
次々に飛び出す質問に、天使はとうとう頭を抱えるような仕草を見せた。
「逆に君は、外の世界のことをどこまで知っているんだ」
その問いかけに、藍春はふと黙り込んだ。少し俯いた顔に、影が落ちる。
「僕、は……」
言い淀んだその口元に、僅かに苦味がにじんだ。
「何も知らないよ。僕が外に出ている時間は、みんなが寝ているってことぐらい」
それだけを頼りに、想像だけで世界を描いていた。誰にも会えず、誰の声も届かない場所で。
その言葉に、天使はしばらく黙って藍春の横顔を見つめた。
「……なぜ、知りたがるんだ」
「なぜって……だって、外に出られるようになったら、僕も通うことになるかもしれないじゃん」
そう言った藍春の表情は、少し照れくさく、それでもどこか希望を滲ませていた。
天使は唇を開きかけて、すぐにそれを噤む。再び目を閉じ、短く瞑想のような沈黙を挟んだ。
そして、意を決したように目を開く。
「……それもそうだな。仕方がない。日本の教育制度から懇切丁寧に教えてやろう」
天使がそう宣言すると、藍春は待ってましたと言わんばかりに身を乗り出した。
「よし、それじゃまず“学校”ってとこからお願い!」
どこまでも目を輝かせる藍春の反応に、天使は若干たじろぎつつも、真面目な声色で口を開く。
「学校とは、集団教育の場だ。年齢ごとに区切られた教室に子どもたちが集められ、基本的な知識や社会的常識を学ぶ。義務教育は小学校から中学校までの九年間、これが法律で定められている」
「へぇ……教室って、どんな部屋?」
「四角い部屋だ。大きな窓があって、黒板が前に設置されている。机と椅子が整然と並び、それぞれに名前が書かれていて、指定された席に毎日座るんだ」
「毎日同じ席に? じゃあ隣の人ともずっと一緒なんだ?」
「そうなるな。席替えというイベントがある場合もあるが、基本的には学期ごとに固定される」
「なんか、ドキドキするな……」
藍春がぽつりと呟いたその声は、少しだけ遠くを見つめているようだった。
誰かと肩を並べて机に向かう――彼にとっては、それだけで夢のような非日常だ。
天使はその横顔をちらりと見たが、言葉にはせず淡々と続けた。
「午前中に授業が数本。昼休みを挟んで午後にも授業があり、だいたい15時か16時には下校となる。その後、希望者は“部活動”に参加する」
「出た、さっきの“部活”!」
待ってましたと言わんばかりの藍春に、天使は小さく息を吐く。
「部活動とは、共通の興味関心を持つ生徒が集まって行う課外活動のことだ。運動系なら野球部、サッカー部、文化系なら吹奏楽部や美術部などがある」
「へええ、楽しそう。みんなで何かするんだね」
野球もサッカーも吹奏楽も、どれも藍春にとって馴染みのない言葉であったが、多数の人間がそれらに興味を持ち、集っているとしたらどれもポピュラーなものなのだろう。
「そうだ。技術の向上が目的だが、団体行動を学ぶという側面も強い。チームワーク、協調性、責任感――多くのことを育てる場とされている」
「僕は……何部が向いてると思う?」
突然の質問に、天使は少しだけ考える仕草を見せた。
「……そういえば、“数学部”という部活がある学校も、聞いたことがあるな」
「え!? す、数学部!? あるの!? 本当にあるの!?!?」
それまでほわんと笑っていた藍春が、突如としてスイッチを入れたかのように目を輝かせ、両手をバンッと膝に置いた。
「ちょ、ちょっと待ってそれってつまり、好きなだけ数式を解いていい場所ってこと!? 因数分解とか、素因数分解とか、ユークリッドの互除法とかも!? あっ、まさか円周率の暗記大会とかある!? 偏角変換の暗唱とか!? 定理語り合ったりとか——いや待ってそれはヤバい! 僕、ガウスの平方剰余の法則を誰かと真面目に語れる日が来るなんて思ってなかった!!」
「…………」
完全に止まった。天使の思考が。
先ほどまで“外の世界ってなに?”などと言っていた少年と、目の前で超高速で専門用語をぶちかましているこの存在が本当に同一人物なのか、一瞬本気で疑った。
「……君、外の世界のことは全然知らないんじゃなかったのか?」
「え? うん、でも数学の本は山ほど読んでるから!」
即答。誇らしげな笑顔。眩しい。
「あと、ハミルトンの四元数の概念もすごいと思うんだけどね! でもそれ以上に、僕、素数が好きなんだ。孤高なのに規則性があるって、なんだか生き方みたいじゃない?」
「……なるほど」
いや、全然わからない。
天使は無表情のまま、内心で情報の整理に追われていた。どうやらこの少年は、情緒と数式の間に何の隔たりもなく飛び込めるらしい。天使にとっては不可解極まりないロジックだったが──
「……君は、実に、個性的だな」
「えへへ。褒められた」
嬉しそうに笑う藍春を見て、天使は不思議な感覚に囚われた。
この屈託のない笑顔は、誰よりも“普通”に憧れている、ただの少年"のよう"だった。
ふと、藍春が顔を上げて言った。
「……ありがとう。ハヤテ」
名前を呼ばれたことに、天使は一瞬だけ肩を揺らした。
何気ない呼びかけだったのに、その響きがなぜか胸の奥に染みこんでくる。
「礼はいい。君のその情報欲は、僕の想定よりはるかに手間がかかりそうだ。……覚悟しておけ」
「うん!」
藍春は嬉しそうに笑い、再び質問の嵐を浴びせようとする気満々で身を乗り出した。
天使は心の中で静かに、己の上司に毒づいた。──なぜ、僕がこの役目を。
だが、それでも。
この奇妙な時間が、ほんの少しだけ“悪くない”と思えてしまったことも、否定できなかった。
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